今日、まだ生きている

園田智

プロローグ

 目の前の信号が赤から青に変わり、俺は今日も今日とて高校への歩みを進める。


 高校に入学してはや、二年。俺も気付いた時には高校二年生になっていた。しかし、これまで特に部活動に心血を注いだり、ましてや青春に身を任せ、色恋沙汰に身を焦がしたわけでもない。朝が来れば、ベッドから這い出て、学校へと向かう。昼になれば一日学校で授業を受け、休日なんかは今頃ベッドから這い出たりもする。そして、夜になれば夜更かしをすることもなく休日だろうがベッドへと入り、眠りへとつく。



 緑川健の人生は面白みもなく、生きていて、なんの意味があるのかと聞かれれば俺も生きている価値があるのかと思う。


 むしろ、今すぐ死んでしまうのもいいのかもしれない。


 死ねば、転生なんて言って新しく生まれ変わり、今以上に良い人生を歩めるかもしれない。それこそ、人間に生まれ変わらなくても魚なら、その生涯をかけて、大海原を泳ぎ回る。動物に生まれたのなら日に必要な食べ物を取っては大地を歩き、走り、眠くなれば眠る。そんな生涯のほうが人間として生きている今の俺よりもずっと生き方としては良いはずだ。


 そんな高校二年生にして、春も去った五月。五月病が世の中に蔓延る中、俺は死ぬことを決心した。


 でも、そんな単純に死ぬことなんてできなかった。死ぬと決めてからもう今日で十日は過ぎていた。死ぬこと自体はそんな難しいことじゃない。でも、ただ死ぬだけなら、最後くらいロマンチックに終わりたかった。死ぬその瞬間まで空虚な人生というのもなんだから悲しいから、最後に一つ胸の晴れるようなことをしてこの世から去りたかった。


 それこそ誰かを救って、代わりに自分の命を差し出すくらいのことを……



 そして、その時は来た。



 それは俺が下校中のことだった。目の前にはこの二年間毎日のように渡って来た横断歩道があり、そこには本を読みながら歩く、一人の少女がいた。年齢にして十歳くらいだろうか。その足取りはゆっくりとしており、彼女は目の前が青信号だということを確認しているかいないかはわからないが、その歩みを止めることなく歩いていた。それだけなら別に問題はなかった。


 しかし、彼女が歩いている横断歩道に向かってトラックが減速することなく走って来ている。遠目ではあるため確信はできないが、トラックの運転手はハンドルに体を突っ伏しているように見えた。そして、おそらく意識を失っているのだろう。



「そこの女の子、危ないぞ!」



 誰かがそう叫んだ時、道を歩く人々はその少女よりも先に叫んだ男性の方を見た。


 その男性は叫ぶと同時にその場を駆け出していたが、おそらく間に合わないだろう。そして、その男性の声で改めて今、トラックに轢かれそうになっている女の子を視界に入れた人たちではとても彼女を救うことはできないだろう。



 俺の目の前にいる女の子は運が悪かったのかもしれない。



 俺は毎日この道を使って登校しているが初めて見る女の子だったし、そんな今日に限って気を失っているトラックが通って来たこと。あと、なぜかトラックのクラクションはならなかったこと。そして、そんな男性の声に気付いて初めて状況に気づいた女性の悲鳴がこだまし、やっと横断歩道を渡る女の子が本から視線を横に移したこと。


 何もかもが気づいた時には遅かった時、一部の例外がいた。


 視線を横に移した女の子を俺はできる限り強く。そして柔らかに押した。トラックが突っ込んでくるであろう位置から彼女を離脱させること。そして、その上で押した拍子で大きな怪我をしないように、必要最小限の力で彼女を押す。



 女の子は俺が押したことでこけてしまい、歩道の方へと転がるようにしてこける。


 そして、トラックはもうすぐそこまで来ていた。いまだにトラックの運転手の意識は戻らない。いや、今戻っていたとしてももう遅いが。


 誰もが認識してから遅かったから誰も小さな女の子を救うことはできなかった。でも、別に女の子に限らず、誰かの代わりに死のうと考えていた奴がいれば、誰よりも行動の早い奴がいてもおかしくない。だから、そんな女の子を救うことができたのだ。


 女の子は確かに運が悪かったのかもしれない。でも、唯一俺という存在がいたことが幸いだった。そうして、小さな女の子のこれからが救われたのだから。


 もしかしたら、俺の救った女の子は未来の芥川賞作家になるかもしれない。そんな風に妄想をすると、途端に誇らしくなった。



 そして、意外にトラックが来るのが遅い。もうすでに死んでると思ったが俺の意識はまだはっきりしていた。そして、トラックだけではなく他のすべてのものがゆっくり感じられた。そう分かった時、これが走馬灯なんだと分かった。



「最悪な人生だったな」



 そう、目を閉じて呟いた時、すっと自分これまでが想起された。


 小学校、まだ友達なんかもいた淡い記憶。そして中学に上がりそんな友達は部活を始め、部活の友達たちと仲良くしていくことで俺との関係は自然消滅。そして、高校は特に思い出なんかなくて、何も感じない。それ以上に何も感じないのは家庭のことだった。俺が小さい頃から父も母も家にはおらず、あるのはいつも書き置き。そして、月に数度顔をあわせる程度の関係。さみしいと思うことがあったのかさえわからないほどもう何も感じない。きっと、家族と関係をもう少しでも持っていればこんなことはしなかったのだろう。いや、それをいうなら、友達さえいたら、誰か一人でも俺の死を悲しんでくれる。考えてくれるような人がいたのならこんなことをしなかったのだろう。



 でも、思い当たる人は誰一人いなかった。



 さぁ、そろそろかな。そう思って目を開けた時、視線の先にはトラックがいた。死ぬ覚悟をしていてこんなことを思うのは情けないが、痛くしないでほしいな。一瞬で絶命したいと思った。一瞬で全て終わればいいなと。



「ごめんなさい」


「は?」



 声がしたと認識した瞬間、俺はトラックではない衝撃に襲われる。目の前のトラックは横にスライドしていき、俺がとっさに視線を向けた先にはトラックに轢かれた瞬間の女子高生がいた。

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