第三話 the world is hers② ~毒なんかじゃなく~

 クリスの眼前に広がるのは、つい先日走ったばかりの峠道。ちょうどバックヤードの裏手に位置するそこには、ただ木々が生い茂るだけ。


「あるわけないわよね、道路なんて」


 白いガードレール、黒いアスファルト、赤いスクーター。そのどれもがこの場所から跡形もなく消えていた。


「けど」


 何をしに来た。


 そんな脳裏をかすむ疑問に、彼女ははっきりと答えられる。




 確かめたかった。




 木々の間を獣道を、彼女は一歩づつ歩いていく。向かう場所はただ一つ、その名を彼女は口にする。


「世界の……裏側っ!」


 慣れない山歩きはそれだけで彼女の体力を奪った。それでも確かめなければならない。脳裏に焼きついた一言を今一度確かめるために。




 ――覚えていて欲しい、全部を。




 彼女は覚えている。あのふざけた腕相撲も、ショーコの軽口も、冷たいコーラの味も、自販機の下の硬貨の感触も。


 だから進む、もう一度。




 あの自称精霊に会うために。





「やぁ、待っていたよ」




 ――いた。


 見知った顔がそこにあった。




「私の予想より5分は遅いかな」




 滑らかに、優雅に。どこからか持ち込んだ椅子に腰を下ろし、優雅に紅茶をすすりながら。


「失礼ですがお嬢様の要求する基準が高すぎるのかと。もう少し他人の事を低く見積もってはいかがですか?」


 メイドまでつれて、彼女はいた。あの日世界の裏側へと進んだ、入り口の前を陣取る。


「アスカ……!」


 木漏れ日も横顔も、つややかな黒髪をかき上げる仕草も。


 完璧な姿で、そこに佇んでいた。


「遅かったじゃないか、クリスティア・R・ダイヤモンド。早く座ってくれないかな、紅茶が冷めてしまうじゃないか」

「はっ、何でそんなことしなきゃならないのよ」


 クリスがわざとらしく舌打ちをすれば、アスカは上品に笑い出した。


「おかしな事を聞くね。貴族の令嬢は……いや私達がおしゃべりするなら」


 空いた席の空いたカップにメイドが一杯の紅茶を注ぐ。


「茶でも飲むのが普通だろう?」






「毒は入っていませんのでご安心下さい」


 用意された椅子に座り足を組むクリスに、メイドが頭を下げながらそんな事を言う。


「信じろっていうの?」

「そうだね……なら君のために毒が入ってない根拠を三つあげよう」


 楽しそうに笑いながら、アスカが三本の指を立てる。


「まず一つ。そこのティーカップは中々の高級品でね、何でもある破産した貴族の愛用品だったらしい。毒で汚すのは忍びないな」


 差し出されたティーカップにクリスは嫌という程見覚えがあった。


 それは彼女の物だった。実家に置いてあったお気に入りのそれが今、目の前に差し出される。


「二つ目は、匂いでわかるだろう? その紅茶はいいものでね、是非そのまま味わって欲しいのさ」


 紅茶の味を確かめる機会など久しぶりで、今のクリスにはその上等さはわからない。


「最後は、うん……これが一番の理由だね」


 最後の一本を折りながらクリスは笑う。




「君を殺すのに……毒なんか生ぬるい方法を使ってられるか、だ」




 その全ての理由が、クリスに対して屈辱を味合わせるためのものだった。


 だからクリスはそれを受け取る。小瓶から角砂糖を二つ入れ、一口啜った。


「随分と嫌われたものね。ほぼ初対面でしょう私達」

「恨まれる理由がないとでも?」

「さぁ、星の数ほどあるんじゃない? 昔あんたの家にひどいことしたとか、あんたの友人を苛めてたとか……簡単に思いつくわよ。謝罪でもして欲しいの? ならするわよ、紅茶の分だけ」

「まさか、君の頭に何の価値も無いじゃないか。そんなものぶら下げられても不快になるだけだよ」


 皮肉の応酬はそこで途切れた。もう一度紅茶を啜り、クリスはゆっくりと辺りを見回す。


「あんたがここにいるってことは……あんたも覚えてるの?」

「何をかな? 君がゴリラとふざけた腕相撲でもしてたことかい? それとも私が一億円をプレゼントした不良にズルして勝ったことをかな」


 クリスは驚かない。ショーコの金の出所として資金の潤沢なアスカは何もおかしな事はない。


「そ、覚えてたの」


 そして何よりここにいるという事実。確かめるまでも無い事実だった。


 だが、それを。




「違う」




 アスカは否定する。


「知ってるいるんだよ、私は。何せ完璧だからね……君の知らない事だって、私は全部知っている」


 彼女の顔が大きく歪む。怒りで、憎悪で、ありとあらゆる負の感情で。


 そうする事しか出来なかった。


「ならさっさとこのご機嫌なティーセットを片付けて帰ってくれない? 柄じゃないけど私、その先にいるジャングルの妖精だかに用事があるの」


 クリスはそのまま話を続ける。それを聞いたアスカはすぐに表情を戻した。


「ああ、彼か……彼はいいね、君の熱心なファンだから」

「何のことよ」

「君は存外愛されているのさ。不思議だね、そんな魅力どこにあるのかな?」

「さぁ日頃の行いじゃないかしら」

「よく言うよ、君の日頃の行いが不甲斐ないからこそ、こんな茶番が開かれたってのに」


 また。


 また顔を歪めるアスカ。


「クリスティア・R・ダイヤモンド。いい名前だ、いかにも取ってつけたような名前がとてもいい。馬鹿で間抜けで意地っ張りな君にはもったいないぐらい長い名前だ」

「何がおかしいのよ」

「いや別に? ただ彼も君の名前を、何度も呼んでいたなって思い出してね。すまないクリスティア、すまないクリスティア……なんてね」


 上機嫌に声真似をするアスカ、舌打ちをして不快感を露にするクリス。


「ジャングルの精霊? 会ったの?」


 そこで、気づく。


 自分の名前をそう呼ぶ人間は数少ないという事実に。


「馬鹿だな君は、まだ気づかないのかい?」


 それから、このティーカップ。馬鹿だなとクリスは気づく。




「君の父親だよ」




 思わず立ち上がるクリス。


 ようやく理解した、自分の置かれている状況を誰が作ったのかと。


「あんたがっ」


 思えば父の破産と蒸発は唐突過ぎた。あれだけあった財産が消えたのは、いくら浪費と言えど限度がある。だが騙されたなら、陥れられたなら筋は通る。


 クリスはアスカの胸倉に手を伸ばす。その首を締めあげ、全てを吐かせようとした。


 だが、届かなかった。視界が歪み足元が崩れ、その場に倒れ込むしかなかった。


「何よ……これ」


 自分で言葉にして気づく、あまりの自分の間抜けさに。


「随分と早かったね、入れすぎたんじゃない?」

「いえお疲れのようでしたので、その分回るのが早かったのかと」

「毒、盛ったわね……!」


 悪態をつくクリスだったが、アスカとメイドは互いに見合わせ肩を竦めるだけだった。


「いや薬だよ、睡眠薬。毒じゃない……よな?」

「ええ、薬局で仕入れましたので」


 クリスが力一杯掴む。だが掌に集まったのは、ただの雑草と土くれだけ。


「ったく、あんた達」


 意識が遠のいて行く。だから口を出た言葉はせいぜい、何度も何度も繰り返した。


「……覚えてなさいよ」


 捨て台詞だけだった。

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