第98話 秋鮭のバター焼き(1)
深夜のマルゲリットの街。
篝火を焚いているのは大門前にある門兵詰所と衛兵詰所、旧王城の入口くらいしかなく、道を照らしているのは月明かりくらいだ。
夜の八時を知らせる夕ふたつの鐘が鳴れば、そこから朝一つの鐘の時間まで街の鐘は鳴ることはない。
耳を澄ませても声などが聞こえるはずもなく、街は静寂に包まれている。
だがその頃、目を覚ました少年がいる。
「んんっ――」
木板でできた窓も閉まっていて、ロウソクもない真っ暗な部屋の中、セリオは背伸びをする。
そう――皆が寝静まったこんな時間から、セリオの一日は始まる。
◇
木の枝で歯磨きを済ませたセリオは、最初に内庭にある井戸へと向かうと、蓋を開けて木桶を放り投げた。
深さは十数メートルある井戸である。
釣瓶などなく、ただ手で縄を引いて水を汲み上げなくてはならない。
一二歳の少年には結構な重労働だが、セリオはこの仕事を始めてもう二年。
この作業も毎日のことなので、体力もつき、いまは独りで水汲み作業を任せられている。
それでも、厨房にある水瓶は大きく、しかも三つもある。
何度も汲み上げては、水瓶に注ぐという作業を繰り返す。
二年前、セリオが見習いとしてこの仕事を始めたときは三回も往復することができなかったのだが、次第に力と体力もついているのだから、随分と成長しているのだ。
何回も往復し、厨房の水瓶を満たした頃、従業員らしき男が二人がやってくる。
「おはようございます」
セリオが先に挨拶すると、二人も同じように挨拶を返す。
「おう、おはよう」
「おはよーさん」
先に挨拶を返したのはこの店の副料理長を務めるフェデリコ。
天馬亭のオーナーであるウーゴよりも少し年下で、厨房仕事に関してはもうベテランの域に達している男だ。
次に返事をしたのがルビオ。
元は傭兵だったのだが、料理のセンスがよかったので料理番ばかりやらされていたという。そして、傭兵としての仕事で膝を痛めてしまい、料理人に転職したという変わった経歴の持ち主だ。
二人とも仕事には厳しいが、気のいいおじさんといった感じでセリオに優しく接している。
「水、終わりました。これから、火熾しします」
「おう、よろしくな」
セリオは七つある竈のうち、一つに火を熾す。
火を熾すには、火打ち石を使って乾燥した藁に火をつけて、そこから木の枝、薪という順番で火を大きくしていく。
そして、最後に起こした火を元に石窯に火を入れれば、朝の火熾しは完了である。
その間、フェデリコとルビオは昨日のうちに仕込んだパン生地を取り出して、再度練り上げる作業をしていた。
これから一次発酵が終わったパン生地を切り分け、形を整え、二次発酵させる。
形を整えるくらいであればセリオにも可能だが、流石に生地を練る作業はまだ難しい。
まだ育ち盛りのセリオでは、作業台の上に体重を乗せて練るような動きができないからだ。
「火の用意、できました」
「おう、ご苦労さん。じゃ、つぎは『ニンニク』と『玉ねぎ』の順で皮むき頼むわ」
火熾しを終えたセリオにフェデリコから指示がでる。
スープの具材になる野菜は、この時期だとニンニクと玉ねぎ、ニンジン、セロリ。そこに、干し肉を入れて塩で味を整えたものを出している。
パン生地の方は既に切り分けて寝かせる段階に入っており、フェデリコとルビオもニンジンの皮を剥いたり、玉ねぎを剥くという仕込みの作業に入っている。
フェデリコとセリオは小さなナイフを使って上手に皮を剥いているが、セリオは指先だけで皮を剥く。
まだ危なかかっしいので、セリオはナイフを持たせてもらえないのだ。
フェデリコやルビオが器用にナイフを使って皮剥きをする姿を見て、ファビオがつぶやく。
「いつになったら、ボクはナイフを持てるのかなぁ……」
「まぁ、ナイフを持てるようになったら本当の意味で半人前だ。あと一年もすれば大将が買ってくれるだろうよ」
そのつぶやきを聞いていたフェデリコが手を止めると、優しい目つきでセリオを見つめて答える。
セリオの手はまだ小さく、これから成長するに従い大きくなっていくだろう。
大きな手で小さなナイフを持つのと、小さな手で大きなナイフを持つのでは危険度が全然違う。
フェデリコとしては、本当なら一五歳くらいまではナイフをもたせたくないという気持ちもあるのだが、三年も見習いをしていれば野菜の下拵えくらいまでできるようになってもらえなければ困る。だからのあと一年という返事だ。
「そうなんだね。まだまだ見習いかぁ……」
セリオは残念そうに息を吐くが、料理人になるのはそんなに簡単なことではない。
マルゲリットでは衛生観念が低いのでまだ緩いが、現代日本であれば専門学校を出て調理師免許を持つ者でも、店に入れば下積みから始まり、掃除や調理器具の手入れなどが習慣になるくらいまで身に染み込ませるのである。
「みんなそうやって料理人になるんだ。セリオがこの宿の息子だからといって、俺たちは甘やかしたりはしないからな?」
甘やかして半人前のままにするつもりはないとルビオが言うが、それくらいセリオもわかっているのだ。
「はい、わかってます」
「よし、坊主。それがわかってるなら、皿洗い頼むわ」
「はい、わかりました」
昨夜、客に出した木皿や木匙、木のコップなどを水洗いする。
部屋で食事をするような上客だけ、特別に陶器の皿を使うことがあるけど、今日はない。
天馬亭は部屋数が多いので、収穫祭の時期のように満席になるほど客が入ると大変だ。洗っても洗っても、次から次へと汚れた皿が戻ってきて、洗った皿はすぐに客に出す料理が盛られて出ていってしまう。
冬の寒い時期、凍てつくような水を使って洗う必要がないだけまだマシだが、それでも一日の仕事が終わるとセリオの手はふやけたままだった。
セリオが皿を洗い始めると、ルビオが朝食のスープを刻み、煮込み始める。
沸騰する頃には石窯も充分に温まり、そこへ少し膨らんで大きくなったパン生地が入る。
パンを焼くのはフェデリコの仕事だ。
すると、食堂の方から声が聞こえる。
「おはようさん」
声の主は、この宿の主であるウーゴだ。
「おはようさんです」
「「おはようございます」」
ウーゴに歳が近いフェデリコは軽く、まだ若いルビオとセリオは丁寧に挨拶を返す。
「確認、お願いします」
ルビオはスープを小さな木皿に掬い、ウーゴへと差し出した。
ウーゴは香りを嗅ぎ、スープを啜る。
「よし、問題ない。今日もよろしくな」
スープの味付けには問題がないようだ。パンももうすぐ焼き上がる。
「はいよっ」
「はいな」
「はいっ!」
三者三様の返事をすると、お客さんを迎え入れる準備は完了だ。
厨房はここからが本当に忙しくなる。
◇◆◇
朝一つの鐘で街を出る客は、日の出前に朝食をとりにやってくる。
その後、街に残る商人や旅人たちが朝一つの鐘で目覚め、準備をして食事にやってくる。
そして、朝二つの鐘がなる頃には、厨房は平静を取り戻していた。
いまは、賄い飯を食べる時間だ。
日本であれば見習いが食事を作り、料理の段取りや仕込みなど普段から学んでいる成果を見せる場であるのだが、ここでは単に残り物を皆で食べるだけである。
スープは朝食として供したモノの残りもの。パンは昨日の残り物。
朝食では燻製肉を石窯で炙って焼いたものを出しているが、従業員にはそれはない。
セリオが遅い朝食を食べているところへ、ウーゴがやってくる。
「セリオ、おまえは明日が休みだよな?」
「はい、オーナー」
「先日連れて行った店なんだが、明日行ってきてくれないか?」
ウーゴがセリオを連れて行った店は、ひとつしかない。
東通りから路地に入ったところにある、海の魚を食べさせる店――朝めし屋だ。
だが、セリオはぼんやりと宙を見ていた。
忙しいときは本当になにも考える暇がないのだが、こうして思い出すきっかけを与えてしまうと、セリオはこうしてシャルのことを思慕してしまう。
――金灰色で花のような匂いがする髪に、二重でパッチリとした大きな目、キラキラと輝くピンク色の瞳がすごく綺麗だった。
セリオは記憶の中のシャルを思い出していた。
ウーゴもセリオの気持ちを知った上でこの話を持ちかけようとしているのだが、その先には大事な用件がある。父としてセリオをこちら側の世界に呼び戻さなければならない。
「おい、セリオ。聞いてるのか?」
「は、はいっ!」
驚いたような大きな声でセリオが返事をする。
ウーゴとしてはセリオが本当に聞いているのかどうか、微妙に判断に迷うレベルだ。
「明後日、私と母さん、イレネ、ロラの四人で行くとクリスティーヌ様に伝えてほしい。いいか?」
「はい、わかりました。明後日、オーナーと母さん、イレネ、ロラの四人で行くと言えばいいんですね」
「そうだ。明日、おまえが行くときにもう一度声をかけるから、頼んだぞ」
「はい」
ウーゴはそれだけセリオに伝えると、宿の入口へと向かう。
出発の準備が終わって街を出る客を見送りに戻ったのだ。
一方、セリオは明日が休みだということを忘れていた。
既に、一〇日以上続けて働いているのだが、本人はもう何日連続で働いているかなどわからなくなっている。
セリオは一〇歳で見習いになったので、現在は三年目。
先日まで、彼は仕事を覚えること、働くことに精一杯といった感じだった。仕事のことばかり考えて、自分の時間などというものはもう意識する余裕さえなかったのだ。
だが、シャルに出会ってからというもの、彼は大きく変化した。といっても、暇ができればシャルのことを懸想するだけだ。
――また会いたい。話してみたい。
そんなことばかり考えている。
そして、ギュッと心臓が締め付けられるような感覚に襲われ、心臓がなぜかバクバクと暴れていることに気がつくのである。
「おい、セリオ。皿洗いするぞ」
「あ、はい」
セリオはルビオに声を掛けられ、我に返り、残ったパンをスープで流し込んで厨房へと戻っていった。
昼の休憩時間になると、厨房にはウーゴが入ってくる。名物の牛スネ肉の煮込みの仕込みを始めるのだ。
この料理の作り方はウーゴ以外に誰も知らず、長年この宿で働いているフェデリコでさえ真似ることはできない。セリオが一人前になったとウーゴが判断したら、この料理のレシピが伝授される予定なのだ。
当然、その調理工程を覗き見ることは許されていないので、セリオは一度自室へと戻った。これから三時間程度の仮眠を取るのである。
麦藁を詰めたベッドに座り、セリオはまた独り想いに耽りつつ、ゆっくりと微睡んでいった。
◇◆◇
昼三つの鐘が鳴り、その音でセリオは目を覚ます。
正直なところ、セリオの睡眠時間は全然足りていなのだが、一旦シャルのことを思い出してしまうと眠れなくなってしまう。特に今日はウーゴに「明日行ってきてくれないか?」と言われてしまったので、期待が膨らんで余計に想いが強くなっているから仕方がない。
ぼんやりとした目線で、しばらくベッドに腰掛けていたが両頬をパチンと叩いて自分にカツを入れ、セリオは立ち上がる。
そう――これから夕食時間に向けた仕込みと、営業が始まる。
階段を下り、厨房へ戻ると既にフェデリコとルビオの二人は既に作業を始めている。
瓶に汲んだ水は夜の営業でもじゅうぶんな量が入っているので、セリオの仕事はまた野菜の仕込み作業だ。
それが終われば食堂の床掃除、椅子やテーブルの汚れを拭いてまわる。
「おい、セリオ。地下から赤二番の葡萄酒をとってこい」
ウーゴの指示に、セリオは素直に返事をすると、小さな瓶を持って店の地下室へと向かう。
奥から二番目にある赤葡萄酒の樽。その栓を抜いて、小さな瓶に注ぎ込むと重くなった瓶を持って厨房へと戻る。
「どうした? 真っ赤じゃないか」
一〇リットルほど入る樽を運んできたセリオを見て、ルビオが心配そうに声をかける。
地下室は薄暗く、ひんやりとした場所だ。それでも少しずつ樽から蒸発する酒精で充満した部屋に長くいると、セリオは酔ってしまった。重たい瓶を持って階段を上がったことで更にアルコールが回ってしまっていた。睡眠不足も祟っているのだろう。
「だ、だいじょうぶです」
自分の状態をわかっていないセリオは少しフラつきながら厨房の中を歩くと、ぺたりと座り込む。目を閉じれば平衡感覚を失い、グラグラと回っているかのような感覚が襲って気持ちが悪くなる。
一〇歳を過ぎれば小さな大人として扱われる世界。
たまに水で薄めた葡萄酒を飲むことがあるとはいえ、まだ伸び盛りの一二歳の少年にはアルコールはまだ早い。
「こりゃ、酔っちまったか?」
「そうみたいだなぁ」
セリオ自身はそこまで自分が酒に弱いという認識はない。
夕食に出る葡萄酒の水割りも毎日のように飲んでいるが、今日はまだ一滴たりとも葡萄酒に口をつけていないのだ。
だが、二週間もの間休みなしで働いてきたのである。疲労も睡眠不足が、それこそワイン樽の澱のように身体に溜まっているのだ。
「これでも飲んで休んでろ。おまえひとり抜けたところで問題ない」
ウーゴが湯冷ましの水を木のコップに入れてセリオに差し出した。
顔の赤みが消えて、少し青白くなった顔は状態がよくないことを示している。酔っ払って吐くときの客の顔色と同じだ。
「ありがとうご……ざいます」
力なく返事をしたセリオはコップを受け取り、水を飲む。
「ちょっと部屋まで連れて行くから、すこし頼む」
ウーゴはまだ小さいセリオの身体を抱えあげると、厨房をあとにした。
ウーゴは成長して重くなった息子の重さを感じながら階段をあがり、従業員が寝泊まりする屋根裏へと向かう。
自分が息子のセリオと同じくらいの年齢だったときはどうだったか。
ウーゴは改めて考える。 自分が跳ねる銀鯱亭で働き始めたのは一〇歳の頃。
軍港がある街で一番の宿だけに宿泊者も多く、客室稼働率も高い宿である。当然、同じように見習いで入ってくる者が何人もいた。
同じような時間帯に同じように働いていても、それは何人かで分担してのことだ。いくら自分が同じくらいの歳だったときはこうだったと言ったとしても、条件が違いすぎることに気がついた。
ウーゴはセリオを部屋に運ぶと、静かにその身体をベッドに下ろす。。
セリオは眠っておらず、ただ小さい頃によくこうして運ばれていたことを思い出していただけだ。
「そういえば、イレネが生まれる前は食堂で眠ってるおまえをこうして運んでいたなぁ……。
すまん、おまえはまだ半人前。だから体力も半人前ってことだってことを忘れていたよ。
それに、よく眠れていないようだな……目の下に隈ができている」
「ううん……ボク、疲れてたのかな?」
「そうだろうな。今日はゆっくり休むといい。あとで食事も届けさせる」
ポンポンとセリオの頭を叩くように撫でると、ウーゴは部屋を出ていった。
セリオは久々に甘えられるかと期待をしたようだが、それができずに少し残念そうに俯いてそれを見送った。
――ねむい。
アルコールのせいもあってか、セリオはそのまま浅い眠りへと入っていった。
◇◆◇
セリオが三時間ほど眠ったあとに目を覚ますと、妹のイレネが夕飯を持ってきた。
食堂の営業が終わる時間になったのか、パンと牛スネ肉の煮込み、湯冷ましの水を木のトレイに乗せている。
溢さないようにトレイの上ばかりを気にして歩くものだから余計に中身がこぼれているのだが、まだ背も低く力もないので仕方がない。
まだ九歳のイレネは、もう自分も大人だと思っている、おしゃまな女の子だ。
セリオが見習いに入って普段は厨房に籠りっぱなしで遊んでもらえない兄に一時は不満ばかり言っていたが、最近は自分も手伝いを始める年頃になってきたことで自覚がついてきたようだ。
既に看板娘だと自称し始めたので、母親のヘマも手を焼いている。
「ごはん、もってきたよ」
「ありがとう」
セリオの部屋にあるテーブルの上に食事を置いて、心配そうにセリオに声をかける。
「お兄ちゃん、だいじょうぶ?」
「うん、もう大丈夫だと思う。厨房の様子はどうだった?」
「もう収穫祭も終わって、お客さんも少なめだから落ち着いてた。
倒れるくらい頑張ってるからご褒美あげなきゃダメってお父さんに言ったら、今日は牛スネ肉の煮込みを出してくれたよ。
私はずっと食べてないのに……」
普段、まかないとして出る食事は客に出す料理と同じで、野菜と干し肉の煮込みが主だ。
夜になると、酒がでるので他の料理も出しているが、客に出すような高コストの料理を従業員やオーナー家族でも食べることはほとんどない。
「あははっ――じゃぁ、イレネが食べるかい?」
「だめよ。そんなの、私がお父さんに怒られるじゃない……」
「おいおい……」
――怒られるのが理由なのか?
「食べたらまたゆっくり休みなさいって――お父さんが言ってた。食器は朝でいいから、ちゃんと休んでね」
ひらひらと手を振りながらイレネは部屋を出ていった。
いつもより贅沢な食事を終えたセリオは、また寝ようとするが眠れない。
普段なら食事を終えるこの時間帯であれば、セリオは既に眠りについていなければいけない時間だ。
しばらく眠ってしまったことが原因なのだろう。
となると、始まるのはまたシャルへの懸想である。
そこで思い出すのは、明日が休みということ。そして、ウーゴから明日はシャルがいる店に行くように言われていることだ。
――また会える……。
そう思うと、また眠れなくなるセリオであった。
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