第64話 鱧のフライ(1)

 カンデがやってきた日の営業時間が終わる頃、仕事を終えたリックが店にやってきた。珍しく、門番の服装のままである。


「昨日来たときに言っておけばよかったんだが――」


 途中まで話しかけると、リックは何故か躊躇する。

 リックが朝めし屋までやってきたのは、収穫祭を前に不審な人物が紛れ込んでいないという保証がなく、シャルを心配してのことだ。

 だが、具体的に誰が怪しいというわけでもなく、確証もないので言いづらい。


「その……前にも話をしたんだが、もし他国の間者による工作で村が壊滅したんだとしたら、生き残りのシャルちゃんを狙う奴らには今がいい機会だと思うんだよ。だから、シャルちゃんをあまり外に出さないほうがいいと忠告しに来たんだ」


 リックは眉を八の字にしてシャルに対する気遣いを話すと、照れくさそうにクリスから視線を外し、後ろを向いてしまう。


「ありがとう。明日は休みだし、収穫祭の間はシャルは外に出ない予定にしているから大丈夫よ」

「――そっ、そうか……じゃぁ、そういうことで……」


 いつもとは違う調子でクリスが返事をすると、リックは少し拍子抜けしたようにかくりと膝の力を抜き、続ける言葉に迷いながら格好をつけて言葉を残すと大門の方へと向かっていった。


「どうして相手が見つからないのかしら……」


 その後姿を見つめながら、クリスは不思議そうに呟く。

 ここ数週間でも数日しか店に現れていないのだが、クリスやシャルとの会話でも明るくてノリがいいところもあるし、常々シャルのことを気にかけてくれている。

 リックの人格的には問題はなにもないのに、浮いた噂の一つも聞くことがない。

 ちょっと偏屈なところがあるし、仕事柄汗臭いこともよくある。生活が不規則で、共に暮らすとなればその皺寄せは必ず相手の女性に負担となって圧しかかるものだが、兵役につく夫を持つ家庭に生まれたのであれば当然のことだ。ずっと親と共に暮らし、それが平凡な日常であると受け入れている独り身の女性も多いはずである。


 だが、まだクリスには見えないところもある。それに、自分の友人や知人を紹介するのも難しい――貴族の子女ばかりだし、旧王城の領主館に務める女性に勧めればそれが命令に取られかねないからだ。


「ふむ……」


 クリスは腕を組んでリックが消えた四つ辻の角を見つめ、軽く溜息を吐いた。

 これは手を出さないほうがいいとクリスも諦め、暖簾を店の中に取り込むと、引き戸に鍵を掛けた。








 裏なんばでの営業時間は既に終わり、店の前で行われる撮影会も無事終了した。

 プテレアが現れてからというもの、裏なんばではプテレアが働いているのでシャルにとっては久々の本店のお手伝いである。

 当然、普段はまったりと時間が過ぎるマルゲリットの店とは違い、客の出入りが激しいのであっという間に時間が過ぎてしまう。特に今日は土曜日で、珍しくシャルが店に立っていたせいか、開店後からシャルのことを口コミで聞いて見に来た客も多いようだ。実際、八時に開店して九時前くらいからの客足がすごく、本来なら十一時に閉店するところなのが、十一時半まで営業することになったくらいだ。


「おつかれさま」


 静かにコーラの入ったグラマラスな瓶から栓を抜くと、クリスはシャルに声をかけた。

 だがシャルはぐったりとカウンターに突っ伏していて、わざとらしく白目を向いて死んだフリをする。


「久々のこっちの仕事だもの……疲れるわよね」


 ことりと音を立てて、コーラが入ったグラスをシャルの前に置くと、クリスも自分が飲むお茶を置いて椅子に座る。

 一晩かけて村から逃げてきた時から、まだ数週間しか経っていない。元々、母親が働けなくなってから村の人達に養ってもらう立場にあったシャルは栄養が不足していたのかとても痩せた身体をしていた。今では多少は改善したものの、同年齢の少女――レヒーナと比べるとやはり体力的には劣っている。


「うん……疲れたの……」

「明日はお店も休みだし、ゆっくりできるでしょう……シャルは、明日から始まる収穫祭って楽しみ?」


 シャルはこくこくとコーラを飲むと、目線だけをしばらく宙に彷徨わせる。そして、そっとグラスをカウンターの上に下ろし、クリスを少し見上げるように話した。


「うーん、シャルもわからないの。はじめての街のお祭りだから――かな?」


 村の収穫祭と、大きな街の収穫祭では比較にならないほど違う。

 村の収穫祭といえば、一晩中飲んで踊って騒ぐため火を炊く場所があって、祭壇がある程度のものだ。しかし、マルゲリットほどの大きな街になると街中が飾り立てられ、他の街から多くの商人がやってきて多数の屋台が立ち並ぶ。大道芸人や吟遊詩人なども集まり、人々を楽しませてくれる。

 だが、シャルはまだマルゲリットの祭りを見たことがないのだ。


「そっかぁ……じゃあ、明日の休みはシュウさんとどこかでかけてくる?」

「どこかって、どんなところ?」


 そのピンクの瞳をキラキラと目を輝かせて尋ねるシャルに、クリスは言い出したものの答えに困ってしまう。

 シャルを保護する前は、シュウとクリスで水族館や映画館、映画会社のテーマパークなどにもよく出かけていたし、京都や奈良、神戸などの観光地に行くこともあったのだが、ここで簡単にテーマパークだ、映画館だと言ってしまうと恐らく即答でテーマパークになるだろう。それではシュウの考えなどが反映されない。


「……うーん、そこはシュウさんに相談かな?」


 お茶をひと口飲み、少し時間を稼いでからクリスは返事をした。当然、丸投げすることを心の中で謝罪しながらなのだが、その場にいないシュウには伝えようがない。


「マルゲリットの収穫祭は人でいっぱいで、身動きもとれなくなるからね……。わたしは転移できるけど、シュウさんとふたりでこの街の祭りに参加しても、いざお手洗いに行きたいってときに困るじゃない?」


 この街の人達の衛生面に関する意識は低いので、正直なところ男女関係なく、その辺りで済ませてしまうという人も多い。女性の服装はある程度そういうことも考慮してロングスカートが基本になっている。

 ただ、水洗で温水洗浄機能のついた便器に慣れてしまった二人には、そんなことが耐えられなくなっていた。


「そうなの……お外ではもうできないの」

「だよねー」


 二人はカウンターに両肘をついて、同じように溜息を吐く。空気がほんの少し、重くなった場所に状況を理解していないシュウの声が響く。


「何を深刻な顔をしてるんだ?」


 訝しそうにクリスとシャルを見ると、シュウは二人の前にことりと音を立てて中皿を置く。

 皿の上に乗っているのは、軽食にとクリス特製のパンにいろいろな具材を挟んだサンドウィッチだ。


「いまね、わたしとシャルはもう温水洗浄機能付きトイレじゃないと生きていけないって話をしてたのよ……」


 柔らかいパンを両手で掴むと、手で潰すように厚みを減らし、そこにクリスは齧り付いた。

 シャルも同じように両手で掴んで潰そうとするのだが、そこまで強い力はないらしく、結局端から齧りつく。


 レタスやスライスしたタマネギに、スライスチーズ、たっぷりのハム、卵サラダを挟んだサンドウィッチは表面が軽く炙られていて香ばしく、口に入れるとふわっと小麦の香りが広がってくる。パリパリとした表面から歯が食い込むと柔らかいパンの内側をとおり、レタスのシャキシャキとした歯ごたえと、むにゅっとした卵サラダの食感を感じながらハムとチーズへと食い込んでいく。


 齧りついた歯型を両手にもつサンドイッチに残し、クリスはシャクシャクとレタスを噛む音を立てる。


 濃厚な旨みのある豚モモ肉のハムがその存在を舌の上で主張すると、レタスやタマネギが清涼感を加え、卵サラダがそれらをまとめ、クリスが焼いたパンが土台となってすべてを支えている。


「それで、明日はシャルとシュウさんで何処かに行ってきていいよって話をしていたんだけど……どうかしら?」


 もぐもぐと口を動かしながらクリスの話を聞いたシュウは、返事をする前にごくりと口の中のものを飲み込むと、手元に置いていたアイスコーヒーをひと口飲んだ。


「ああ、そういうことか――そうだな、たまにはシャルとデートするのも悪くないな……」

「ふぇっ? デートなの?」


 シュウが思いついたとおりに言葉にすると、シャルが驚いたように大きく目を開く。

 ただ、一緒に映画を見たり、観光地に行くだけのことなのだが、シャルも大袈裟だとシュウは微笑んだ。


「――で、何処に行きたい?」


 シュウは二つ目のサンドイッチに手を伸ばす。

 このサンドイッチは拳ほどの大きさで、大人の男性ならば二個くらいは軽く食べられる。


 シャルはサンドイッチを両手に持ったまま、宙を見上げて視線を彷徨わせる。


「んとね……シャルには行きたいところがいっぱいなの、わかんないの……」


 実際に、シャルには行ってみたいところや、乗ってみたいものがたくさんあった。

 平日の日本での営業時間中に見るテレビ番組ではいろんな場所が紹介され、そこには楽しそうな乗り物がある場所、新幹線、飛行機、美味しそうなスイーツ、料理、そしてコア異世界では見たことがないような海のある景色……。

 でも、いますぐにどれか一つを選べと言われると、選択肢を頭の中でぶちまけた状態になってしまい、選べなくなってしまうのだ。


 だんだんとシャルの表情は困惑に満ちてきて、強く尋ねると泣き出しそうな雰囲気に変わってきていた。

 それを察したクリスがシュウに向かって目配せすると、シャルに話しかける。


「そうね、突然どこがいいって言われると困るのもよくわかるわ。それに、行きたいって思ったところが駄目だって言われたら悲しいわよね………」


 そこまでクリスが言って、シュウもクリスの意図を理解したようだ。


「そうだな、日帰りで行ける場所で、朝早くから行けるところがいいだろ? 普段通りに起きて出かけられると気楽だからな……」

「そうね、その方がいいかも……映画のテーマパークか、動物園や水族館なんかもいいし、京都や奈良に観光に行くのもいいけど……」


 シュウが条件を出して、クリスがそのフォローをしていく。

 十歳の少女が仏像や神社に興味があるとは思えないシュウだが、クリスの出す案は観光客にとっては定番のものばかりである。


「あとは、神戸もいいぞ。デパートで見るケーキ屋の多くは神戸に本店があるからな……中華料理も美味しいぞ」


 ケーキと聞いた途端、シャルの瞳にまた輝きが戻った。

 アプリーラ村では食べることもできなかった甘いものが、日本には溢れるほどある。そのケーキが食べられる店がたくさんとなれば、シャルの気持ちも惹きつけられる。


「ケーキ! ケーキがいいの!」


 その声が出るときには表情に曇りはなく、パアッと花が咲いたような笑顔が戻っている。

 その素直な笑顔を見ると、シュウももっと喜ばせたくなってしまうのだろう。


「神戸牛っていう、脂の美味い牛もあるぞ」


 と、そこでクリスがシュウの足を踏みつける。

 その目はシュウを見つめてはいて、「それはわたしも行くときでしょう?」と強く主張しているのだが、残念ながらシュウには伝わらない。

 シュウが履いている靴は厨房用の安全靴だ。鉄板がつま先部分を保護しており、クリスに踏まれてもビクともしない。


 ただ、クリスの刺すような視線だけは感じ、そこから何かを汲み取ったようである。


「――買って帰って、晩ごはんにするか……な?」


 シュウが恐る恐るクリスの方を見ると、クリスは何も言わずに頷いていた。


 斯くして収穫祭当日はシャルを日本に連れていくことが決まり、仕事終わりの軽食タイムが終わった。







 月曜日の仕入れを終わらせたシュウと、シュウの家に帰っていたクリスとシャルが戻ってくると、夕食の準備がはじまる。

 厨房にはシュウが既に戻っていて、包丁でザリザリとリズムを刻んでいる。


「今日の夕飯はなにかなぁ?」

「――かなぁ?」


 日本での営業が忙しく、その後に家の片付けをしていた二人は慣れない運動も兼ねていたのか、とても腹を空かせているようだ。

 店に戻ってきて荷物を置くと、すぐに厨房へとやってくる。


「うわっ! 歯がギザギザで怖いお魚なの……」


 まな板の上にあった頭を見て、シャルが驚く。


 目の後ろまで裂けた口にはのこぎりのように歯が並んでいて、噛みつかれると大怪我することを予想させる。頭の後ろには綺麗に身を剥がされた背骨がまな板の向こうの端より先までつながっていた。


「あッ! 鱧じゃない」

「――ああ、祭りといえば鱧ってイメージが俺にはあるからな。そろそろ脂も乗ってくる時期だしな……」


 シュウは手をとめてクリスに返事をする。

 鱧の骨切りは皮一枚残し、一センチの幅に五回は刃を入れたいので集中力が必要だからだろう。使っているのは、専用の鱧切り包丁だ。


「湯引きじゃなくてフライにしようと思ってるんだが……お義父さん、今夜は来るのかい?」

「たぶん来るわ。シュウさんにがっしりと胃袋を掴まれてるからね」


 クリスは軽く眉を八の字にすると、両手を上げて困ったもんだといったポーズをとる。

 ただ、エドガルドが明日の収穫祭のときには街の下水工事の実施を発表したいと考えていて、シュウにどんな話をするのかも含めて相談したいと言っていたのだ。今夜は絶対に来るだろうとシュウは思っていた。


「だったら、二匹は捌かないといけないな……」


 包丁を持ち直してシュウがまな板に向きなおると、今度はシャルがシュウの左袖をくいくいと引いて尋ねてくる。


「お骨はどうなるの?」


 シュウは、包丁を持って骨切りを始める姿勢のまま宙を見上げる。


「……そうだな、いい出汁がとれるから、吸い物でも出すかな?」


 自分を見上げているシャルの目を見て答えると、シュウは笑顔を見せ、真剣な表情でまな板に向き直る。

 吸い物も出すとなると、どちらにしてももう一匹は骨切りしないといけない。

 シュウは深呼吸をひとつすると、また一定のリズムでざりざりと厨房内に骨切りの音を響かせるのだった。







 鱧の仕込みが終わる頃、エドガルドの娘として収穫祭の最初の催しに出席するクリスは事前の衣装あわせのために旧王城へ戻ってきていた。


 久しぶりに戻る旧王城の自室には、今回の収穫祭のために用意された服がいくつか並べられていて、クリスに袖を通されるときを待っている。

 どれもピンクや純白、赤や青といった美しいドレスなのだが、クリスはそれを見るとうんざりとしてしまう。パニエという、骨組みを身体に装着し、その上から着るようにつくられたドレスで、試着だけでも数時間かかってしまうからだ。そして、クリスはウエストを締め付けられて窮屈なパニエが好きではない。


「明日は自前の服で参列するしかないようね……」


 クリスは独り呟くと、音を立てずに扉を開けて廊下に出る。

 絨毯が敷き詰められた廊下は、とても長い。また、増築を繰り返して作られた部分もあるせいか、途中で部屋であったであろう場所なども通っていくので、すぐには到着しない。


「ガチャッ」


 クリスの歩いている場所からそんなに遠くない部屋の扉が開くと、銀色の髪を総髪に纏めた男性が中から現れた。身長としてはエドガルドと同じくらいなのだが、明らかに体格が細い。


 男性はクリスの気配を感じたのか、目を細めて廊下を歩くクリスを見つめている。


「ファビオお兄さま!」


 クリスはファビオとは対象的に、目をまんまるにして驚いた。

 普段、王都にいるはずの次兄がいる――マルゲリットに戻ってくるという話は聞いていなかった。


 クリスは駆け出すと、飛びつくようにファビオにハグをした。

 今年の春に急逝したソフィアの葬儀以来の再会にクリスの声も弾む。


「どうしてこちらに? わたくし、お父さまから何も聞いてないわよ?」

「ああ、わたしもプラドの街に仕事で行く予定だったのだが、途中でこの街を通るものだから少しゆっくりしようということになってね……ちょうど収穫祭にも重なって、宿もとれないものだから仲間と一緒にここに来たって感じだよ」


 ファビオはクリスの両肩を掴んで離すと、話す。

 ファビオの表情や口調にも再会の喜びが表れていて、廊下の一部だけとても明るい雰囲気が漂う。


「クリスは何をしていたんだ? 確か異国の男と暮らしていると聞いていたが……」

「わたしも明日の収穫祭の式典には参加するからね――衣装の確認をしに来たの」


 クリスは数歩先に進むと、振り返ってみせる。といっても、日本で着ている普段着だ。ただし、マルゲリットや王都でも見ることがないような素材でできている。


「――それに、今日はお父さまと夕食をする日なの。お父さまを呼びに来たのよ」


 クリスはそこまで話すと、ファビオをシュウに会わせていないことを思い出した。

 王都にいる長兄と妹、嫁いだ姉にはまだシュウを紹介できていない。いずれはと思っていたが、最初に紹介するのがファビオなら都合がいい。クリスにとっては自分と最も仲がよく、最も理解しようとしてくれる兄だからである。


「そうだ、ファビオ兄さん――お父さまと一緒に夕食を食べに来ませんか?」


 ファビオは一瞬困ったような表情をしたのだが、せっかくの誘いでもあり、久々の親子揃っての食事とあれば断る理由がないのである。


「ああ、わかったよ。仲間にはここで夕食をとるように伝えてくるから、あとで迎えに来てくれるかい?」

「――もちろんよ!」


 静かな廊下にうれしそうなクリスの声が響いた。

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