第61話 オムレツ(2)
クリスが崩れ去り、二十秒くらいは呪詛のような言葉がカウンターの向こうからぶつぶつと聞こえていたが、ようやく立ち上がる。
「じゃ、『豚朝食』でいいかしら? 叩いた『豚肉』と『タマネギ』を炒めて味付けした具を、溶いた『鶏卵』でふわりと巻き上げた料理なの。
「ああ、それでいいよ」
「うん」
クリスの説明にリックとアレホが納得し、頷く。
諦念の眼差しで二人を見つめたあと、クリスが厨房に向かって声をかける。
「『豚朝食』二人前、お願いしまーす」
「あいよっ」
カウンターの向こうからシュウの声がすると、それに続くようにリックがクリスに話しかける。
「シャルも、肩の力が抜けた感じがするな」
「ええ、ようやくね。わたしも、シュウさんも心から妹だと思ってることを理解してくれたみたいね」
村で育った十歳という年齢の女の子というのは街の子どもたちよりも元気に遊び回っているイメージがリックにはあった。ただ、住んでいた村の状況や、マルゲリットの街に辿り着いたときの栄養状態なども考えると、シャルに元気がないのも仕方ないとは思っていた。
ただ、今のシャルは天真爛漫な姿を見せている。
「あの子が、さっきの話にあった女の子っすか?」
「ああ、そうだ。この店にいれば安心だろう?」
他国の工作員が行ったという見方もあるアプリーラ村への襲撃。
その襲撃で生き残った少女がいるということが噂になると、その少女が狙われることも考えられる。だが、間接的にも街の領主の面倒を見ているとなれば、簡単に手を出せるものではない――ということだろう。
アレホが黙って頷くと、リックが話を続ける。
「でも、オレたちもしっかり門の出入りは見ておかないといけないんだよ」
「……」
アレホはすぐには言葉が出てこなかった。
今日も書類仕事を押し付け、リック自身が前に立って出入りする人たちや荷物の検品をしていたのは何故か……はじめて知った事実に、リックの行動が繋がった瞬間、アレホの胸に熱いものが込み上がり、心が、身体が震えだす。
「カッ、カッコ良すぎっすよ……」
アレホは自分の顔が紅潮し、声も手も震えていることに気がつく。
「あ? そんなんじゃないぞ……」
リックはちらりとアレホに視線を向けると、アレホの顔色など気にしないようにまた前を向き、どこか宙を彷徨うような目線で話を続ける。
「みんな守りたい人がいて、門兵や衛兵の仕事をしている。ただ、オレは孤児だからさ……あんなことがあって孤児になったあの子を守ってやりたいと思ってやっているだけだ。そこにオレなりのこだわりが絡んでグチャグチャになって面倒なことになってるけどな」
リックはくつくつと自嘲気味に笑う。
だが、アレホの真剣な視線はずっとリックに注がれている。
「考えても見ろよ……オレだって休みが必要だ。その休みの日に門に立ってる仲間を信用していないわけがないだろう?」
「まぁ、そうっすね」
リックの言葉にアレホも頷く。
「何かがあったらいけないから、みんなこの街の人たちのために真剣に働いている。でも、みんな家族や恋人、友人は特に守りたいと思ってるはずだよな?」
「ああ、そうっすね……」
当然、アレホにも家族がいて守りたいと思っているし、そのための門兵だという矜持がある。
「その中でオレは我儘に振舞ってるだけなんだ。ただ、アレホ――お前もオレの我儘に付き合ってくれると嬉しい」
リックはまた視線をアレホに向け、じっと見つめるアレホに目を合わせる。
アレホも真剣な表情で話を聞いて、ただ頷く。
「はーいはいはい、そこまでね!」
ことりことりと音を立て、リックとアレホの前にグラスが並ぶ。そのグラスにはきめ細かな白い泡で塞いだ琥珀色の液体がしゅわしゅわと音を立てていて、仄かに香ばしさを含んだアルコール臭が漂ってくる。
「もぅっ! そんな話を聞かされたらシャルの保護者としてはお礼の一つもしたくなるでしょう?」
きょとんとするアレホに対し、リックは両手の指をワキャワキャとカニの足のように動かし、「いいのか?」と目で訴える。
「こっ、これは?」
「エール……みたいな飲み物ね。これはサービス!」
「ヤッホゥ!」
アレホが戸惑う中、リックはグラスを持ってアレホのグラスに軽く当てると、ゴクゴクと音を立てて飲む。
「ええっ? この店は酒もあるのか?」
「お二人は夜勤明け。皆さんはこれからお仕事でしょう? 真剣にお仕事する前に飲んじゃダメです」
ビールの登場で店内にいた三名ほどの他の客が騒つくと、クリスが制する。他の客もわかっているのか、渋々といった感じで引き下がる。
そんな会話を聞いたアレホも少し肩の力が抜けたのか、ようやくグラスを持って口をつける。
カラメルのような焙煎香にホップの爽やかな香りが加わり鼻に抜けていくと、濃厚な麦芽の甘味や旨味、ホップの苦味が舌に伝わってくる。ごくりごくりと飲み込む液体が喉をヒリヒリと焼くが、その刺激が心地よく、喉の渇きが癒されていく。流れ込んだ液体が空の胃壁に触れるとじわりと熱を感じ、体も少し熱くなる。
「カーッ!」
強く目を瞑り、軽く首を傾げて俯きながらリックは声を上げる。その手のグラスにはビールが四分の一ほどしか残っていない。
「パァッハァ!」
同じくアレホも声を出し、なぜかリックと同じようなポーズをとっている。
「旨いな!」
「旨いっすね!」
リックとアレホの二人が感想を言いはじめる頃、ようやく料理が運ばれてくる。
「お待たせなの。『豚朝食』なの」
アレホは少し顔を赤らめ、シャルから丸盆に乗った料理を受け取ると、そろりとカウンターの上に置く。
左手前には炊きたてで艶々と輝く白いごはん、その右側には木を削って作った汁椀がある。今日の汁物はベーコンにキャベツ、ニンジン、タマネギ、じゃがいもなどをクタクタになるまで煮込んだ味噌汁だ。
そして、丸盆の奥には千切りのキャベツとカットしたトマトが並び、その手前に黄色い木の葉型で丸みを帯びた料理が鎮座している。
「オムレツは木匙が食べやすいと思うわ」
具を包んだだけのオムレツは、中身の具が崩れやすい。そのことを思い出して、クリスが木匙の使用を勧めてくる。
「最初はこの『味噌汁』、次に『ごはん』、それから主菜を食べるのがマナーらしい」
リックはそこまで話すと木匙を持って味噌汁を掬う。具だくさんな汁物なので、木匙は具材でいっぱいになるが、気にせず口に運ぶ。
それを見たアレホも木匙を手に取り、自分の味噌汁に目を向ける。
味噌汁には少量のバターがとろり溶けて汁に浮かんでいて、ぱらりと小さく砕いた胡椒が浮いているが、汁よりも野菜のほうが明らかに多い。
「ん?」
バターは料理を作る際の油として使ったり、パンなどを焼くときに生地に練り込むといった利用方法は知っているが、味噌汁の上に落として溶かす方法は珍しく、アレホもどうしてバターが浮いているのかが不思議で、つい声を出した。
だが、リックは食事に集中していて我関せずといった感じだ。
アレホは木匙を味噌汁に差し込む。汁と具材が乗って木匙が少し重くなるが、当然落としてしまうほどの重さではない。
アレホは木匙の上に湯気があがっているのでふうふうと息を軽く吹きかけ、味噌汁を口に運ぶ。
最初に流れてくるのはベーコンの燻製香。次に、小魚を煮出した出汁の香りと、味噌の香りが追いかけ、それらをバターの香りがまとめ上げる。
「美味いっす! 『味噌汁』の味付けと『バター』は相性が良いみたいっす!」
「うん、美味いよな!」
「スープの味付けは味噌っていうものを使っているのよ。『大豆』とか『米』や『大麦』を発酵させてつくるの」
アレホが高揚感を押さえきれず、味噌汁の味を説明すると、リックが同意し、クリスが味噌を説明する。
「へぇ、そうなんすね。『バター』がその『味噌』にコクを与えて、『胡椒』で香りを引き締めてるって感じっすね」
味噌汁を口にして、アレホは次は白いごはんに木匙を入れる。
木匙の上のごはんは、まだ炊きたてで艶々としていて、白い湯気をゆらゆらとあげている。口元に持ち上げると、そこからは仄かに生のナッツのような香りが立ち上り、霧散していく。
アレホはぱくりと木匙ごと口の中に白いごはんを放り込み、するりと木匙を口から抜き取り、咀嚼をはじめる。白く小さなごはんつぶはむっちりとした食感を歯に伝えてくるが、やがて唾液に溶けて甘みを舌にもたらして広がっていく。
「この『ごはん』ってのは、はじめてだけどじんわりと優しい甘さがあっていいっすね……」
「ああ、主菜や『味噌汁』、『お漬物』にも合うんだよ」
リックは食べ慣れた様子で箸を使い、ドレッシングがかかった付け合せのキャベツの千切りを食べている。
「その棒、何っすか? あとこの、四本爪の――」
アレホはリックが使っている箸が気になるらしい。また、四本爪のフォークもマルゲリットでは見かけない道具である。
「ああ、これは箸という道具だ。四本爪はフォークだよ。どちらもこの店の料理人をやってるシュウさんの国のものらしい」
「へぇ、四本爪って珍しいっすね。宿屋や酒場じゃ肉用の二又か、棒の先に爪を三本つけたような感じの形しか見かけないっすよ」
そういって、アレホはフォークを手に取り、千切りのキャベツに差し込む。爪と爪の間にキャベツが入り、とても使いやすい。
「ああ、これはいいっすね――」
アレホはその使い易さに感心して独りごちると、キャベツを口の中に放り込む。
爽やかな胡椒の香りが鼻腔に抜けると、ふわりとオリーブオイルの香りが追いかけてくる。舌に直接感じるのは塩とワインビネガーの酸味。だが、しゃくしゃくという歯ざわりを楽しむと、少しずつキャベツから甘みが広がり、鼻腔にもキャベツの青い香りが広がっていく。
アレホはしっかりと噛んだ後に飲み込むと、また独りごちる。
「うん、『キャベツ』が瑞々しくて甘いっす」
「この『トマト』も青臭くなくて甘い……こんな『トマト』があるんだな……」
ほぼ同時といったタイミングでトマトの味を褒めるリックの声を聞こえると、アレホはちらりと横目にリックを見る。だが、リックは既に木匙を持ってオムレツに手を伸ばそうとしているところだ。
アレホも慌てて木匙に持ち替え、食べやすそうな大きさになるように木匙を差し込む。
「おおっ……」
アレホは小さく感嘆の声をあげる。
卵で包んだ料理だと説明をされていたのだが、その卵はとても薄く、中には具である炒めた豚挽き肉とタマネギがたっぷり入っており、一気に湯気が立ち上がる。炒めたタマネギの甘い香りと、濃密な豚の脂の香りがその湯気とともに広がってくる。
それを見て思った以上に肉の味を楽しめることに嬉しくなったのか、アレホはにやりとした笑顔を浮かべ、オムレツを掬って口に運ぶ。
豚の脂の匂いとタマネギの香りに加え、爽やかな胡椒の香りが鼻腔に抜けていく。舌には肉汁と脂の甘味、タマネギの甘味がちょうどいい塩気とともにじわりと広がってくる。ポロポロとした肉に歯ざわりを残したタマネギ、火を通しきらずにとろりとした卵がそれぞれの食感を楽しませてくれる。
ほとんど同じようなタイミングでオムレツを口にしたリックとアレホは、まんまるに目を見開いて視線を合わせる。
「うまいっ!」
「うまいっす!」
それはまるで兄弟のように息のあった動きで、それを見ていたクリスも嬉しくなったのかつい声を掛けた。
「数回噛んだら、追いかけるように『ごはん』を口にいれて一緒に食べるといいわよ。あとは……このソースを掛けて食べると更に美味しくなるわ」
クリスはリックとアレホの間に、黒い液体が入った陶器のミルクポットを置く。これはウスターソースだ。
カウンターに向かって左側にアレホ、右側にリックが座っている。二人とも木匙を右手に持っているので、必然的に空いた方の手で取れるリックがミルクポットを持ち、ちょろちょろとオムレツにウスターソースを掛け、木匙を置いたアレホに向かって差し出す。
先にミルクポットを取られたアレホは少し拗ねたように口を尖らせたあと、ムスッとした顔に変わっていたのだが、思ったよりも早く自分に回ってきたのか表情を緩めてそれを受け取り、リックと同様、ちょろちょろとオムレツにソースを掛けていった。
アレホがミルクポットをリックとの間に置くと、リックが一段高くなった場所に移動する。
「お代わりごはん、持ってきたの! いっぱい食べてなのっ!」
シャルの声が後方から聞こえると、木のお櫃がリックとアレホの間にどんと置かれる。
リックは特にシャルが持ってくるのを見ていたわけではないが、シャルが持ってきた時に置き場所に困らないよう、ミルクポットを避けておいたのだ。
アレホはリックのその気配りに目を見開く。そして、アレホがリックを見る目が、ただの同僚を見る目から尊敬のようなものと、憧れが混ざった視線に変わっていった。
リックがあまりにサラリと気を配る姿は、門兵という仕事をする上では必要にならないことも多く、アレホは見ることも気づく機会がなかった。だが、こうして一緒に朝食と食べに来ることで、アレホはリックの持つ思いやりの心と優しさを直に見ることができたせいだろう。
「――カッコいいっすねぇ」
アレホは小声で呟くと、ウスターソースの掛かったオムレツに木匙を入れ、大きく口を開けて木匙ごと咥えると、木匙を舐めるように取り出す。
鼻腔には先ほどと同様、豚の脂の匂いと炒めたタマネギの甘い香り、爽やかな樹皮のような胡椒の香りに、数種のスパイスと発酵し酸味を帯びたソースの香りが押し寄せてくる。舌にも先ほど同じく豚の脂と炒めたタマネギの甘みがひろがるが、そこにウスターソースの旨味と酸味、仄かな辛味が加わって、濃厚で複雑なうまさが組み立てられていく。
アレホはクリスが説明したように、二回、三回と噛み、白いごはんをがばりと掬って口に入れる。オムレツの複雑に絡んだ味が白いごはんに染み込み、味わいを更に深くする。
「
オムレツとごはん、アレホの口を木匙が何度か往復し、茶碗のごはんがなくなる。
アレホは右手の木匙を丸盆の上に置いて、シャルが持ってきたお櫃を開くと、中にある杓文字を右手に持ってごはんを掬い、茶碗に装っていく。
その様子はウォーレス行うほどではないが、こんもりとした山のようになっている。
「若いな、でもオレも負けてられない」
年齢的に三歳しか違わないリックも負けじお代わりごはんを装うと、またオムレツに木匙を入れて食べ始める。
ガツガツとオムレツとごはん食べる中、ふたりは自然と味噌汁を口にする際は木匙ではなく、木椀を持って口に付けて啜るようになってくる。だが、今日の味噌汁は野菜がたっぷり入った具だくさんな味噌汁だから、ただ啜るだけでは汁ばかりなくなってしまうので、木匙で掻き込むような食べ方になってくる。
いりこ出汁と燻製肉の香りが、豚の脂や炒めたタマネギの香りに飽きてきた鼻腔の中を塗り替えていくと、出汁と具材となったキャベツやニンジン、ジャガイモなどから出た野菜の旨みが舌をリセットし、単調だった食感にメリハリを与える。
ただ、同じ食べ方ばかりをしていては舌や鼻が慣れてくる。
「ふぅ――」
軽くひと息吐いたアレホは右手をフォークに持ち替えると、最初に配られた漬物の盛り合わせにフォークの爪を立てる。ハクサイの漬物だ。
口に入れたハクサイの漬物には少し酸味があるが、白い部分はパリパリと心地よい食感を楽しめ、じわりと吸い込んだ旨みを口の中に溢れ出す。
「これも『ピクルス』とは違った美味しさがあるっす……」
ハクサイの漬物の僅かな酸味が口の中の脂を流しさり、次のひと口へとアレホを突き動かす。
赤い色がついた柴漬けはショウガのジャクジャクという食感、キュウリのパリポリとした食感を楽しむと、赤紫蘇の香りと酸味が舌や鼻をリセットする。
柚子大根はパリポリとした食感に加え、甘酸っぱい漬け汁が口いっぱいに広がり、柚子の香りが鼻に抜けていく。柴漬けとは違う爽やかな香りが、また食欲を刺激する。
リックとアレホは漬物で箸休めをしつつ、三杯のごはんでオムレツと味噌汁を完食した。
「ふぅ……久々に腹いっぱい食ったっす」
「そうか、そりゃよかった」
食べ過ぎなのか、ぽこりと膨らんだお腹をアレホが擦りながら話すと、リックが会計を済ませるために席を立つ。
リックはぼそぼそとクリスの耳元で囁いているが、クリスは真剣な表情でその話を聞いており、大事な話をしているのだろうとアレホは勝手に想像しつつ席を立つ。
「そういえば……」
店を出ると、アレホが思い出したように尋ねる。
「初めてだと緊張するっていうのは――クリスティーヌ様のことっすか?」
「いや……たまに領主のエドガルド様がお忍びでくることの方だ」
アレホはリックの返事を聞いてぽかんと口を開けて立ち止まる。
「ああ、それは緊張するっす……」
アレホは空を見上げて全身から力が抜けたような仕草をすると、ぼそりと呟いた。
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