第59話 秋刀魚の塩焼き(2)

 厨房の中ではシュウとクリスが忙しなく動いている。盛り付けをするシュウと、ごはんや味噌汁を装うクリスが同じメニューを一気に仕上げているのだ。

 やがて、そのくるくるとした動きも収まり、クリスとシュウがカウンター席に料理を運んでくる。


「おまたせしました、今日の『魚朝食』――『秋刀魚』の塩焼きです」


 ことりことりという音と共に、ウーゴとセリオの前に丸盆に乗った料理が現れる。

 いつものように左手前には茶碗に盛られた炊きたての白いごはん。その隣には、汁物椀に入った味噌汁が用意されている。具材はもやし、ニラと豚肉だ。

 そして奥には四角い皿いっぱいに横たわる細長い魚――秋刀魚である。


「おおっ!これが『秋刀魚』という魚なのか」


 少々前のめりになりながら、ウーゴが焼けた秋刀魚を覗き込む。

 じうじうと自らの脂で皮や身を焦がす音が聞こえ、背の青い魚に共通する香りに、秋刀魚独自の香りが加わっているのだろう――イワシやアジ、サバなどとも違う香りが立ち上ってくる。その背側の身には切り込みが入っていて、周囲には黒く焦げた皮もあれば、焦げ茶色に焦げた部分、流れた脂が焦げついたのか黄金色に輝く部分も見える。また、その細長い魚の口先は黄色く、頭の割に目が大きいように感じる。頭の付け根から背びれにかけて肉がこんもりと盛り上がっていて、腹は今にもはじけそうなほどに膨れ上がっている。すらりと長い魚体は頭から尾まで三十センチは軽く超える大きさである。


「昨日までは生でも出していたのですが、今日は塩焼きにさせていただきました」

「なにっ!ああ――どうしてわたしは昨日来なかったんだ……」


 一昨日に仕入れた二十匹程度の秋刀魚は試食と昨日の朝食で半分以上がなくなっていた。鮮度が落ちる三日目になると、さすがに生食での提供は避けたいということだろう。

 シュウの一言は、海の魚を生で食べることを楽しみにしていたウーゴにとっては、少し辛い情報であったようだ。


 一方、セリオは街で見かけることがない海の魚をはじめて目にして少し感動していた。この街で海の魚を見かけても干し鱈程度のもので、既に解体されていて原型を留めていることがないのだから仕方がない。

 セリオの目の前にある焼き魚の金色や銀色に輝く腹の皮は新鮮であることの証拠であるし、じうじうという音、鼻腔を擽る香り、パリッと焼けた皮と裂け目から流れ落ちる溶けた脂を見ていると、すぐにでも食べたいという衝動に駆られる。

 そのとき、ふと皿の縁近くに目をやると半透明な白い塊と、半分に切られた緑の小さな果実が転がっている。


「これは……」


 セリオがポツリと呟くことでクリスが気がついたのか、カウンター越しにセリオを見ると、彼の視線の先にあるものの説明を忘れていたことを思い出す。


「あ――白い塊は、『だいこん』を荒く擦りおろして作った薬味です。そこに醤油をかけて、魚と一緒に食べると美味しいですよ。あと、緑の果実は『すだち』といって、お好みで『秋刀魚』の身に絞りかけて食べてくださいね」


 クリスが基本的な食べ方について説明するが、既にウーゴは珍しい四本爪のフォークを持ってつんつんと焼きたての秋刀魚の腹を突き、徐に口を開く。


「これ、内臓が入ったままか?」


 ウーゴがいたダズールの街では、魚の料理をする際に必ず内臓を処理していた。苦みが強く、身の部分に臭みがつくこともあるためだ。

 クリスはその質問を想定していたかのように少し口角を上げて、返答する。


「ええ、入ったままですよ。この『秋刀魚』という魚の内臓は少し苦味があるけど、身と一緒に食べるととても美味しくなるの。『牛』のスネ肉を『トマト』で煮るときに苦味のあるものを入れると味に深みが出るでしょう?」


 クリスの上がった口角はそのまま少し悪戯っぽい笑みに変わる。

 ウーゴの店では牛スネ肉のトマト煮が名物のひとつである。その隠し味はウーゴ以外に誰も知らないはいはずなのだが、そのヒントを知っているかのようなクリスの一言にウーゴは背筋に冷たいものが走るような感覚を覚える。


「その少しの苦味が身の味に深みを与えてくれるの。『すだち』を内臓に絞り、『だいこん』をまぶして食べるといいですよ」

「ああ、わかった。ありがとう」


 なんとなく納得したようなウーゴの顔を見て、クリスは更に付け足す。


「あ、内臓までしっかりと火は通っていますのでだいじょうぶです。でも、苦手なら残していただいても結構ですよ」


 にこりと笑顔を見せると、「どうぞごゆっくり」と言葉をかけてクリスが下がる。それを見て、セリオはウーゴの服の右肘あたりを摘んでくいくいと引っ張る。


「父さん、これはどうやって食べればいいのかな?」

「そうか、セリオは初めてだからな……最初はこの味噌汁のスープに口をつける。少し、白いごはんを食べるのがマナーだそうだ。ここまではいいか?」

「うん……」


 セリオは眼前にある味噌汁と白いごはんを交互に見つめ、木匙を右手に取る。


「どの魚も同じなんだが、腹側と背中側で色が違うだろう? この境目からナイフを入れると背骨に当たる。背中側の身を剥がす……ここにはナイフがないから峰の部分を使うんだ。その木匙でもいいぞ」


 ウーゴがフォークを使って腹と背の境目にフォークの峰を当てると、ぽろりと背側の身が剥がれる。続けて腹側の身も同様にフォークで剥がそうとするが、腹骨が多い部分にはゼリー状になった脂がたっぷりとついていて、それを見たウーゴは感嘆の声をあげる。


「すごい脂だ。少し触れただけで皮が弾けるように裂ける……これは美味いはずだ」


 ウーゴはとても丁寧に腹側の身を剥がしていく。腹骨があればそれは摘んで皿の端に寄せ、腹膜を破って内臓が出てこないようにしている。


「ここまで食べたら、背骨を首元と尾の部分から折って剥がせばいい」

「父さん、さすがだね。すごくきれいに身がとれるんだね」


 ウーゴは少しだけ得意げな顔をしてセリオを見つめる。

 セリオは味噌汁に木匙を入れて、軽く混ぜると掬い上げた汁を口の中に流し込む。


 いりこでひいた出汁の香りが味噌の風味に負けずに調和している。その具である豚肉の脂と肉の香りも、ニラや少量加えられたニンニクの香りが加わることで一体感を増していて、食欲を唆る。木匙に少し入っていたもやしがシャクシャクとしていて少し爽やかにさえ感じてしまう。


「うちの店のスープと全然違うけれど、これはこれで美味しいですね」

「そうだな……異国の料理だからな」

「そうなんだ……」


 ウーゴの説明は少し意外だったが、セリオにしてみると味噌汁の出汁は初めて味わう風味がしているし、そこに加えられた味噌の風味も初めての経験だ。異国の料理という説明はとてもわかりやすいもので、納得したようだ。


 次にセリオは茶碗に入った白いごはんに木匙を入れる。ほろりと木匙の壺部分に入ったごはんは艶々と輝いていて、冷めて薄くなった白い湯気をゆらゆらと立てている。

 少量ではあるが、口の中に入った白いごはんを咀嚼すると、少しずつ唾液と混ざり合い、やさしい甘みが舌に広がってくる。


 口の中のものをごくりと飲み込んだセリオは、父親に教わったとおり秋刀魚の背と腹の境界部分にフォークの峰を当てて背中の身を剥がす。ウーゴと同様にポロリと背中の身を剥ぐと適度な大きさに峰で切り、爪に刺して口に運ぶ。


 その姿を見て特に問題はなさそうだと思ったのか、ウーゴも漸く背中の身を切り分け、フォークに刺して口に運ぶ。


 皮には鱗が一切残っておらず、しっかりと塩が染み込んだ背側の身は締まりがあって噛みごたえがある。ぎゅっと噛むと秋刀魚の身から旨味がじわりと舌の上に広がり、秋刀魚らしい香りが仄かに鼻腔に抜けていく。


「殺人魚の仲間っていうから心配していたが、『アジ』や『イワシ』、『サバ』とも違って、美味いな」

「ええ、父さん――美味しい魚です」


 二人は同じようにフォークでごはんを救って食べる。

 口の中に残った塩気と秋刀魚の味が白いごはんに混ざり合い、噛むほどに甘みが広がってくる。

 二人はごくりと飲み込むと、木匙に持ち替えて味噌汁を掬う。

 見た目に関してはウーゴとセリオはあまり似ていないが、まるでセリオが真似をしようとしているかのように同じ動きをする。


 次に、ウーゴは大根おろしに醤油をかける、またフォークを持って秋刀魚の腹膜を破って内臓を顕にすると、すだちを絞りかけた。

 クリスの話した内臓の食べ方を試そうというつもりなのだろう。セリオは気にせず背側の身をフォークで口に運んで楽しんでいる。

 ウーゴは解した腹側の身と背中の身、大根おろしを乗せると、秋刀魚の内臓と共に突き刺し、香りを嗅ぐ。


「内臓に生臭さがない。それだけ新鮮だってことか――この果実の汁も鮮烈だ……」


 ウーゴが呟くのを、セリオはむしゃむしゃと顎を動かしながら見上げると、ウーゴがそのまま口の中に入れるところだ。


 口の中にすだちの香りがぷんと漂うと、やがて秋刀魚の脂や身の香りが広がる。脂で滑らかになった秋刀魚の身が歯に触れると柔らかくほろほろと崩れ、粗く摩り下ろされた大根がしゃくしゃくと音を立てる。特にほろ苦い内臓は身の味に芯を与え、大根おろしは脂のしつこさを洗い流してくれている。


「たっ――確かに苦味があるぶん、味に深みがある。たぶん……」


 今まで咀嚼していた秋刀魚の身と白いごはんをごくりと飲んでセリオは父親の動きに注目する。

 いや、セリオ以外の客もウーゴの動きが気になるのか、遠目にその動作をうかがっている。


「試してみるといいが、セリオにはまだ早いかも知れないな」

「そんなことないよっ」


 十二歳という年齢は反抗期にはまだ早いと言えるが、見習い程度の仕事ではあれ二年も大人の中に混ざって働くことである程度の矜持が生まれるのか、セリオは父親の意見を否定する。

 そこに、二人分の白いごはんが入ったお櫃を持って、シャルがやってくる。


「おかわり用のごはんを持ってきたの。いっぱい食べてね」


 ウーゴとセリオ、二人に視線を向けてニコリと笑った少女が、その髪の甘い香りを残してその場を去ると、またセリオはシャルの過ぎ去った方向をしばらくぼんやりと見つめていた。


「おい、だいじょうぶか?」


 ウーゴに左肩を揺すられ、明らかに空白の時間があったことに自分でも気がついたセリオは、顔を赤くしつつもその場を取り繕おうとする。


「うっ――うん、だいじょうぶだよ。ちょっと考え事をしていただけさ」


 直前の会話を思い出しながら、セリオは秋刀魚の内臓を潰し、大根おろしをまぶしてしまうと、すだちを絞りかける。そして、背側と腹側の身と共に内臓をフォークで掬い、口の中に入れる。


 すだちの香りがふわりと漂い、大根の土の香りや秋刀魚の身と脂の香りが口の中に広がると、舌先には最後につ掬った内臓が最初に触れる。


「うぇっ……苦いよ……」


 セリオは呻くように感想を溢すとフォークで掬った白いごはんを口に押し込む。白いごはんは秋刀魚の身と脂の味や内臓の苦味、皮に振った塩の味を口の中でまとめあげていく。


「ああ、そうだな。だが、本当の大人になると美味しく感じるようになる。舌はまだこれから成長するんだ」


 ウーゴが父親らしく、セリオを見下ろすようにして話す。

 だが、セリオは口の中にある秋刀魚の身と内臓、白いごはんが一体となった味を楽しんでいた。そこには「苦い」と呻き声を上げたセリオはいない。美味しいものを食べて笑顔になっていた。


「うん、でも二口くらい噛んだあと、白いごはんを一緒に食べれば美味しいよ」


 その様子を見ていたセリオの右隣に座っている男、そのまた隣に座っている男たちも慌ててセリオの真似をするように秋刀魚を食べ始める。既に身だけをほとんど食べきってしまっているので二口程度であるが、それぞれが納得したような顔で頷いている。


「そうか、そういう食べ方もあるのだな」


 マルゲリットでは、料理とパンを同時に口に含むという食べ方がないわけではない。

 パンにシチューをつけて食べる方法や、パンに動物の肝臓などをペースト状にして味をつけたものを塗って食べる方法がある。ただ、ウーゴは白いごはんでは同じような発想に至らなかっただけである。


 そこに厨房からけたたましい音が店内に届く。


「ブィィィーーーン」


 何度か繰り返し聞こえてくる音に、何事かとウーゴや他の客も席を立ち、カウンター越しに見える厨房の中を覗き見る。

 厨房では背中を向けてせっせと何かを調理しているシュウの姿と、同じように背を向けて何かを作っているクリスの姿が見える。クリスは何かをカウンターから見えないように持って歩いて行くと、皿の上に茶色くてねっとりとしたペースト状のものを乗せて戻ってきた。

 そして、クリスが自身の手で焼いたというパンをカウンターにいる客の数だけスライスし、そこに先程のペーストを塗っていく。


 既に多くの客の皿では秋刀魚が骨と食べ残した内臓のみと化しており、お茶漬けで漬物を楽しんでいる人もいるという状況になっていたのだが、クリスはそのパンを追加で配っていく。


「誰も食べてくれないから、試食を兼ねて『パン』を出すことにしたの。ひとり一枚ずつね」


 薄切りにされたパンの上には、ニンニクとハーブの香りが漂うペーストがこんもりと盛られている。


「秋刀魚を一匹だけ使って、『パテ』を作ったから添えてみたの。それもわたしのお手製よ」


 キラリと輝く歯を見せるようにクリスが笑顔を見せて話すと、この街の領主の次女が手の込んだ料理をするなんてことは考えてもいなかったのか、カウンターの男たちからは「おお」と感嘆の声が上がる。

 我先にと他の客たちがパンに手を伸ばすのを見て、ウーゴとセリオも遠慮せずに手をのばす。


 セリオがパンを鼻先に持ってくると、焼き立てパンの香ばしい匂いと、ニンニクやディルなどの香草、レモンの香りがふわりと漂ってくる。秋刀魚の身と内臓を擂り潰しただけあってペーストの色が茶色くなっているが、トマトの赤、タマネギの白、ディルの葉の緑で飾られていて、あまり気にならない。

 そこまで確認すると、セリオはパテがたっぷり乗っているパンにがぶりと齧り付く。


 下顎からはパリパリというパンの表面が割れる音がするのだが、表面を歯が通り抜けてしまえばあとはふうわりと柔らかい。パテも見た目のとおり柔らかくとろりとしていて、ねっとりと舌に絡みついてくる。秋刀魚の身と脂の香りに、ニンニクやタマネギ、ディルなどのハーブの香りが加わり、パンの香ばしい匂いと小麦の香りが鼻腔に抜けると舌にじわじわと秋刀魚のパテの味が染み込んでくる。


「父さん、これも美味しいです」

「ああ、白の『葡萄酒』が欲しくなるな。いかん、まだ朝だった――」


 つい飲みたくなったことを息子に白状してしまったウーゴは、左手で口を塞ぐ。

 その様子を見て、クリスはウーゴに尋ねる。


「パンの方はどうかしら?」

「ああ、小麦の香りがしてとても美味しくて贅沢なパンだ。でも――」


 ウーゴは上目遣いでちらりとクリスを見て続ける。


「海育ちのわたしは、『魚朝食』以外はいただかないよ」

「そういうと思ってたわ」


 やれやれといった感じの仕草をして、首を少し傾げるとクリスは天を仰ぐようなポーズをとるのだった。






 秋刀魚の塩焼き定食とおまけのパテを食べたウーゴとセリオは、二人してお腹を擦りながら天馬亭への道を歩いていた。


「ねえ父さん……」

「どうした?」


 セリオが話しかけると、ウーゴはまだまだ育ち盛りのセリオを見下ろすように返す。


「あのお店、これから通ってもいいかな?」


 セリオは立ち止まり、真剣な表情でウーゴを見つめている。

 ウーゴはセリオの強い意志が籠もったその雰囲気から、同じように立ち止まり、向かい合う。


「シャルちゃんは難しいぞ。わたしの勘だが、あの娘の心に手が届く男はこの街にはおらんだろう」

「うっ……そうじゃなくてさ……」


 頬を赤く染めて、セリオは言葉を続ける。


「オレだけじゃなくて、妹たちにも食べさせてやりたいんだ」

「ああ……なるほどな」


 ウーゴは両腕を組むと、空を仰ぐように見て少し考える。

 自分が連れてくることもできるが、毎回誰かを連れてくるとなると順番で揉めるもとになる。それに、十歳と八歳の娘ではあの店の料理は食べ切れないので、娘二人で一品を注文せざるを得ない。


「よし、次のセリオの休みのときに四人で行くか?」

「それだと、母さんが仲間外れになって可愛そうじゃないか」

「母さんはわたしと二人で来ればいいさ」


 セリオは少し俯くと、口を尖らせてぶつぶつと何かを呟くのだが、しばらくすると何かを納得したかのようにスッキリとした表情に変わる。

 たとえ、父親が同行していたとしても、またシャルに会える機会ができたのだ。

 妹たちがシャルと仲良くなれば、更に会える機会が増える。


 ウーゴはシャルが高嶺の花のような存在だというが、セリオは諦めてはいなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る