第15話 アジの干物(1)

「ううっ……頭が痛いっ……」


 エドガルドとじっくり酒を呑んだ次の日はもちろん二日酔いである。

 誰がと言うと、クリスである。

 まだ十七歳の少女は、生ビールでミンチカツを楽しみ、日本酒で京漬物を楽しんだというのに覚えていないらしい。

 シュウの料理そのものはミンチカツで終わっていたのだが、シュウはエドガルドの話を聞きながら酒を注いだり、相槌を打ったりと忙しかった。そのせいで、シュウが気が付いた時には、クリスは養老漬けをつまみに、四杯目のコップ酒を飲んで突っ伏していたのだ。


「二日酔いって、治せる魔法が無いのよねぇ……」


 そう言うと、フラフラと立ち上がり、クリスは異世界の営業準備をはじめる。


「クォーンカーン……クォーンカーン……」


 朝二つの鐘が鳴ると、クリスはその音には脳を破壊するような周波数が含まれているのではないかとさえ感じるほどの痛みを感じ、引き戸を開いて暖簾を掛ける。


「いらっしゃいませ」

「おはよう!」


 今日もマルコが一番乗りである。

 前回は男性三名を連れての来店であったが、今日は二名。うち一人は女性だ。

 クリスは、その女性客が開店初日にヒソヒソと男性の耳元で話をしていた女性であることにすぐ気が付いた。

 少しくせのある赤毛のセミロングの髪に、鳶色の瞳をしており、赤く塗られた唇の左上には小さな黒子ホクロが見える。

 体型的には平均的な女性の身長より少し高いのだが、少々ふくよかでもある。そして、大層なボリュームの胸が大きな谷間を作り上げている。


「今日も四人掛けに座らせてもらっていいかな?」

「もちろんです。どうぞー」


 マルコがテーブル席の使用を求めると、クリスは快諾して席へと案内する。

 マルコに導かれるようにして入ってきた男女は、とても物珍しそうに店内を眺めながら歩いていく。

 そのマルコたちが席につくのを見ながら、クリスは熱いおしぼりと、お茶を用意する。


「いらっしゃいませ!おひとりさまですか?」


 マルコ達に連れられるように、他の客も入ってくれるようになり、その客に連れられるようにまた別の客が入ってくるようになってきた。少しずつだが、客は増えてきている。


「すぐにご注文、うかがいますねー」


 二日酔いとは思わせない、明るい声でクリスは客に挨拶をしていく。


「マルコさん、昨日はお休みにしてごめんなさいね」


 そういうと、クリスはマルコとその二名の連れに熱いおしぼりを渡す。


「いやいや、たまには休みも必要だろうさ。

 ところで、今日のメニューは何だい?」


 マルコが火曜日に来た時、水曜日は休みだと伝えると「明日はどこで朝食をとればいいんだ……」などと落ち込んでいたが、そんなことを感じさせない自然さで今日のメニューを確認する。


「今日の『牛肉』料理は『牛』の腱の部分を柔らかくなるまで煮たもの。『豚肉』料理は薄く切った『豚』の肉を『小松菜』という野菜と共に炒めたものです。『鶏肉』料理は叩いた『鶏肉』と、『里芋』を蒸したもので和えたものです。魚朝食は干物……『アジ』の干物を焼いたものです」


 クリスが途中まで説明したところで男が立ち上がり、声をあげる。


「干物があるんですか?!」


 あまりに突然、しかも大きな声だったので、クリスの二日酔いの頭にはグワンゴワンと響いてくる。

 一瞬、頭を抱えてしまいそうになるが、なんとか耐えたクリスに代わり、二日酔いを心配したシュウが返事をする。


「ええ、何種類かありますが……今日は『アジ』の干物をお出しします」

「まあ、本当にあるんですね!」


 今度は女性の方が驚いた声をあげる。

 クリスはシュウのフォローで少し落ち着いたのか、再起動したようだ。


「あと、野菜料理は『大豆』で作った『豆腐』を揚げたものをステーキ風にしたもの、たまご料理は『青ネギ』入りのだし巻きという料理です」


 いや、二日酔いのせいか機械的なところがある。


 ふむとマルコは考えて、言葉にする。


「ここの店では魚料理以外はまだ食っていないからなぁ……」


 まだ考えている風なマルコの言葉に被せるように男性がシュウに話しかける。


「すまないが、その『アジ』の干物とやらを見せてもらえないか?」


 たしかに、海から離れた町で、干物とはいえ生モノだから鮮度が気になる人もいるかもしれない。

 それに、干物の素材がどの程度のものか、見ておきたいのもあるだろう。

 頼んでみて身の薄い、食べるところがないような魚だったら悲しいし、脂のノリも気になるところだ。


「ああ、これですよ。どうぞ見てください」


 シュウがアジの干物を厨房からとってくると皿にのせて見せる。


 背中側から開かれた魚体には、片側に骨と頭がついたままになっている。

 切り開かれた身の部分は塩水をつけて天日に干されているが、表面はしっとりとした様子にも拘わらず、乾いている。

 腹の部分の身は、灰色がかった飴色でしっかりと脂がのっていることが見てわかる。一方、背中の身は最も厚い部分で小指の第一関節ほどはあり、とても上物であることがわかる。


「裏側も見せてもらえるかしら?」


 女性の方が声をかけるので、少し訝し気な顔をしつつも、シュウは魚を裏返し、皮の部分を見せる。

 少し青みがある背中部分に、白い腹側の皮。後ろ半分くらいは棘のような稜鱗ぜんごがついていて、硬そうだ。


「ああ、本当に『アジ』だな。ゼーゴがついてる。でも、『アジ』とは少し違うところもあるな」

「ええ、ゼーゴの部分が少し形が違うし、とても丸くて肉厚だわ」


 ふたりの会話がマニアックすぎて、クリスとマルコはおいてけぼりにされている感じとなるが、クリスは思い出したように他の客におしぼりを出し、お茶を淹れて配っている。

 そして、その二人の会話を聞いて、シュウが少し説明する。


「これは、『アジ』の仲間なんですがね……名前がわからないんですよ。味は保証します!アジだけにっ!」


 最後の言葉の意味がわからず、ポカンとする二人だが、気持ちは決まったようだ。


「この干物は間違いなく美味い。この魚の朝食をお願いする」

「わたしも同じものを!」


 連れの男女二人に注文で置いていかれたマルコだが、不思議そうな顔をして二人に尋ねる。


「干物屋のクォーレル商店の二人が、どうして干物を頼むんだい?」


 そう、この二人はマルゲリットの街で干物店を経営している夫婦で、今日はマルコがいう素晴らしい朝食を食べさせてくれる店についてきたのだ。


「『アジ』の干物は、身が薄くて脂のノリが悪いものが多いのだが、この店の干物は最上品だ」

「腹の部分の身の色、背の部分の厚み、表面の乾き具合を見ればわかりますわ」


 さすがは干物の専門家である。

 見るべきところをしっかりと見て、食べる前に評価することができるのだ。


「マルコもよく見て、食べてみるといい。こういう干物を買い付けてきてほしいからな」

「そうね」


 そういうと、二人はケラケラと笑う。

 マルコは少し不愉快そうな顔になるが、最上品であるなら一度味わっておくべきだろう。もちろん、焼く前の状態をしっかり見させてもらったのだから、その特徴を教わって、今後の仕事につなげるためだ。


「ではわたしも同じものにしよう。シュウさん、お願いするよ」

「あいよっ!『魚朝食』三つね!」


 そう声をあげると、シュウはすぐに調理にとりかかる。


「おまたせしました。今日のお漬物は『胡瓜』と『茄子』、『蕪』です」


 続いてテーブルにクリスが並べるのは、無料の漬物盛り合わせと熱いお茶だ。

 もちろん、京都で買ったものは並ばない。シュウお手製の漬物……胡瓜と茄子の糠漬けに、蕪の浅漬けである。


「これこれ、この漬物というものとお茶がよく合うんだよ」


 そういうと、マルコは漬物とお茶を楽しみつつ、二人へ話を振る。


「エヴァン、『アジ』の干物っていうのは、どういうのを選べばいいんだい?」


 男の名前はエヴァンというらしい。焦げ茶の髪を総髪にまとめている。瞳も焦げ茶だが、右眉の上にイボがあり、体型は少し痩せ気味である。普段の食事では、栄養分を妻に捧げているのかも知れない。


「さっきのを見ただろ?身がまず厚いこと。腹の周りの色がさっきの干物のように灰色がかった飴色であること、あとは身の断面が飴色になっていて乾きすぎていないことだな」


 確かに身が多い方がいいことは、マルコにもわかる。だが、残りの二つはいまひとつピンとこない。


「腹の周りの色は、脂のノリって言ってたが、そんなに違うのかい?」

「ええ、もちろんよ。それに身の断面が飴色になって乾きにくいというのも脂ノリがいいってことなの。

 さっきの『アジ』なら、ジュウジュウと溢れるほどの脂が出てくると思うわ」


 身に脂がのっていると、表面が乾燥するのを防ぐということだろう。また、背中の身に脂がのるほどエサが豊富な環境で生きてきたという証拠にもなる。


「うん、パメラの言うとおりだ。今から口の中に涎が溜まるよ……」

「いい匂いが漂ってるわねぇ……海辺の街で育ったわたしたちにはたまらない匂いだわ……」


 エヴァンの妻はパメラという名前のようだ。


 そのパメラの言うとおり、確かにシュウがアジの干物を焼き始めてしばらく経ち、アジの焼ける香りが漂いはじめている。背の青い魚特有の脂の匂いと、皮が焦げる匂いが胃袋にまで届くと、音が鳴る。


「ぐぎゅるぅうううるぅぅぅうううう」


 エヴァンの妻、パメラの腹が盛大に鳴った。

 恥ずかしさのあまりに両手で顔を隠すパメラは、両腕で胸を挟むかたちになってしまい、行き場がない胸がはみ出るようになってしまっている。


「おまたせしました。『魚朝食』です」


 テーブルの上に置かれた丸盆には、左手前に炊き立ての白いごはん。右手前には、里芋と、油揚げが入った味噌汁がある。奥には目当てのアジの干物がジュウジュウと音を立て、香ばしくも、旨そうな香りを振りまいている。


「ほら間違いない!『アジ』の朝食にしてよかった!」


 エヴァンは食べる前からその味を堪能して声に出し、パメラは静かに腹の虫を鳴かせる。

 いや、パメラの腹の虫が鳴くのを聞こえないようにするために大きな声で言っているのかもしれない。


 マルコも、そのアジの干物からジュウジュウと湧き出る脂とその音に心を奪われたようで、味噌汁に口をつけるのも忘れてフォークでアジの身を解しはじめる。もちろん、最初は骨のない方から手をつけるのだが、業務用の上火ロースターで焼いた魚は表面の水分が飛んでパリッと焼けていて、フォークでも簡単に解すことができる。


 マルコはその解した身の背中の部分にフォークを刺して、口に運ぶ。


 まず最初に青魚特有の風味がフワッと鼻腔に広がり、皮の焦げた部分の香りが追いかけてくる。

 アジの身は太陽の下に干されることで、たんぱく質がアミノ酸に分解されて旨味となるのだが、塩水を表面に塗って干すことで余分な水分が飛ぶため、干物はその旨味を更に濃厚に閉じ込めた状態になっている。その干物を焼けば身は縮み、細胞が壊れると残っていた水分と溶けた脂が混ざり合い、噛んだ時に身の間からジュワッと溢れ出てくる。干す際に使った塩水が、その汁の絶妙な味付けになっており、舌だけでなく歯茎や上顎など触れる場所のすべてに美味さを感じさせる。


「ふふふ……」


 人間、美味いものを食べると、笑顔がこぼれるものだ。

 そして、マルコもいま、気が付かないうちに笑っていた。普通じゃないのは、声を出してしまったことだ。


「マルコ、だいじょうぶか?」


 変なものを見るような目で、エヴァンがマルコに声をかけるが、特に心配はいらない。


「なんだかんだと、魚朝食ばかり食べているのだが、それぞれの魚に違う味があって、どれも美味いから思わず笑ってしまったよ。

 魚ってこんなに美味いもんなんだな」

「ああ、故郷を思い出すよ……」

「そうね……」


 マルコが魚の味について語ると、エヴァンとパメラは、生まれ育った海辺の街を思い出す。

 長く続く砂浜の先にある半島のような島は、何年もの時間をかけて砂州により陸続きとなり、その島を削って小さな港がつくられた。

 小さな港には魚を捕るための小さな船がいくつも並び、砂浜では地引き網漁ができるようになった。アジは地引き網でも捕れる魚で、よく食べたし、日持ちさせるために干物にすることもあった。

 それでも、ここまで身が厚くて脂がのったアジは旬の時期しかなく、ご馳走だったのだ。


 懐かしそうに目を細める二人なのだが、マルコは今日の味噌汁が気になり、木匙を持つ。

 木椀には里芋がドデンと転がっており、油揚げがその汁をたっぷり吸って隣に浮かんでいる。だが揚げ油が汁に浮かんでいない。


「この油で揚げたもののようなのはなんだい?」


 気になって、マルコはクリスに尋ねてみた。


「油揚げです」


 ボケでもなんでもなく、クリスはただ普通に答えたつもりだった。

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