第17話
どれぐらいの時間ヒイロが、自分の側に立っていたのだろうか。けれども、まるでそよ風に気づいたように姿を突然消すと、次の瞬間違う声がした。
「アース」
柵の向こうから呼びかけるシリオンの声にうつむいていた顔をあげる。すると自分が見た途端、シリオンは整った美貌に浮かぶ碧の瞳を輝かせて駆け寄ってくる。
それに一粒だけこぼれた涙を、顔にかかった髪を直すような仕草で隠して、少しだけ笑い返した。
「マルカさんとの話はすんだの?」
微笑んで訊くと、ああと笑顔が弾ける。
「マルカと話したんだが、今日中にアルペーヌの温泉まで行こう」
「温泉……」
思わず半眼になると、シリオンが目に見えて焦った。
「違うぞ! 俺は別にお前の裸が目的じゃなくて、あそこまで行っておけば明日朝一でアルペーヌ越えができるからで!」
確かにもう昼前だ。太陽の位置によるだいたいの時間だが、今からだとアルペーヌ山の三合目ぐらいにあるそこまで行けば、夕方近くになるだろう。
さすがに夕方以降に温泉のすぐ先にある関所を越えるのは怪しいことこの上ない。しかも、アルペーヌには熊も狼もいる。
「そうだね、さすがにシリオンを熊と格闘させるのはかわいそうか」
「おい、まさか俺が負けると思っているのか?」
「いや、見つけた途端非常食確保と熊に襲いかかりそうで、実に熊が可哀想と思っている」
――今の携帯食料の量じゃあ、いつかやりかねない。
顎に指をあてて冷静に分析すると、「おい……」と力のない声が返される。
「先ず食料を補給しておかないとね。山越えが終わるまでは町もないし」
その時だった。急に後ろからふっふっふっと怪しげな笑い声が近づいてきたのは。そして、目の前にばっと美しい女物のドレスが広げられる。
それは上品な白い生地に白レースで襟が作られた清楚なドレスだった。慎ましく前で金色に輝くボタンは、鮮やかな太陽の光を弾いているからだろうか。
その上に更にピンクの薄い生地で作られた、幾重にもフリルのある花のようなドレス。頭の上から突然アースのかけられた二枚のむこうから、マルカの笑い声が響き渡る。
「は! 何を言っている! 関所越えをするのなら先ずは変装だろう! 私がドレスを厳選してやった! ありがたく思え」
「マルカ!」
思わずシリオンが叫んだが、その頭にピンクのドレスをかけられた姿では威厳も何もない。
「なんで女装なんだ! 変装なら羊飼いでも商人でもほかにもあるだろう!」
それにマルカはチッチッと指を振る。
「追っ手が探しているのは、塔から抜け出した十賢の男なんだろう? それなら女の姿のほうが敵の目も誤魔化せる。同じ髪の色で疑っても、まさか一人ひとりのスカートをめくって調べるわけにもいかないからな」
「スカートをめくるまでもなくばれるわ! お前俺に女装が似合うと思っているのか!」
「顔だけなら化粧で何とかしてやる。後は、その広い肩とやたら筋肉質な手足をなんとかしてこい。それで万事解決だ」
「なんとかできるか! 今すぐ肩と手足をどうにかできたら、この世に減量で悩む女性は一人もいなくなるわ!」
それにマルカは、大げさにひとつため息をつく。
「なんだ、つまらん。折角嫌がるシー・リオンに女装をさせて、後々まで騎士隊で皇帝の暴露話という伝説にしようと思っていたのに----」
ぴくりとシリオンのこめかみが動いた。
「マルカ、いい加減にしないと国家叛逆罪にするぞ」
ちっと舌打ちをする音が聞こえた。
けれども、振り向いたマルカは鮮やかに笑う。
「冗談でございます陛下」
「嘘つけ! 爆笑する気満々だっただろう」
「本当ですとも。第一誰がシー・リオンのそんな首以外まったく似合わない不気味な女装などみたいものか」
その証拠として、とマルカは後ろに置いていた荷から一枚の服を取り出す。
「ほら。シー・リオンにはきちんと商人の服を用意してある」
それは動きやすい青い上着とズボンの上下で、貴族を相手にする裕福な商家の主人が身につけるようなものだ。紺のネクタイと一揃いで、若い主人を凛々しくみせるデザインになっている。
出された服を見て、シリオンは少し表情を緩めた。
「どうだ、安心しただろう?」
「ああ、お前がまだ正気だったことにな」
ふんとマルカは鼻で笑う。
「だから、このピンクのドレスは私が着てやる。そうしたら、嫁と愛人と放蕩主人。見事な愛憎旅行三人組の完成だ」
「ちょっと待て! 婚前旅行は事実だからアースの妻はいいが、なんでそれにお前との不倫要素まで付け加えねばならん!」
「ならば、私が妻ならいいのか?」
「絶対断る!」
「あの……」
どうにも口を挟む隙がなかったのだが、やっとアースが糸口を見つけることができた。
「僕の女装も無理があると思うんだけど」
けれども、二人は同時にアースを見つめる。
「絶対に大丈夫だ!」
―――そんな異口同音に断言しなくても……。
「いや、喉仏だってあるんだし。それにどう見たって女の体じゃないだろう?」
昨日ばれなかったのは、王家の姫君のやたら豪華な衣装のお蔭と思いたい。思いたいのに、二人は顔を見合わせると、
「アースはその辺の女より美しいからな。絶世の美女にしか見えんが」
「のろけはともかく、シー・リオン。むしろあの顔では男といったほうが怪しまれるぞ。絶対に男装の麗人疑いで不審者扱いは免れない」
―――どうして、男が男の格好をしただけで不審者なんだ!?
「それじゃ僕が天性の異常者になってしまうじゃないか」
必死に抵抗を試みるが、シリオンは何を思ったのかふっとその端正な顔立ちで笑う。
「アースは美しい。それはただの事実だ。安心しろ、お前を異常者扱いする奴がいれば、俺が片っ端からたたき殺してやる」
「シリオン、絶対に気遣うところが違う」
「それでは帝国に一人も人がいなくなる。臣下としてそんな暴君を許すことはできませんから、そんな羊飼いの格好も仮装になる男は、さっさと陛下とくっついて王宮の奥深くに隠しておいてください」
やはりひどい言われような気がする。
「それに」
にやりとマルカが笑った。
「その顔に化粧をして、にやける皇帝陛下の顔をぜひ拝んでみたい」
まずいと思ったが、もう遅かった。
「逃げるな! その綺麗な顔にぜひ一度紅を塗ってみたいと思っていたんだ!」
素早く化粧道具を取り出して突撃されると、もう否やを言う暇もない。
「ちょ、ちょっとマルカさん?」
「大丈夫だ。絶対に陛下が二度惚れ三度惚れする顔に仕上げてやる! シー・リオンも手を出すなよ。お前の嫁を真の傾国の美女にしたててやるからな!」
「マルカ、着替えには手を出すなよ!」
「シリオン、止めるところが違う!」
やめさせてくれと思ったが、無駄だった。むしろ少し離れた木陰で、肌に白粉を塗られ、唇に紅を挿されていく自分の様子を、なぜか赤くなったり困ったようにうつむいたりしながら見つめている。
―――もうなるようになれ!
関所越えに変装は確かに必要だ。
男より女に化けたほうが見つかりにくいのも、理にかなっているだろう。そう思うから諦めたものの、睫にまでつけ睫をされて目を開いたとき、前にいるシリオンの顔を見て思い切り力が肩から抜けてしまった。
なぜか頬が赤くなって、瞬きもせずにこちらをただひたすら見つめている。
「綺麗だ……」
「ほら、皇帝陛下もご満足な出来栄えだ。さすがは私」
「いや、マルカの化粧の腕は期待していなかったんだが……やっぱりアースはもとが違う。昨日のも綺麗で驚いたが、今日は昨日以上に美しい」
「私の化粧の腕を見直したのなら、ぜひそれ相当の褒美をいただきたい。なにしろ我が帝国の皇帝陛下に、そんな蕩けるような顔をさせるほどのご満悦振りをいただいたのだ。功績には恩賞を、は我が帝国軍のモットーだろう?」
「うむ、何が望みだ?」
「はっ。では次の戦の先陣は、ぜひこのマルカの騎士隊に賜りたく」
「うむ。前向きに検討しておこう」
―――取り合えず、即答しなくてよかった!
どうやらまだ理性は残っているようだ。
さすがに、こんなことで、軍の重大事項を決められてはたまらない。
内心冷や汗を垂らしながら、シリオンの微笑む顔に思ったが、肝心のシリオンはというと、もうアースの方を向いて両手でその体をかき抱こうとしている。
「すごく綺麗だ。でもそれ以上に、たとえ偽りでもアースをこの旅の間、俺の妻だと言えると思うと正直嬉しくてたまらない」
それなのに後ろから化粧筆をしまいながら、マルカがそのシリオンに声をかける。
「陛下、私が愛人という設定をお忘れなきように」
「それはいらんと言っているだろう!」
二人が目の前で喧嘩を始めたが、もう何も言う気力がわかない。
「着替えてくる……」
男としての最後の抵抗で、一人での着替えだけは勝ち取ると、アースはまた化粧された自分の顔に深々とため息をついた。
やっと昨夜化粧から逃れたと思ったのに、なぜか災難続きだ。
せめて、なにかあった時用に、下に男物は着ておこう。体の線が見えないようになっているデザインのドレスだから、おそらく着膨れして見えることもないはずだろうし。
と僅かに男の意地を持って、ただ大半は荷物を少なくするための計算だと自分でわかっていながら、それでも、どうにか白いドレスに着替えた。
丁寧にシリオンに編んでもらった長い黒髪を隠した頭には、厳重に巻いた布の上から帽子をかぶる。そして木陰を出ると、もうシリオンは近寄って側から離れようとしない。
その間にマルカは、くるぶしまでの長い布地を幾枚も花びらのように重ねたピンクのドレスに素早く着替えている。大きく開いたふくよかな胸元に、首から鎖のついた金色の小さな笛を飾りにして笑っている姿は、淑女以外の何者でもない。
一言で言えば、目立つ。
田舎では目立ちすぎて、さすがに不安になるが、顔を隠した自分が一番怪しいだけに何もいえなかった。
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