愛情と不安と
あれから一日たった早朝。僕は、朝いちばん出かける準備をしており、詩織はそんな僕の事を甲斐甲斐しく世話をしてくれている。
「忘れ物はない? ハンカチは持った?」
「大丈夫。忘れ物はないよ」
いつも何か大事な物を忘れる詩織に忘れものを心配されるのが、つい可笑しくて僕はかすかに笑みを零す。
「そ、そっか。な、ならいいんだ。うん……」
詩織は、僕の顔の一部を見ては、そわそわしたような素振りを見せ、やがて瞳をそっと閉じた。
ーーはぁ……またか……
詩織がこういった素振りを見せる時は、十中八九僕にキスをせがんできている時に他ならない。
これが夜ならば僕もいいのだが、流石に朝から、しかも娘がいつ起きてくるかわからない状況下でするのは、憚られる。
「何を期待しているのか知らないが、僕は絶対にしないからな」
「むぅ……風音君のケチ~」
詩織がふてくされた様に頬を膨らます。その様子は、小さな子供そのもので、それこそ詩音がふてくされた時とよく似ている。
結婚したとは言え、心は乙女のままなのか詩織が自分からキスをしてくるのは、非常に稀なことであり、詩織が自らキスしてくれる時は、僕の心が弱っている時だけ。
僕に余裕がなくなると詩織は、自身の羞恥心など何処にいったのかとても大胆になり、僕の事をあらゆる手を使って癒してくれる。
逆にそれ以外の時は、人一倍恥ずかしがり屋で、その性質が色濃く出ているのか自分からそう言ったことをして欲しいと口にしたり、まして自分からしてくるなど一度たりともなかった。
それでもして欲しいものはして欲しいらしく、そういう時に限って詩織は、そわそわしだすのだ。
その様は僕にとっては、堪らなく可愛らしく、愛しいと思うのだが、その様な事を口には、しない。
その様な事をすれば今以上にせがんできそうだから。
「お父さん‼」
どうやら僕がもたもたしている内に、詩音は、目を覚ましたようだ。
詩音は、僕を見かけると一目散に駆け寄り、そのまま飛びついてくると頬に優しく口づけをしてくれた。
「お仕事頑張ってね‼」
詩音がそう言って僕の事を激励してくれる。
「ああ。詩音の為にも頑張てくるよ」
僕は、詩織の額に先ほどのお返しにキスををしてやる。
「えへへへ……」
詩音は、自身の頬に両手を当て、嬉しそうに体をくねくねとさせ、にやにやしている。
その詩音のにやつく様は、詩織の物とよく似ていて、先程詩織が見せた素振りも相まって二人が親子であるということが、よくわかる。
僕の胸はぽかぽかとあったまっていき、不思議とやる気がわいてきて、
ーーやっぱりこの二人がいないと僕は、ダメだな
人間誰しも生きていくためには、お金を稼ぐ必要がある。それは、異世界でも同じことで、僕の今日の用事とは、
僕たちは、この世界で最も大きく、活発な都市
文明のレベルこそ前の世界に比べれば低いものの、活気は凄まじく、いつもにぎわっており、様々な業種の仕事があるのだが、そんな中僕はそこで少々
僕としては、本来ならば働かず二人とずっと一緒にいたいが、生きるためには誰かが、働かなければならず、その役は一家の大黒柱である僕が引き受けており、詩織はそんな僕よりも遥かに大事で、重要な家庭を守るという仕事をしてもらっている。
この役割を逆にしようと思えばできるのだが、僕個人の考えとしては、詩音の教育は、詩織の方が相応しいと思っており、そんな意見を詩織は汲んでくれたのだ。
ーーまあ理由はそれだけじゃないのだけれどね
僕の仕事は、給金こそいいものの大変な仕事で、命の危険もあり、家に帰ることもほとんどできない。
その様な仕事をどうして人に、まして自分の愛する人に勧められるだろうか。
それ以外の仕事をしても普通に生きていく分には、問題ないのだが、その仕事でしか得られない大切なことがあるので、その仕事を辞めるわけにはいかない。
僕達の住んでいる
仕事は、たしかに大変だが別に嫌いではない。周りの人たちは皆いい人だし、働きやすい環境を僕の雇用主は、きちんと整えてくれており、その点に関しては何の不満もない。
唯一の不満があるとすればそれは、家族との時間がほとんどとれていない事。昨日は、約十日ぶりの休暇で、家族で、都から出た近くにある高原へとピクニックへ行ったのだ。
人によってはそれだけのことだが、僕からすればそんな些細な物がとても大切で、何よりも大事な物なのだ。
ーーでも明らかに僕は、親として夫として失格……こんな事じゃいつか詩織に愛想つかされちゃうかな……
詩織が浮気をするような人間だとは、到底思ってはいないけれどそれでも絶対にないとは言えず、心の寂しさを埋めるために他人を求めるかもしれない。なんたって詩織は寂しがり屋で、甘えん坊だから。
ーーそれに容姿だって……
僕は、詩織と違って特別容姿が優れているわけでも、頭が言い訳でもない。運動だって普通だ。そんな僕の事を詩織は、好きだと言ってくれるが、僕は自分の事が嫌いだ。
詩織は僕の優しくて、一生懸命で、誰よりも自分の事を愛してくれるから好きになったと言っていたけど僕は、自分の事をただの一度もそう思った事は無いし、もっと冷たくて、怠惰な人間で、どうしようもない人物だと思っている。
だからこそ怖い。詩織は、いつか僕に幻滅して離れて行ってしまうのではないか。今のこのぬくもりは、仮初の物なのではないか。そう思ってしまうのだ。
僕達は、幼馴染で、互いの事を知り尽くしていて、他の人にはない特別な
思っていてもそんな彼女の愛を信用できない自分がおり、その事がより自己嫌悪を加速させる。
「むぅ……風音君の馬鹿、阿呆」
「子供じゃないんだからそう拗ねないでくれよ」
「だって……だって……」
だから僕は、こうやって詩織にあえてやきもちを焼かせてしまうのだろう。
詩織の僕へと向ける愛情を感じたいから。詩織の気持ちを信用しろと自分に言い聞かせるために。
「帰ったら一杯相手してやるから今は、我慢してくれ? な?」
「うう……わかった」
不承不承と言いながらも詩織は、納得し、頷いてくれた。
ーー嫌いにならないでくれてよかった……
自分で、自分の首を絞めている自覚はある。そうであるとわかっていても詩織からの愛を感じたいから止められないそんな自身が抱えるジレンマには、本当に嫌気がさす。
ーーいっその事自分の感情を全て暴露してしまおうか?
口がかすかに動くが、声にならない。そんな僕の事を詩織、詩音の二人が可愛らしく小首をかしげ見つめてくる。
ーーここで弱音をはくわけにはいかない。僕は一家の大黒柱。その柱が弱音を吐いてどうする
「それじゃあ二人とも行ってくる」
「行ってらっしゃい。早く帰ってきてね」
「お父さん終わったらまた一杯詩音と遊んでね‼」
二人に頷くと僕は、仕事場へと足を向ける。己の内に潜む不安を抱えこんだままに……
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