11-3.三ヶ月記念日に起こった事件

 桜を見て春の公園デートを楽しんだ後は、伊織の家に向かった。彼女がご飯を振舞いたいと言い出したのだ。帰りに二人でスーパーに寄り、ハンバーグの具材を買った。


「真樹君、今日が何の日か忘れてるでしょ?」

「え? 今日……?」


 今日は三月二十四日……特に何もないはずだが。と思って、ふとその数字を見て思いとどまった。


「……三ヶ月記念日です」

「あ、やっぱり忘れてたんだぁ」

「忘れてねーよ」

「ふーん……?」


 伊織が疑い深そうにこちらを見る。しかし、俺は動じない。


「じゃあ、このハンバーグはいらない?」


 伊織が、買い物袋を見て言う。

 ぐ……なんという酷な質問を。鬼か! ここは折れるしかあるまい。


「食べたいです」

「じゃあ正直に言って?」

「少しだけ忘れてました」

「ほんとにー?」

「数字見るまで忘れてました」

「よろしい。実は、私もさっきまで忘れてたりして」


 伊織が悪戯そうに笑って言うので、頭を軽く小突いた。


「お前な」

「えへへ。それで、お祝いしたくなったの」

「なるほど」


 確かに、伊織がこうしていきなり何かしよう、と言ってくるのは珍しい事だった。彼女は、あらかじめこちらの予定なりを確認した上で提案してくる事が多い。それをしてこなかったというところを見ると、本当に忘れていたのだろう。


「楽しみにしてる」

「うん! 頑張って美味しいもの作っちゃうぞ〜」


 伊織は腕を曲げて、可愛く拳を握った。そんな姿ですら愛おしくなって、荷物を持っていない方の手で、彼女を抱き寄せ、耳に鼻をうずめた。彼女はくすぐったそうに、でも嬉しそうに笑っていた。


 そのまま彼女の家でご飯を作ってもらい、夕食後は彼女の部屋でずっと過ごした。今は彼女のベッドの中で、身を寄せ合っている。

 布団の中で手を握ってぼんやりとしていると、ふと目が合った。どちらともなく顔を寄せ、唇を重ねて、そのまま舌を絡ませる。唾液を交わす音が、物音ひとつしない部屋に響いた。

 先ほどまで散々同じような事をしていたくせに、まるで飽きる気配がない。人間とは不思議な生き物だった。

 彼女はこちらを向いたまま枕にそっと頭を下ろすと、嬉しそうに俺を見ていた。


「なに?」

「ううん、幸せだなって」

「俺も」


 そう言って、彼女を抱き締めて、密着した肌全てで彼女を感じる。これほど人を愛しく思う事があるのだろうか。そう思うくらい、彼女を大切に想っていた。

 初めてできた恋人が伊織でよかった。心からそう思っている。

 神崎君の話を聞いたからかもしれないが、こうして互いに想いを受け入れ合える事は、奇跡に等しいように思えるのだ。どれだけ想っていても、叶わない事はある。気持ちのベクトルや重さが異なるだけで、関係は上手くいかなくなる。そして、世の中ではそういった事の方が圧倒的に多い。

 本当の事を言うと、彼女の部屋で事に及ぶのは抵抗があった。そういった事をしてはならない場だと勝手に思っていたし、何より、一階には仏壇もある。さっき下で手を合わせておいて、大切な娘さんとこういう事をして良いものなのか、と不安になるのだ。

 意外に思われるが、俺はそういった事を気にするタイプだ。

 ただ、なんとなく漫画を読んだりしながら二人でゴロゴロしていると、そういう空気になってしまって……そこからはもう憚るものは何もなかった。

 京都で『二人きりで、落ち着いたところならよかったのに』と彼女が言っていたのもあるし、彼女もそれを望んでいたのだろう。あれから、バンドの解散や神崎君達の事など、たくさん問題があった。修学旅行から帰ったら、などと思っていたけども、全くそんな余裕がなかったのだ。

 いろんな言い訳を自分にしたが、敢えて拒む理由もなかった。というか、自分が望んでいる以外にも、彼女もそうしたいと思ってくれていたのが、何より嬉しかった。

 そうした経緯があって、今この上ない幸福感を味わえている。ご両親に対して罪悪感がないわけではないが、少しだけ目を瞑っていてほしいと、心の中で思った。

 時刻はもう午後十時を回っていた。そろそろ帰る時間だが、なんとなく今日は帰りたくない……そんな事を考えていた。


「ひとつだけわがまま言っていい?」


 伊織が唐突に訊いてきた。


「なに?」


 彼女は少しだけ躊躇しているようで、言い淀んでいる様子だった。そして、顔を伏せながら、申し訳なさそうに小さな声で言った。


「やっぱりいい……」

「なんだよ」

「ううん、ただ……」

「ただ?」

「その、寂しいな、って……」


 この言葉を意訳できない俺ではない。きっと、伊織も俺と同じ事を思っていたのだ。一緒にいてほしい、帰ってほしくない、と。この一軒家を彼女一人で暮らすには、あまりにも心細いのだろう。


「……俺もだよ」


 そう言って、明日の事を考えた。明日は予定もないし、一日フリーなので寝て過ごそうかと思っていたほどだ。

 そこで俺は決意し、ベッド脇のナイトスタンドに置いてあったスマホを取って、LIMEを開く。母とのトークを開いて、『今日は信の家に泊まる』とだけ送った。

 さすがに一人暮らしをしている彼女の部屋に泊まる、とは送れなかった。そもそも親は俺に彼女がいる事も知らない。

 よくもまあバレないでいるものだ、と思っている。信には後で適当に話を合わせるよう伝えて、飯を奢っておけばいいだろう。彼に弱みを握らせる事になるが、仕方あるまい。


「……いいの?」


 伊織は、俺が送った内容を見て、申し訳なさそうに訊いてきた。彼女がはっきり『帰ってほしくない』と言わなかったのは、罪悪感からだろう。

 ただ、それでも……彼女が本当にして欲しい事を言ってくれたのは、これまでの彼女からすると、大きく前進したと思えるのだ。

 伊織は基本的に人に合わせて、自分のわがままを押し殺す傾向がある。俺にだけはそうしてほしくなかったから、こうして本心を言ってくれるようになったのは、素直に嬉しいのだ。


「いいよ。俺も同じだったから」

「私、真樹君にいつもわがまま言ってばかりだから……今、言った事すごい後悔してる」

「いいんだよ。たまにはさ。そんなにわがまま言った事なんてないだろ」

「……でも、無理はしないで。なんでも聞き入れられたら、私も調子に乗っちゃうかもしれないから」

「わかった。約束する。無理はしない」


 言うと、彼女は嬉しそうに微笑んで、俺の首元に鼻をくっつけてきた。


「くすぐったいよ」

「好き、大好き」

「ああ……俺もだよ」


 あの観覧車以降だろうか。彼女は前よりもこうして『好き』とよく伝えてくれるようになった。恥ずかしいながら、俺も頑張って伝えるようにしている。

 想っているだけなのと、実際に言葉に示すのでは、全く意味が異なる事を、俺たちはあの時まざまざと思い知ったからだ。

 バンド解散後の微妙な距離も、ちゃんと言葉で気持ちを伝えていれば、なかったかもしれない。だから、ハッキリと言葉にして気持ちを伝えるようになったのだと思う。

 見つめ合って、もう一度口づけようとした時、スマホがピコンと鳴った。LIMEの通知音で、母親からだった。

 どんな返事が来るのか気になって、開いた。どうしても帰って来いと言われたら、帰るしかあるまい。それに、ここから家まで十分とかからない。そう思って開いてみると……


『了解〜』


 ほっとする。が、しかし……


『ただ、二つだけ条件』


 条件? 今まで何度か信の家に泊まりに行った事があるが、こんな事は言われた事がなかった。

 俺と伊織は顔を見合わせて、母からの次の送信を待っていると、次の文章はすぐに届いた。


『条件① ちゃんと避妊をすること』


 ブフォッと鼻水が吹き出てしまった。

 え? バレてた? 彼女いるってのも、彼女と泊まるってのもバレてた? 今までそんな気配全く出さなかったのに。

 そして、追撃が母親から繰り出される。


『条件② 今度ちゃんと家に連れてきて紹介すること』


 母親、恐るべし。完全にバレていた。これは逃げられない。伊織からもこの前ちゃんとご挨拶に行かなきゃって言われていたけれど、これは……むしろ伊織も行きづらいだろう。

 横で母から送られてきたメッセージを見ていた伊織は、固まってしまっている。しかし、母からの追撃は、まだ止まらない。


『追伸:ご近所さんの目撃情報を舐めるなよ!』


 イッヒッヒ、といやらしく笑っている魔女のスタンプが送られてきた。

 おのれ、ご近所さんの目撃情報か。いや、ほぼ毎日一緒に歩いていたから、見られていて当然なのだけけど……不覚だった。


「……だそうです」

「だそうです、じゃないよ! このタイミングでこれは恥ずかしすぎるでしょ! お母さまに会わせる顔ないよ〜!」


 恥ずかしげに嘆きながら、顔をすっぽりと毛布で覆い隠してしまった。これは、確かに恥ずかしい。俺も恥ずかしい。僕たちヤリました、と報告しに行くようなものだ。

 いや、正確には二か月前に俺の部屋でしているのだけども。が、しかし……変に長引かせるのもおかしな話だ。きっとこれから「いつになったら連れてくるの」攻撃を毎晩のように受けるだろう。休日に出かけようとする度に何か言われるのも明白だ。これはこれで結構きついものがある。


「伊織、明日は何か予定ある?」

「……ないけど?」


 毛布から目元だけ出して、恥ずかしそうに涙目でこちらを見上げてくる。


「一緒にうちきて。明日、紹介する」


 言ったら、今度は一瞬固まった後……


「……む、むりむり! 絶対むりだよ!」


 猛抗議をされた。


「だ、だって、今日の明日だよ? 心の準備が……」

「いや、冷静に考えてくれ。これ、時間経てば経つほど行きづらくなるって。そしたら俺もどんどん伊織と遊びづらくなる。それに、明後日から春華ちゃんくるんだろ?」

「そう……だけどぉ……」


 涙目で懇願してくる伊織。懇願してもダメだ。明後日から、伊織の親友・榊原春華が東京に遊びに来るのだ。そこから数日滞在するらしいので、紹介できる日はどんどん遠のく。


「よし、じゃあ明日に決定」

「……ほんとに? ほんとに明日? お母さまも予定とかあるんじゃない?」

「明日はなかったはず」

「そんなぁ……」


 伊織の回避策がどんどんなくなっていく。そして、トドメを刺すべく、俺は母親に『明日連れていく』とLIMEを送信した。


「というわけで、もう送った」

「え、嘘でしょ⁉ ほんとに⁉」

「マジもマジ、大マジだ」


 俺がスマホの液晶を見せると、ちょうどその時に母から『了解!』の魔女のスタンプで返信があり、彼女はがっくりと肩を落とした。


「真樹君のばかぁ……」

「もう、腹をくくるしかないって」

「そうだけど……心の準備が……」

「一晩あればなんとか」

「ならないよ〜!」


 俺の言葉を遮って、ばふっと顔を枕に埋めた。


「はあ……せっかく真樹君が初めてお泊りしてくれるのに、全然思ってたのと違う……」

「どういうのだと思ってたの?」


 言うと、伊織は顔を赤くしてじっとこちらを恨めしそうに睨んでくる。


「もう知らない。ばか」


 臍を曲げた子供のように、一瞥してからぷいっとこちらに背を向けて寝た。そんな彼女を後ろから優しく抱き締める。


「これからも泊まりにくる為にも、必要だと思って」


 言いながら、新雪のように白く綺麗な背中に唇を這わせて、優しく何度もキスをする。彼女はびくっと体を震わせ、甘い吐息を漏らした。背中が弱いのは、さっき知った事だった。


「わかってるよ……でも、急すぎて心が追いつかないの」


 相変わらず拗ねた表情で、もぞもぞとこちらを向きなおした。背中を攻められるのは嫌らしい。


「お母さまに嫌われないように、頑張るね」

「伊織なら大丈夫だよ」

「どうして?」

「俺がこんなに好きだから」


 言って、彼女の拗ねた顔にキスをする。


「ばか」


 そうして、今度は彼女から唇を重ねてきた。そんな甘い時間が続いた。幸福はまだまだ終わらない。

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