幸福なキス

 キスがしたい、と彼女は言った。

 幸せで満たされるようなキスがしたい、と彼女はそう言った。


「そんなにしたいなら、俺がしてやるよ」


 彼女とはそう言う関係ではなかったし、そういう感情も抱いたことはなかったけれど、別にキスをするのが嫌なわけではなかった。


「そんなロマンチックじゃないキスは嫌だよ」

「じゃあ、ロマンチックにキスをしてくれる相手を探したらどうだ?」

「……そこは、『じゃあ、ロマンチックなキスをしてやるよ』っていうところじゃないの?」

「俺には無理だ」


 そう言うと、彼女はわざとらしく頬を膨らませた。


「無理に決まってるだろう。俺はお前をそういう風には見れないし、死んでもロマンチックなキスなんてできないね」

「……それもそっか」

「それでもいいなら、キスをしてやるけど?」

「……あんたはそれでもいいの?」

「別にいいって、いつも言ってるだろ」


 それでも何かを疑うように、彼女は俺のことを見てくる。

 そんなに信用ないのかな、俺。

 彼女とは、それなりに信頼関係を築けていたと思ったんだけど。


「……私が嫌なんだよ」


 そしてぽつりと、切なそうに漏す。


「でも、もう限界なんだろう?」


 うん、と消え入りそうな声で言った。

 彼女はずっとずっと、我慢していたんだろう。その、欲求を満たすために。


「じゃあ、すればいいじゃないか。俺はもうとっくに覚悟はできてるんだよ」


 ――――お前の、命の糧になる覚悟が。


「嫌なの。嫌なんだけど、あんたとキス、したい。あんたの命を、食べたい」

「だったら、食べてくれよ。死に方を選べるなら、俺はお前に殺されたい」


 人間、死に方なんてそうそうに選べない。選べる機会なんてないのに、俺にはそれができる。

 なんて幸福な人生だったんだろう。


「…………そういうの、ずるいと思うんだ」

「…………躊躇うお前も、充分ずるいと思うぞ」

「…………だね」


 決意をしたように、彼女は息を吸った。


「いただきます」


 そして、俺の唇に唇を重ねる。彼女の唇はふんわりとしていた。


 ――――俺は今、幸せだ。


 そう思いながら、吸われていく。

 俺の命は彼女の糧になる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る