第77話

(その77)


 空高く飛ぶ一羽の翼。

 何と美しい翼だろう。

 その翼がやがて弧を描いて空の一点から舞い落ちて来る。そう、落ちて来ると言った方が良いほどそれは急降下して、ミライの眼前に勢いよく迫った。だがそれはミライの面前で急停止すると、やがてふわりと弾力のあるものが弾けるように面前に差し出された腕に柔らかく止まった。

 生命の持つ強靭さというかしなやかさというか、発条のような運動と停止。

 それらが面前で瞬時に行われ、差し出された腕に時を押しのけて着座するように止まる。空高く広げられた翼はやがてまるでこの世界のあらゆる約束ごとの様に美しく閉じられた。

 ミライは大きく見開いた目でこの世界の感動を網膜に焼き付けた。

 それ程までに、この猛禽類の翼と言うのは美しかった。


 ――ミライ


 自分を呼ぶ声。

 少年は振り返る。

 振り返れば、側に自分を呼ぶ祖父が居る。少年の視線の先にみえる祖父は僅かに帽子の鍔を上げて手に杖を持ち、腕に止まる風鷹(ホーク)の嘴に優しく指で触れている、。その祖父の眼差しは限りなく澄み切り、自然の中で生きる知性が見える。

 具師トネリ。

 それだけでアイマールの人は尊敬の眼差しで祖父を仰ぎ見る。

 それは人々の不具に装具を与え、人生を出来る限る豊かにすると言う職人としてだけの尊敬だけではない。仕事の為にはこの世界のあらゆる言語の及ぶ処まで旅し、言わずんや、櫓櫂の及ぶ果てにまで旅する辺境の賢人としての尊敬である。

 人々は遥か古代に生きた辺境の旅人である預言者イシュトと祖父を共に賢人として誰もが重ねて見ているのだと少年ミライは思っている。

 ここはアイマールの西南にある岩道。かつて遥かな時代古マール人がここを通ってアイマールにやって来たといわれている道だ。

 この道は岩を削って出来ているがやがてその先は広々とした山岳の峰から下る丘陵地にでる。そこを小さな草原(リッドガルド)と人々は言った。祖父はその地に住む放牧人の為の仕事があった。

 まだ陽も昇らぬ朝焼けを待つ頃、小用に起きたミライが窓から降り注ぐ月光の朧明かりの中で仕事支度をしている祖父を見つけた。不意に何かを感じた祖父が顔を上げるとミライと視線が合った。

 ミライを見た祖父はどこか隠し物を見つけられた恥ずかしさを押し殺す様に微笑すると、少年に言った。


 ――ミライ、お前も来るか。小さな草原(リッドガルド)まではそれほど遠くない。仕事だ。


 それを聞くとミライは急ぎ自分の部屋に戻ると、フードと肩から皮袋を紐掛けして帽子を被り、立ち上がる祖父と共に見送り人がまだ寝静まる家を出た。

 やがて二人は月明かりの中、小川に架かる橋を渡り、小さな草原(リッドガルド)へ向かう道へと静々と歩んでゆく。

 やがて一番鳥の無く声が聞こえた。

 その頃には陽も昇り始め、二人は小さな草原(リッドガルド)に向かう岩道を歩いていた。一番鳥の鳴く声にミライが振り返るとアイマールの田野は朝陽で美しく映えた。その美しい田野の上を風鷹(ホーク)が一羽、弧を描いていた。

 その風鷹(ホーク)は今祖父の腕に居る。

「美しいだろう。こいつらの翼は」

 言ってから優しく羽根を撫でる祖父の肉声が響く。

 少年は黙って頷いた。だだ黙って自分を見つめる風鷹(ホーク)の眼差しを見て思った。

(いや…それだけじゃないぞ。こいつ…)


 その翼に朝陽が照らし出されゆく。その翼の美しさ。

 その時、祖父が指笛を鳴らすのが聞こえた。聞こえるや、風鷹(ホーク)は首を動かすことなく、こちらを確かに見た。見ただけではない何かが風鷹(ホーク)の嘴の筋肉を緩ませるのが見えた。

 それがミライの目を大きく見開かせた。


 ――あいつ、僕を見た。

 

 いや、それだけじゃない。


 ――微かに微笑しやがった


 ケェーと気高い声が響くと風鷹(ホーク)は空に向かって振られた祖父の腕から離れ、二、三度翼を動かすと自分が生まれた空へと帰って行った。

 風鷹(ホーク)の飛び去った軌道をミライが思う様な眼差しで見つけている。その眼差しに祖父が声をかける。

「どうした?ミライ」

 ミライは左瞼に触れてから、ちらりと祖父を見た。

「祖父ちゃん、あいつ。微笑ったんだ」

「微笑した?」

 少年の指先に蟠る僅かな不思議。それを運んだ風鷹(ホーク)の軌跡を追うように、少年の指が空を指差した。

「そうだよ。あの空からこちらへ向かう時、確かに微笑したんだ。それから、勢いよくこちらに向かってきて、まるで僕をからかうように急停止して驚かせたんだ!!」

 それを聞いて祖父は段々と破顔して遂に笑い出した。それを見つめる少年が顔を紅潮させる。

「祖父ちゃん、何が可笑しいんだよ。微笑したんだ、あいつ。微笑したんだぜ!!あの獣野郎が!!」

 少年が感情のまま吐き出す言葉を笑いながら聞いていたが、祖父は不意に真顔になって少年に言った。

「ミライ、何故風鷹(ホーク)が微笑してはいかんのだ?風鷹(ホーク)もこの世界に生きる一部であし、我らの同朋ではないか?」

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