45.前しか向かない


 俺は昼の刻まで眠ったあと、重たい体に鞭を打って再び狼峠へと歩き始めた。


「――う……?」


 しばらく歩いて、なんともいえない不安感に包まれて立ち止まる。


 気が付けば周囲は高い木々だらけで光が遮られ、昼間でもやたらと薄暗いだけじゃなく道らしい道もない荒れた獣道ばかりなのだ。


 今更引き返すわけにもいかない。前へ進むんだ……。


 それでも前方は延々と上り坂になってるだけでなく、地面がぬかるんでることから大して進めず、一歩足を前に運ぶたびに森は俺から容赦なく体力を奪っていくようだった。


「――っ!?」


 ふと立ち止まって水筒で水分補給したとき、遠くから金切り鳩の鳴き声がしたかと思うと、まもなく俺の体が小刻みに震え始めた。


 ……ど、どうしたんだ? 俺の足が……。


 そこそこ冷え込んでるものの肌寒さは今までとほとんど変わらないし、風もあまりないのに呼吸が荒くなり足の震えが止まらず前へ進めなかった。


 それだけ過敏になってしまってるんだろうか。きっと今の俺は顔面蒼白で、目玉も飛び出しそうになってるに違いない。


 一度怯み出すと、無心に歩いてたときには感じなかった恐怖の感情がどんどん頭の中に入り込んできて、しかも増殖までしてくるもんだから不思議だ。ここまで来たら、もう簡単には引き返せないという現実がそうさせるのか。


 一刻も早くこの負の連鎖を断ち切らないとダメだ。何故なら、ラピッドウルフはがあるという。


「……げっ」


 この状況を緩和させるべくエッチなことを思い浮かべようとしたが、何故かベリテスのたくましい体とウィンクが浮かんできて首を横に振った。でもそのおかげか大分落ち着いてきた気がする。


 それから俺は一歩ずつ前へと進んでいった。立ち止まろう、引き返そうとする意識を、邪念として木の葉や枝とともに踏み散らしながら。






「――はぁ、はぁ……」


 あれから丸一日、俺は息を切らしながらも森の中を北に向かって歩き続けたわけだが、木々の賑わいは増していくばかりだった。


「あっ……」


 見渡す限りどこを見ても同じような光景だから、もしかしたら迷ってしまってるんじゃないかと思って小指を石板に当てて位置情報を確認してみたわけだが、そこに刻まれた文字は俺の立っている場所が狼峠であることを如実に示していた。


 なんだよ、のか……。


 確かによく見ると、この地点から先はなだらかな下りになっているのがわかる。無心で歩いてたらいつのまにかここまで上り詰めていたってことだ。


「くっ……」


 今まさに自分が狼峠にいると思った途端に緊張感が膨らんでくるが、頭を横に振って抑え込む。ここからが大事だ。なるべく怯まないように心がけながら用心深く薬草を採取し、迅速にここから立ち去らないといけない。


 薬草の特徴についてはベリテスから聞いている。


 急な斜面に生えていることが多く、先端が人の手を上向きに広げた形であることから、手の平草と呼ばれているとか。その数の少なさに加え、狼峠というただでさえ危険な場所にあるというだけでなく、足の踏み場がないようなところに生えているため、というありがたくない異称もあるらしい。


 ほろ苦さの中にも蜂蜜のような甘みがあり、少量なら薬としてとても有用だが、多量であれば死に至る毒にもなってしまうというのも、そう呼ばれる所以の一つなんだろう。


 今のところ狼たちの気配はまったくない。まだ昼間ということもあるんだろう。やつらは夕方から夜にかけて行動することが多いそうで、この時間帯に到着したというのは計画通りでもあった。


 俺は滑り落ちないように少しずつ斜面に近寄り、例の薬草がないかどうか目を凝らす。


 寝てないせいか左目が霞むが、何度も擦ったりまばたきしたりして前を見据える。耳をすませばせせらぎが聞こえてきた。決して幻聴などではない。実際に急な斜面の下には砂利だらけの川辺の一部が見える。俺が落とされた崖ほどじゃないとはいえ結構な高さがあるし、ここから少しでも足を滑らせたら無事じゃ済まないだろう。


 ――ん? 斜面の下のほうにそれらしいものが見えたと思ったら……早速見つけた。一見、人の遺体が土の中から手を出しているかのようにも見える、不気味な茶緑の草――手の平草――だ。あれで間違いない。俺は落ちないように木と自分の体をロープで結び、慎重に斜面を下って薬草に左手を伸ばす。


 もうすぐだ。もう少しで掴める……よし、掴んだ……。


「ちょっ……!」


 振り返って戻ろうとしたとき、命綱のロープを齧っているが見えた。


 あ、あれは……ミミクリーラットだ。


 普段は森で木の実や昆虫を食べて暮らしていて、身の危険を感じると木の枝に擬態する大人しい生物だが、好奇心旺盛で珍しいものが近くにあると噛む習性がある。


 薬草に集中しすぎてしまってか、やつの気配を感じることができなかったようだ。ここは狼たちの住処でもあるので大声を出すわけにもいかず、俺は小癪な鼠を目で威嚇した……が、ダメだ。一心不乱に齧っていて、今にも千切れそうになっている。


 このままじゃまずいと思い、俺は咄嗟に薬草を咥えると同時に左手でその辺の蔦を掴んだ。


「――なっ……!?」


 あえなく蔦はロープと同時に千切れてしまった……。

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