第2話カイト

 転寝をしていた。

 在り来りで退屈な休日。

 手帳は暫く、空白が埋め、陽の出から入りまで籠ることが多かった。

 たとえ、哀しみに打ち拉がれていようとも時間は確実に過ぎていき、眠たくなれば寝るのだから、平日を繋ぐ休日が、億劫であったわけではない。

 けれども、なんて退屈な毎日。

 緩やかに、穏やかに、老いへと向かっていた。


 妻が早くに死に、息子までも家を出たため案外早くに一人になった。

 何もなくなった五十過ぎの男は、仕事以外に趣味もなく、休日は部屋の整理ばかりで、もういい加減散らかった場所を探すほうが難しいのだ。

 また、カメラでもやってみようか――少しそういう気になっても、ああ、あれは確か物置の奥の方に仕舞ってしまったんだ――と思い返し、留まる。

 億劫だと思ってしまう。

 溢れるような活力がないのだ。

 一人になるということを存分に味わうこと――それはやはり、淋しくはあったが、泪が零れるほどではない。

 この家に何もないこと、残された自分すら何もないこと――自覚すればするほど、心の隙間風が一層強く吹いて身震いしたが、生きていかれないほどの空虚感ではない。結局自分は、最後のところで現実的でこの世界に属していたいと願いながらも、どこか受け身で投げ遣りなのだ。

 それがどうだろう。

 ここ最近、泉カイトは一向に醒めぬ夢に居るような感覚が続いている。この不確かな現実では、生きている心地がしないのだ。

 ――原因は分かっている。


 やはり、長い夢を見ていた。けれどそれはいつも転寝なのだ。

 今だってそうだ。

 少し意識が覚め、現実らしき世界へ引き戻される。けれども余韻はまだ残っているから、再び目を閉じると気付けば終わったはずの夢の続き――転寝を繰り返せば夢は永続しまるで最終話の訪れないテレビドラマを見ている気分だったのだ――をいつまでだって見ることができた。

 それがどうだろう。

 今さっき、目覚めた。目覚めたと自覚して、再び目を閉じても、もう既に頭がそれとなく目覚めている。

 見当識は曖昧だったが失ってはいない。

――自分は泉カイトという人間だ。

 意識はできた。

 再び目を閉じてもそれは単なる瞬きの一つにしかならなかった。

 そして、目覚めると不思議なことに、先程見ていた長い夢の内容が――目覚めた直後には残っていた残像が、全く思い出せなくなっていた。ただ、まあ幸せな長い夢を見ていたということしか、既に思い出せないのだ。

 身体が自分のものではないようで、息をしているのに実感がなく、それでも息苦しさは感じない。

 鈍麻だ。

 視覚はまず、重度に鈍麻している。感覚受容器の問題ではない、脳かもしくは神経か――。陽の確認も適当なので今が昼か夜かさえ分からない。何となく知覚している世界はただ、白くて、眩しいのか曇っているのか、ただただ白くて――。

 聴覚は知らない。この部屋には音がないのだ。

 指先に感覚が戻り始めている。

 カイトは、床を手探りながら強く打ちつけ、音を立ててみる。鈍い、音がした。

 何もかもを夢に置いてきてしまったような喪失感が消えない。その原因は分かっているけれど、カイトは言わない。


 ようやく身体が思い通りになり、這ってでもいいからと台所まで向かった。水を一杯、とにかく飲みたかったのだ。とても咽が乾いていた。

 雲の上を歩くのを想像してみるとこうなんだろうか――踏みしめる足跡が残らない。それでも今のカイトには器用に歩いた方だろう。

 流しに左肘を立てて上半身を支え、ようやっと右手を蛇口まで伸ばす。蛇口を捻ると勢いよく水が溢れ、コップを翳してもまともに溜まっていかない。勢いよく注がれ続けている間は水泡が膨れ上がって実際にどれ位の分量がコップに注がれているかなど、分からないものだ。

 水を止めるとやはり水嵩は低く、それでも溜まった分量を飲み干した。

 そう、水は冷たかった。

 冷たさが、指先と、それから口から食道を伝って全身に滲み渡るのが分かる。最初は触れた指先、それから身体の中心部から末梢へとじわじわ広がるようなイメージで、カイトの身体は芽吹いていった。


 確りしてきた意識で、まず何をしよう。

 そもそも休日は何もやることがないのだ。けれどもカイトだって探せば仕事はある。もう、転寝をする気分にはなれないから、やはり何かすべきことをするべきだ。

 カイトは考えた末、それでもやはり、片付けを始めた。

 カイトにとって、片付けはいつでも途中だった。まるで、絵のようで、納得のいく完成はいつまで経っても訪れない。

 部屋の片付け――嘗てのカイトにとってそれは所謂、記憶の整理であった。何も生み出しはしないが、今の自分を構成する大切なものたちを慈しむ時間だった。

 生を受けて半世紀が過ぎ、折り返し地点はとうに越えたであろう。焦るでもなく恐れるでもなく、緩やかに、鼓動が止まるその日まで歩き続けるのだ。

 迎えを待つのではない、ただそこへ向かっていくこと――在り来りで一向に構わないとカイトは思っている。

 整理をしながら、自分の物達が何処に仕舞ってあるのか、いつでも取り出せるように把握していくことが、いつしかカイトの使命のようになっていた。カイトは、普段思い出を振り返り浸ることはあまりない。その代わり、片付けの時間だけは、私物に触れて記憶にすら触れることを許していた。


 長い間動かしていなかった書斎にある、パソコン――。息子との遣り取りにと買ったものだ。

 たまたま大きな埃を見つけたから、机を拭こう、そう思い立った。今一度台所まで向かい、流しでタオルを湿らせ戻ってきた。先程とは大分違う。

 足取りは確かだ。

 ぽん、とタオルを机の上に置いた。

 丸めた真っ白なタオルには、今指先から離れたカイトの指跡がくっきりと残り凹んでいる。机を拭くために、まずは上に積まれた本やら灰皿を一つ一つ退けていこうと思った。

 触角もまともだ。

 カイトの手は物々を確りと捉え、決して滑らせたり落としたりすることはなかった。

 机の上には、カイトが教える数学の指導書や難しい論文、その他は随分溜まった新聞紙、歴史小説が高く積まれていた。題名はとうに見飽きたから、いちいち中身を開いたりはしなかった。

 黙々と没頭する。特に、何を考えているでもない。

 パソコン以外に何もなくなった机を軽く拭いた後、確りと拭いていった。キーボードの表面にも埃は薄ら積っていた。タオルで丁寧に拭き取ると、こんなにも白かったんだと感心する。

 そんな調子で本体を少しずらすと、机とパソコンの隙間にくしゃくしゃの紙を見つけた。取り出すと、どうやらスーパーのレシートが数枚、束になっていた。纏められていたわけでもない、ただ数枚重なっていたのだ。日付はどれも割と最近のものだ。

 自分には身に覚えがないが、忘れたのかもしれない。ゴミ箱へ目を遣り、丸めて投げる仕草をしてみたが、手首のスナップに納得がいかず、どうも距離感が掴めないので入る気がしない。

 後にしよう――そう思って何気なくレシートを裏返した。


 裏返して、驚駭した。

 一瞬で、脳が活性化する。カイトはまさに今、完全に目覚めた。

 そして忘れかけていた長い夢の一つ一つを、思い出すことができた。止めようとしても、止まらないのだ。

 パラパラと落ちたレシートの速度で、ポートレートが脳内に幾カットも上映される。


――マオ。


 恥ずかしいほどに泣いた。

 こうやって、部屋の片隅には、やっぱりどこかに彼女の、マオの存在がひっそりと息吹いている。それを感じる度に何度でも、自分はこうやって泣くのか。大の男が――だらしない。

 夢から完全に醒めた。

 朧でまあ幸せだと思っていた世界からの脱却は、カイトの目に飛び込んでくる事物の輪郭線を明確にし、早朝の森で吸うような新鮮な空気を、カイトの身体に送り込んだ。

 肺が、跳躍する。


 忘れてはいけなかった。そもそもカイトは忘れるつもりはなかった。

 忘れてしまえれば楽なのかもしれないマオの記憶。しかし、こうして、マオが確かに存在していたことを、自身が否定せずに生きていくことは、あの頃の自分よりもひどく前向きでいいじゃないかと思う。マオの願いを暫く忘れていたカイトは、マオに済まないと心底思った。そして、彼女と過ごした短い期間に、彼女が望んだ全てのおそらくほんの一部しか叶えてやることができなかったと少し後悔した。

 足元に、はらりと落ちたレシート。マオが、最後に言っていた。


――私を殺して、ね。

――カイト、壊れかけてるの、私。




「マオ」


 そして暫く忘れていた、カイトは声を取り戻した。

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