第2話




 部屋にはまた静寂が戻って来つつあった。核爆弾はもう落とされたのか、それともまだ普通の爆弾でもったいつけて威嚇行為を行っている段階なのか。よくわからない。でも僕を置いてさっさとシェルターへ避難してしまった研究所の職員は皆、核戦争が始まったことを確信していたし、ラジオでもテレビでも「核」という単語を繰り返していた気がする。とはいえすぐに放送は断ち切られたので、結局本当のところはわからない。

 僕は銃口を彼に向け直し、片手で新しい煙草を取りだして咥えた。床に落とした吸い殻を靴先で踏み潰しながら、ライターで火をつける。ふと見れば、モンスターはその赤い目でまじまじと銃口を覗き込んでいる。僕は途端に「この醜い動物をいじめたい」という原始的な暴力衝動に駆られ、椅子から身を乗り出した。


「おい」


 声をかけると、彼はきょとんと首をかしげる。僕は薄ら笑いを浮かべて言った。

「これが何だか知りたいか?」

 モンスターは答えなかった。答えるまでもなく、彼はイエスという返事しか持たない。飼い慣らされた怪物には、はじめから意思などないのだった。僕はすばやく引き金を引くと、モンスターのすぐ近くの床に向けて、銃弾を二発続けて撃つ。彼は数センチほど跳ね上がって驚くと、ものすごい速さで壁際まで下がっていった。おそらく命の危険を感じたというより、単純にその爆音に驚いたのだろう。ぶるぶる震る手で耳を一生懸命塞ぐ化け物に、僕は高らかに笑いながらまた銃口を向ける。彼のすぐ横の壁に次々と穴が開く。



「やめてよ。そんなことしないでちょうだい」



 ずだん、ずだん、と鳴り響く愉快な銃声に紛れ、ふと、脳裏にそんな声が蘇った。聞き覚えのある声だった。モンスターと目が合う。僕は実験開始からこの方、彼の瞳が一等大嫌いだった。それは死んだ祖母の目を思い出させた。血走って苦痛に満ちた、骸と成り果てる間際の祖母の目が、僕をあの世から監視しているような、ウサギの目はいつも僕に、そんな気味悪い錯覚を起こさせるのだった。



 お前はどうしてそう動物に酷くあたるの? 



 祖母は僕に会うたび、口癖のようにそう言った。小学校の頃までは同じ家で暮らしていたが、都会の学校に引っ越してからは年に一度しか会わなくなった。そうすると毎回、両親は僕の成績や自由研究を自慢げに報告するのだが、そのたび祖母はため息と共に僕を憐れみの目で見るのである。それが僕にはたまらなく不快だった。

 祖母には科学の素養がほとんどなかった。水素と水の違いも、地球の内部構造も、この世界の物質がすべて原子で構成されていることさえも、祖母は知らなかった。金属ならなんでも磁石にくっつくと思っているような人に、自分の研究をとやかく批評してほしくはなかった。


 僕の中学には、志願すれば条件付きで実験動物が支給されるシステムがあって、それで僕はよく自由研究の課題に動物実験を使った。


 都内屈指の大きな学園だったが、こと動物実験の巧みさにおいて、僕の右に出る者はいなかった。部門ごとに表彰される研究発表会では、テーマの独創性とデータの正確性によって僕の研究はほとんど毎回ずば抜けた高評価を勝ち取り、生物部門の最優秀賞は僕の独占状態であった。

 しかしいくらきらびやかなトロフィーや楯を見せても、祖母はまったく喜ぶことがなく、むしろほとんどの場合は僕の父……つまり彼女にとっての息子に対し、教育方針についての説教を始めるのである。

「最近の人にはわかってもらえないかもしれないけどね。でも人生っていうのは、いつでも自分の思い通りになるわけじゃない。自分の理想通りに子供を育てたいと思っても、どのみち、少しはそこから逸れるものよ」

「僕が自分の息子に完璧を求めすぎてるってことかい?」

「わからないっていうの? ああ、息子をこんな風に育ててしまった自分が恥ずかしい。あの子が一体、どれだけ——」

 おおよそこんな風な会話だった。もう断片的な記憶しかない。とにかく、僕は祖母が大嫌いだった。


 その数年後、僕が高校生の時に、彼女は膵臓ガンで死んだ。家族とともに最期を看取った時、祖母は体の命が尽きるずっと前に、すでに死んでいたように思われた。父も母も特に気にしていないようだったが、いくら話しかけても、彼女はほとんど何も反応をしなかった。緩やかな心電図の音と弱々しい把握反射だけが、祖母をこの世につなぎとめていた。


 死んだ時の年齢が、たとえ数秒でも人より大きな数字であること。


 それだけが、この時代に生きる全ての人の、ひいては科学国家の誇りなのだ。僕は人の死は本当に醜いと思った。最期が近づいて何も言えなくなる少し前、祖母はベッド横の椅子に座る僕に、「豆大福が食べたい」という、えらくどうでもいい最期の言葉を遺した。食べられるわけがない、と首を振ると、彼女は泣きそうな顔になって甲高い呻き声を上げ、血走った目を剥いて暴れ出し、ナースを駆けつけさせたりさえした。人の老いというものを克服する研究がなくならないのも納得がいく。老いて死ぬみっともなさと言ったら、あまりにも見るに耐えないものだ。より若々しい姿を保ち、より長く生きて、清らかに逝きたいと思うのは、きっと人間の古来からの悲願に違いない。

 それができないのなら、せめて苦しまず死にたいと、安楽死を選ぶ高齢者もすでにいるにはいたが、祖母はそうしなかった。当時安楽死していたのは、家族に絶縁されたか先出されたかして孤独になった人が多かったので、どこか惨めなイメージがあったのかもしれない。しばらくはそう思っていたが、祖母の葬式の時、それは違ったのだと知ることになった。酒に酔った親戚が教えてくれたところによると、両親は彼女に安楽死しないよう繰り返しデマや嘘を吹き込んでいて、そしてそのほとんどは「安楽死をされると僕の成長に悪影響がある」という内容だったという。でも本当は、祖母の体質は少し珍しいものだったため、仕事の関係者から是非研究データを取りたい、と言われていたからに過ぎないのだと。

 僕は大学に進むと同時に、両親から距離を置いた。そして就職してからも、ほとんど連絡をしなかった。友達も恋人も作らず、同僚と付き合いで遊びに行く時間以外はずっと仕事で研究所にいて、動物の世話やデータ作成をした。それで何かが埋め合わせされるとは思わなかったけれど、そうしないといけないような気がしていた。



 気がつけば、銃が床に落ちている。



 モンスターはまだ震え気味に部屋の隅にしゃがみこみ、こちらの様子を伺っている。でも興醒めだった。全くこの脳ときたら、要らないことを思い出してくれる。そう思いながら紫煙を吸い込むと、硝煙の香りがほのかに鼻をついた。

 全くもって何もかも無意味に思えた。どうせこの辺り一帯はすぐ焼け野原になるのに、どうして今ここで、こちらに全く従順な実験動物の一匹をいたぶって殺す必要があるのだろう? むしろ撃ち殺したいのは僕ではなく、向こうの方だろうに。この狭い部屋に閉じ込められて、好きな物を食べる自由さえ与えられない……これまでこちらの身勝手にさんざん振り回されてきて、彼が僕を恨んでいないわけがなかった。僕は銃を蹴り、モンスターの近くにやった。


「好きにしろ」


 その言葉の意味はきっとわからないだろうと思った。それにそうしようと思えば、拳銃に頼る必要などないほどの力をそいつは持っているのだ。でも彼は、まるでその言葉を理解したかのように、おずおずと突如与えられた火薬の玩具を手に取った。

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