第4話 ラブホテルの攻防

「ねぇっ!」


東条さんの両手が、僕の肩を押す。


僕は、後ろに少しよろけてしまう。


東条さんは、悪戯っぽい笑顔を見せながら、僕を微笑みながら眺めていた。


東条さんが動いたその風が、東条さんの香りを僕に伝える。


「さっきから、どうしたの?行かないの?」


「え……本当に行くんですか?」


「え、なに?木田さんが行きたいって言ったんじゃん。わたしが好き者みたいに言わないでよ。」



「あ、ごめんなさい。ただ、本当に行ってくれると思ってなくて。」


「え、じゃあ本気じゃなかったってこと?」


「いや、本気です。本気で行きたいです。」


「なら、良いじゃん。わたしは二人きりでお話ししたい。木田さんはラブホに行きたい。お互いの利害は一致してるよね?」


東条さんの発言には力強さがあり、妙に説得力があった。


「じゃ、じゃあ行きましょうか。」


もう後は任せるしかなかった。晩夏の夜だというのに身体に寒気を感じていた。


喉はカラカラに乾き、身体が重かった。


東条さんはそのあとなにも発言することなく、ただ歩いていた。


僕らは歩き続け、新宿のネオンの灯りが、少

しずつ明るさを失ってきたところで、一縷の光を見つけた。



大きな公園のその奥に光る光には『With』と書かれていた。


その光に吸い込まれるように、僕ら店内へと入っていく。


入ると大きなパネルがあり、部屋の写真がたくさん映し出されていた。


僕は、映画やマンガで見たそんな光景に感動しながら、ひとつひとつの部屋を眺めていた。


絵画展の絵画をひとつひとつ詳細に眺めるように、僕は手を後ろで組みながらそれらを眺める。


しかし東条さんは、手元から一番近い部屋を選び、取り立てなんの感嘆もなく、受付へと進んでいく。


僕の絵画展はすぐに終わり、顔のない受付にお金を払う。


全くの無臭で特徴のない小さな檻が、僕らを三階へと運んでいく。


『302』と書かれた部屋のランプが点滅していて、僕らを誘導する。


ここまで来たら引き返せない。

僕は心を奮い立たせて、302号室へと突入していく。


部屋に入ると東条さんは、少し小走りでベッドへと飛び込んだ。


「はぁー、やっとゆっくりできる。」


東条さんは職場では見せない子供のような無邪気な笑顔を見せる。


「なんか生きるのって大変だよね。こうやってベッドで大の字になってる時が一番楽。」


東条さんの緩急に僕は付いて行けず、そしてはじめてのラブホテルでどこに立てばいいのか分からず、部屋の入り口でただ突っ立っていた。


「木田さんもおいでよー。フッカフカだよ。」


「え、あ、はい。」


僕は忍び足で彼女のいるベッドまで近付き、その前にあるソファに腰掛ける。


「そこなんだ。まあいいや。とりあえずなんか飲もうか。」


「あ、でも僕なにも買ってこなかったですよ。」


「え、何言ってるの?ルームサービスでお酒持って来てもらうんだよ。」


「あ、あー。久しぶりだから、忘れてたわ。」


なんだこの芝居は。


我ながらひどい小芝居に恥ずかしくなる。


けれど、東条さんは何も気に止めず、ルームサービスを注文していた。


しばらくして、飲み物が到着する。


僕のシャンディガフと彼女の赤ワイン。


二つのグラスが重なり合う。


東条さんがひと口だけワインを口に含む。


細く綺麗な指がワイングラスを包み込み、彼女の妖艶な唇がグラスの縁に触れる。


彼女のぱっちりとした目を閉じられ、流れ込む赤ワインを全身で味わっている。


そのすべての姿が芸術的に美しかった。


「ところでなんだけど、木田さん。」


「あ、はい。」


「わたしの事どう思う?会社での印象だけでお答えください。」


「えっーと。仕事が出来て、容姿端麗で所謂才色兼備のOLさんという印象です。」


「なるほどー。はずれー。実際は違うの。わたしはなにも凄くない。ただ顔がちょっとだけ良いだけ。」


「いや、そんな事はないでしょう。僕から見れば仕事も完璧にこなしてるし、服とかも高級そうなものだし、きっと僕よりもお給料ももらってるでしょうし。」


「あー、たしかに貰ってるかも。でもね、印象っていうのは簡単に操作できるの。権力を使えば簡単にね。」


「いや、まあ確かにそうかもしれないですけど、東条さんは権力があるって訳じゃないじゃないですか。」


「まあ、確かにね。でもわたしは権力のある人間を動かせる力がある。女の武器を使えばね。」


「女の武器……」


「そう。だからまあアイドルが売れるためにプロデューサーと寝たりとかするでしょ?あれと一緒。」


「じゃあ専務とも……何のために。」


「んー。わたしは基本的に働きたくないの。でもお金は欲しいし、名声も欲しいの。その為だったら別に専務と寝るのなんて容易いわ。」


「そうなんですか……」


「そう。わたしさー、学生の時キャバクラで働いてたのね。それで結構人気でさー。だから今更真面目に働くとか出来ないんだよね。まあそれぞれの価値観ってやつですよ。」


僕の思考は追いつかない。

まず、東条さんがホテルに入ってからの豹変ぶりもそうだし、専務と寝たりとか、金に執着のあるという事実などが一気に入ってきて処理がしきれなかった。


「びっくりした?」


「正直、驚いてます。」


「んー、まあそうだよね。でもさ、なにかセンスがあるわけでも無いしさ、お金持ちになるのは難しい訳よ。そんな人がお金を得るためには、やっぱり犠牲は必要になってくると思うの。わたし、顔はそこそこ良いし、キャバでトークスキルも身につけてるし、それを武器にするしかないんだよね。」


「なるほど……」


僕はイマイチ親身に話を聞く事はできなかった。


ネットに書いてある赤の他人の経験談のような、そんな話を聞いているようだった。


もちろん普段ならそんな記事を読めば、リア充◯ねと怒りを露わにするだろう。


しかし、今僕は目の前の他人事を聞いて、卑猥な気分になっていた。


「でね、まあ今のところ順調に事が進んでたの。専務はいっぱいお小遣いくれるしね。でもちょっとした問題が起きてね。」


「ふむ。問題?」


「えーっとね。専務がわたしに入れ込みすぎて、奥さんと別れてわたしと結婚したいとか言い出したの。」


「それは……また……」


自業自得じゃないかと思いつつも、僕は適当に相槌を打つ。


「でね。木田さんにお願いっていうのは、わたしの彼氏になって、専務に諦めさせて欲しいの。」


唐突な展開に僕は言葉を窮す。

彼氏……専務を諦めさせる……なんだこの話は。


昨日まで僕は確かにつまらないが、平凡な毎日を送っていたはず。なのに、なんだってこんな展開に巻き込まれているんだ。


僕はとりあえずシャンディガフを一気に飲み込む。


そして東条さんを見る。


東条さんは赤ワインを飲みながら、ネイルが綺麗にされた自分の指を見ていた。


無言の時間が続く。


僕はとにかく頭を最大限に回転させて、結論を出す。


ダメだ。この話に関わってはいけない。脳内から危険を遠ざけるよう指示が出る。



「そ、それは難しいです。だって相手は専務ですよ。専務から睨まれたら会社でやっていけなくなりますよ。」



「わたしも専務へのフォローは頑張ってするつもりだから、そこまで大事にはならないと思うよ。」


「いや、そうは言ったってクビになる可能性もある訳じゃないですか。リスキーですよ。」


「もちろん、タダでとは言わないよ。もしやってくれるなら、木田さんが望む事もなんでもしてあげる。」


「え……」


僕の思考は完全に止まった。

だってそうじゃないか。

なんでもしてあげるなんて、エロ漫画でしか聞いたことのないセリフだもの。


僕は頭を上げ、もう一度東条さんの顔を見る。


東条さんは、真っ直ぐと僕の目を見つめていた。


メデューサに見られると石になるという話があるが、東条さんに見られた僕は思考回路が完全に石化していた。


なにも考える事が出来ない。

ただそこにあるのは欲望のみ。


「えーっと、例えば、か、彼女になってくれたりとかするんですか?」


「もちろん。」


「え、でも専務から逃げるための即席ですよね?だからカタチだけの彼女とかそういうことですよね?」


「木田さん。わたしね、誰かれ構わずこんなお願いはしてないの。もし、そういうお願いをされたとしても、ちゃんとお付き合い出来るって思ったからわたしは木田くんに悩みを相談しているんだよ。」


上目遣いで僕を見る彼女。


つけまつげの下から覗く、綺麗で潤いのある目。


僕は完全にこの戦に白旗をあげた。



「じゃ、じゃあ彼女になってください。」


「もちろん!よろしくね。」


僕は不思議な感覚だった。


彼女が出来れば、全てが上手くいくし、両手を広げて大喜びできると思っていた。


しかしなんだろう、この底知れない不安感。


喜びよりも不安の方が圧倒的に大きかった。


なによりこんなあっさりと付き合ったりとかするものなのだろうか。もう少し時間をかけてお互いのことを知って………


「じゃあ、シャワー浴びてくるね、将吾。」


「え?なんで、僕の名前を知っているんですか?」


「ラインに書いてあるじゃん。あと社員録でチェックしてるしね。それと、これからは敬語禁止ね。恋人なんだから……」



その言葉だけ残し、彼女は洗面所へと消えていった。


えっと、なにが起こってるんだろう。

そしてこれからなにが起こるんだろう。

とりあえずお酒を飲もう。


僕はルームサービスで、ハイボールを二杯注文した。


ハイボールが到着すると、すぐにそれを飲み干す。

そしてスマホを取り出し、相田と、海東にラインをする。


ベッドのデジタル時計は22時14分と表示されていた。


とりあえず僕は、ベッドの上にあるコンドームを一つ手に取り、装着する練習を行なっていた。


僕の隆起した男性器は、自分のものとは思えないほど膨れ上がっていた。


ひとしきりそれを眺める。


他人が作った作品かのようなその物体をじっくりと観察する。


観察に飽きると、コンドームを取り外し、ビジネスバッグに乱雑にしまいこむ。


とりあえず冷静になろう。


二、三回深呼吸をし、相田の顔を思い浮かべた。


そういえば相田とナンパ行く話してたな。

断り入れないとなー。


そんな事を考えていると、洗面所の扉が開く。


髪を後ろで束ね、バスローブに身を包んだ東条さんがそこにいた。


「気持ちよかったよー。湯船溜めといたから将吾も入っておいでよー。」


「あ、はい。行ってきます。」


「ちょっと!敬語!」


「あ、すいま…あ、えっとー、ごめん。」


「ぎこちないなー。」


彼女は今日初めて見せる種類の笑顔を見せてくれた。


東条さんからはシャンプーの良い香りがした。


「じゃ、じゃあお風呂行ってくるね。」


「うん、行ってらっしゃーい。」



続く…

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