宿泊者

 スマホの捜索アプリに中村のIDでログインすると広域の地図が現れた。集落の建造物が表示されないのでどういった場所なのか判断がつかないが、私を示す青丸から南東の方へ約一キロメートルほど離れた地点で赤丸が点滅している。


 私は『今からそちらに向かうので動かないでください』『村はヤバイとはどういう意味ですか?』『殺されるとは何にですか?』『警察と村がぐるとは何か見たんですか?』『詳しく教えてください』と打ったメールを立て続けに送信し、ドアの手前まで移動して廊下の気配をうかがった。


 画面の明かりが消えると視界のきかない暗闇に虫の音だけが聴こえるため、自分が部屋の中にいるのではなく、すでに屋外にいるのではないかと錯覚しそうになる。


 ノブに手をかけ、音を立てないよう静かにドアを開ける。異臭に加えて湿気を多く含んだ熱気が顔面を舐めるようにまとわりつく。まだ料理をしているのだろうか。閉め切っているせいか空気が淀んでいるような気がする。


 もうすぐ日付が変わろうというのに、相変わらず宿内には人の気配もなければ物音もせず、本当に私以外の宿泊者がいるのかと疑わしく思えてくる。誰かが戻ってきたような音はしなかったので、まだ祭りが続いているのかもしれない。


 スマホを左手に持ち替えて右手で壁に触れながら、息を殺して忍び足で玄関へと歩みを進める。壁伝いに歩けば明かりを点けなくて済む。足元にさえ注意すれば問題はない。恐ろしいのは暗闇のどこからか赤鬼や女将に見られている場合である。


 ぶるっと身を震わせた私は、足を止めて正面の黒く塗り潰された空間を見つめ、何かしらの気配を感じないかと耳を澄ませてみた。やはり虫の鳴き声の他には何も聴こえない。


 妄想を振り払って歩みを再開させ、暗闇から誰かがいきなり襲ってくることなどないのだから大丈夫だと己を鼓舞こぶしつつも、注意を怠らずに辺りに意識を向けながら慎重に前へと進む。


 私は闇討ちされるような覚えのある人間ではないし、身の危険を心配するのは少しばかり過剰な気はするものの、暗闇に何かが紛れてこちらの命を狙っているのではないかとおびえて疑いを持つ感覚は、古来から遺伝子に受け継がれてきた人間に備わる防衛本能なのだろう。


 そういえば、右手側には玄関までいくつ部屋があるのか数えていなかったななどと考えながら進んでいると、踏み出した左の足裏にかまちの角を感じて私は足を止めた。しゃがんでスマホで照らすと式台との段差が見える。靴はどこだと土間を見たがない。


 右手側の土間を照らしながら式台に沿って移動し、行き当たった正面の下駄箱へとスマホの画面を向ける。最初に見たときと同じく宿のスリッパしか並んではおらず、私の登山靴もどこにも見当たらない。これで山道を歩くのは不安だが仕方がないだろう。


 下駄箱の裏に位置する帳場の前へ立ち、ふところに準備しておいた一万円札をカウンターの上にそっと置き、すぐさま玄関へ戻って土間へと降りた私は、引き戸に手をかけて力を入れたところで施錠されていることに気がついた。


 深夜とはいえ、ほとんどの宿泊者が戻ってきていないのに、なぜ鍵を掛けてしまうのだ。毒蜘蛛を避けるためなら戸を閉めるだけで十分である。それとも、この暗闇に乗じて盗みに入る人間でもいるのだろうか。


 鍵はどこかと探すと、レバーのようなものが窪みにはまっているタイプの錠を見つけた。実家の玄関と同じ型だが、それを見たのは改築前の古い家でのことだ。


 錠の位置を確認してから一度スマホを懐に仕舞い、大きな音が出ないよう左手で戸を押さえながら右手でレバーを立てて穴に差し込み、昔よくやった要領で手応えがあるまで何度かひねってみる。


 そのうち錠の内部で重いものが動いたような感触が指先に伝わり、金属が何かに嵌った音がして鍵が開いた。音に気をつけてゆっくりと引き戸を滑らせて隙間を作った私は、身体が戸に触れないよう外へ出て空を仰いだ。


 大きな炎に照らされているらしく、左斜め前方の空の一部がほんのりと明るい。来るときはあれでも篝火かがりびや焚き火の明るさに目が慣れていたようだ。光がまったくない場所から出たあとに見ると闇の濃度に違いがあるのがよくわかる。


 静かに引き戸を閉めた私は、たしか樹木のようなものが手前にあって、そのあとがすぐ急な坂道だったはずだと宿に到着したときのことを思い返してみた。


 薄ぼんやりとではあるが正面右手に空へと伸びる大きな漆黒の影が見える。あのとき赤鬼に周りの様子が把握できていたのも今なら納得がいく。


 ひとまず坂を上がり、どこか身体を隠せる場所はないかと辺りを見まわし、樹木と思われるひときわ濃厚な黒のそばへ身を寄せる。


 懐からスマホを出して画面を見ると、中村から『きっと人身売買です』『闊歩木が捕まりました』と書かれた二件のメールが届いていた。どちらとも私が送った質問に対する答えではない。二件目の最初の三文字は何と読むのだ。もしやだろうか。


 どうして日本語同士で会話が成立しないのかと苛立ちながら、『逃げないと殺される』のと人身売買は矛盾しているように思え、私は中村の言葉に少しばかり疑問が湧いた。捕まったカッポギ氏が売られていくところを見たとでもいうのか。


 もちろん、集落や村人が怪しいというのが、中村の妄言や私の妄想であればそれに越したことはない。それにしては物騒な内容のメッセージを書いてきたり、二十件以上もの空メールを続けて送ってきたりと、ふざけているにしては度が過ぎている。


 スマホ捜索アプリを開いて中村の赤丸を確認する。出てきた玄関の位置から考えて、みたま屋の建物の裏手から南へ東寄りに下った辺りだろうか。何もない場所にぽつんと赤い点があるだけでは道順などわかりようもない。


 私は軽く溜め息を一つ吐いたあと、建物すら表示されていない地図上でみたま屋の東側の外周をまわり込むルートを思い描き、顔を上げて周囲にうごめく濃い影はないだろうかとしばし目を凝らしてから、あるかどうかもわからない道を目指して恐る恐る足を踏み出した。

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