母親

 部屋のドアがノックされる音と「失礼しづれいいだしますぅ」という声が聴こえ、慌てて上半身を起こした私はテーブルの上へと目をやり、これではまた女将にとがめられてしまうと思い、小鉢の蝋燭をからにした菓子皿へと急いで移し替えながら「はーい、どうぞ」と返事をした。


「失礼いだしますぅ。お布団お敷きに参りましだぁ」


 女将の口調は先ほどのような乱暴な感じではなく、最初に会話を交わしたときと同じ柔らかいものへと戻っている。


「ありがとうございます。お願いします」


 言いながら私は立ち上がり、布団を敷く女将の邪魔にならないよう部屋の隅へと移動し、テーブル上の蝋燭やらグラスやらが壁際かべぎわへと押しやられていくのを眺めつつ、先ほど彼女がとった激昂げきこうしたような態度を思い出して身を震わせた。


「あら? おきゃぐさん、おビール早ぐお飲みんなんねぇど、ぬるぐなっちまいますよぉ?」


 両膝をついてこちらに背を向けている女将がビール瓶を持ち上げてそう言い、思考を中断させられた私は我に返り「え? あ、そうですね。忘れてました」と答え、彼女の背後へと近づいてそれを受け取った。ずっと視界には入っていたはずなのに、考えごとをしていたせいで見えていなかったらしい。


 テーブルの脚を折り畳んでいる女将を横目で見ながら、窓側の壁へと歩み寄って栓抜きを拾い上げた私は、一本目と同じ銘柄であることを確認してから栓を開け、グラスに注ぐのを面倒に感じて直接瓶に口をつけてビールをあおった。


 こんな味だっただろうかと再び瓶のラベルに目をやり、そもそも『たらちね』とはどういう意味なのだと首をかたむけ、さっきと違ったように感じるのは慣れない味のせいかもしれないと思いながらもう一口ビールを流し込んだ。


 押し入れから寝具を出し終え、ゆったりとした動作で敷き布団を広げている女将の背中から視線を外した私は、ネットで『たらちね』の意味を調べてみようと充電器を外してスマホを拾い上げた。


 ボックスに『たらちね』と打って検索すると、『垂乳根』と当てた漢字がトップに表示され、意味を見るととあった。銘柄名の由来として考えられるのは、女性だけが働いている醸造所だからか、もしくは会社が家族経営で社長が母親だからといった辺りか。


 このビールのことは載っていないだろうかと検索結果を下までスクロールし、ボックスに続けて『地ビール』と打っているとショートメッセージの通知が画面上部に現れ、『中村です助けてください』という内容が目に入って私は動きを止めた。


 消えた通知を追うようにショートメッセージの受信箱へ移動してメールを確認する。届いていた四件の差出人不明の番号と同じだ。端的に考えて、中村が酩酊めいていから覚めているかどうかわからない現状では、このメッセージが悪ふざけでないとは言い切れない。


『お疲れ様です。誰から僕の番号を聞いたのか知りませんが、変ないたずらはやめてもらえませんか?』


 そうメッセージを打って送信した私は、「お客さん、おぐすりお飲みになられましだぁ?」という女将の声で顔を上げ、咄嗟に「え? ええ」と答えると「おいくづ飲まれましだぁ?」と追撃の質問をされて言葉に詰まった。


「おいくづ飲まれましだぁ?」


 間髪をいれずに同じ問いを繰り返す女将を気味悪く感じ、「二粒ふたつぶ、いただきました」と食前に飲んだ数を答えた。


「いづ飲まれましだぁ?」


「あの、食前に」


「たったそんだげですか? そんなんぢゃあ、ちぃっとも効きゃあしませんよぉ」


 女将は敷き布団に掛けたシーツの皺を伸ばしながら、「んぢゃあ効がねぇわなぁ」などと小声で独り言を漏らし、「もうすごし飲まれだほうがよろしいですよぉ」と私を見ずに大きな声で言った。


「早ぐ飲んだらぁ、そんだげ早ぐ効ぎますがらねぇ」


「そう、ですね」


 適当に答えた私は周辺視野に動きを感じて手元のスマホへと視線を落とし、表示されているショートメッセージの通知に『イタズラないですここヤバイ』と不完全な文があり、声が出そうになるのをすんでのところでどうにかこらえた。


 中村のいうとはどこのことで、具体的に何がどうヤバイというのだ。だいたい、助けを求めるなら私ではなく警察に通報するのが筋ではないか。


 たとえ中村の鼓膜が破れていて会話が困難であっても、近くに犯人がいるなどの電話の使用が制限される状況に対応するため、警察はメールでの通報も受け付けているはずである。通報してないのであれば、国家権力に頼るほどの事案ではないということかもしれない。


『ここ、とはどこですか? 何がヤバイ』


「お客さん、さっぎっがら、なぁになさっでるんですか?」


 返信の文章を打っていた私は女将の声に手を止めて顔を上げ、「何って」と言葉を切って思わず「ゲームですよ」と嘘をいた。見ると女将はこちらに背を向けたままでまだシーツの皺を伸ばしている。なぜか、ネットを使っていることを知られてはいけない気がする。


「お薬、まぁだお飲みになられでませんよねぇ?」


「え? ええ。寝しなに飲もうかと」


わがいがらっでそんな飲みかだすっど、お身体にさわっがら、早いとご飲んぢまっだほうがいいですよぉ」


 女将が寝る前に飲むと悪いと言っているのは漢方ではなくビールのことだろう。空調のおかげですぐにぬるくはならないだろうが、マッサージをしてもらっているあいだに眠ってしまいそうだし、それならばたしかに今のうちに飲んでしまったほうがよさそうだ。


 スマホとビール瓶を足元に置き、窓側の壁に寄せてある痛み止めの入った小瓶を取ろうと手を伸ばすと、「お伝えすんの忘れでましだけんど」と枕にカバーを掛けていた女将が声を上げた。


「二粒ぢゃあ効ぎませんがらぁ、すぐなぐども、四粒は飲んでいだだがねぇど」


「あと二粒ということですか?」


「いーえー。一度に四粒、飲んでいだだげますか?」


 女将の言葉にはどこか、私を気遣っているというよりも、強制的に丸薬を飲ませようという響きが感じられるのは気のせいだろうか。

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