山鳩
引き戸が開かれた音がして人が入ってきた気配に息を殺していると、奥の部屋のほうから
「
女将が赤鬼に向かって怒鳴り返す声が調理場に響いている。
「そっぢがら
「そうげ?」
「おめぇ、耳
酒をもらえるような状況ではない気がする。赤鬼の剣幕は何なのだ。思わず隠れてしまったが、これはこれであながち間違った行動でもなかったのかもしれない。
「だぁれもいねぇわ」
「隠れでっがもしんねぇ。テーブルん
私は赤鬼の言葉を聴いて文字どおり身体を縮めた。もしかしたらこれも祭りに関わるもので、調理をしている現場を部外者に見られてはいけない決まりでもあったりするのだろうか。何も見ていない私が隠れる必要はないのだが、奴らに見つかるなと本能が訴えている。
「誰もいねっつうの。気のせいでねぇのげ?」
遠ざかっていく女将の声に重なるように、「よぉぐ見だのが?」と赤鬼の問い詰める声を背中で聴いていた私は、この場を離れるなら今ではないかと判断し、テーブルに頭をぶつけたりして音を立てないよう四つん這いで戸口へと急いだ。
「見だっつうの」
「ちょっどおめぇ、鳥目の様子さ見でごい。あど
鳥目とは宿に着いたときに赤鬼が私を
客の食事が済んだか否かを確認し、済んでいれば食器を下げて布団を敷いてこい。それから寝しなにもう一杯やりたいかもしれないから、気をきかせて酒も持っていってやれ。
赤鬼の言葉を補足するとこういったことなのだろうが、彼に対して苦手意識があるせいなのか、私にとっては別な意味が含まれているように聴こえてしまう。例えばそれは、無意識に向けられた悪意のようなものだ。
どちらにしても、ここで立ち聞きしていたのがバレたらただでは済まないだろう。蝋燭はあるもののマッチを置いてきてしまったため、暗い廊下を手探りで進んで女将よりも先に部屋へ辿り着かねばならない。
床を這い進んでいた私は、コンクリートにぶつけたときのような衝撃と痛みを頭頂部に感じ、石壁にぶち当たったのだとわかって身体を起こして立ち上がった。
コンロの青い火が作る光を頼りに短い階段を上り、蒸し風呂のようだった調理場から廊下へと躍り出る。玄関の引き戸から夜空の明かりが差し込んでいると思ったのだが、私が期待したような光景は闇に塗り込められてしまっていた。
両手を前方へ突き出して恐る恐る足を運ぶ。明かりのない屋内というものはこうも何も見えないものなのか。複雑な構造ではないとわかっていながらも、踏み出した先に何かあるやもしれないという妄想が歩みを遅らせる。
右側へ寄れば壁があるだろうと思って腕を伸ばすと、何やらごちゃっとしたものに触れて手を離した。感触からすると生けられた花か盆栽のようだ。今のが飾られた植物ならそれが置かれた棚があるはずで、棚があるならそれに付随した壁もあるのが道理である。
再び両手を暗闇に泳がせると表面がざらざらとした硬いものに右手が当たり、壁だと確信した私は左手でも触れてちょうど張りつくような格好になった。片手で十分なのはわかるのだが、手を遊ばせて何かに触れてしまうのが恐ろしい。
足場のほとんどない断崖絶壁の道を行くように、横歩きで慎重に歩みを進めていた私は、突如として壁が消えたことで左手で
ここを右に折れて二つのドアを過ぎ、階段のある空間を越えてさらにもう一つドアに触れたら、反対側の壁へ移動して数歩も行けば部屋に着く。女将のものと思われる明かりはまだ見えないし、焦らずとも追いつかれる心配はないだろう。
廊下の角を曲がって左手で一つ目のドアに触れ、右手を動かそうとして抵抗にあい、何かに袖が引っ掛かったかと思ったところで「お
「うわっ、ちょ、びっくりしたじゃ」
「何しでんですか?」
無機質な声で繰り返し訊ねてくる姿の見えない女将が怖くなり、私はもう少しで身震いしそうになるのをどうにか
「明がりも持だねぇでですか?」
「あの、それがですね。実はさっきトイレに行ったとき、手を滑らせて提灯を落としてしまって、それで、その、そうしたら燃えてしまいまして。すいません」
怪しまれないように気を配りながら即席で作り話をするには、元ネタの場所と状況を変えるぐらいが精一杯である。すぐにはバレないかもしれないが、トイレか調理場のゴミ箱を
「なぁんだぁ、そうですがぁ。こぉんな真っ
やはり明かりなどなくとも女将には私の姿が見えているらしい。私はそこでふと、先ほどの彼女の言葉を思い出して違和感を覚えた。明かりが近くにあったら見えないと言っていたが、おかしくないだろうか。それはつまり、明かりさえなければ暗闇でも見えるということではないか。
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