第4話事故物件

 私は、かれこれ二十年この団地に住んでいる。この間、改装や住人の入れ替わりも経験し、年をとり、変わっていくのは何も私達だけではない、と感じる。

 この団地、五十件も家があれば中にはいわつくきの部屋というのが存在するのも珍しくはないだろう。今回は、そんな事故物件の話をしようと思う。


 私が住む団地の一番右の棟、三階には「住みつくと必ず夫婦が離婚する」と噂されている一室があった。仮に310号としよう。

 というのも、私が知る限りでもその部屋の住人は四回入れ替わり、今は空き部屋になっているのだが、その全てのファミリーは家族内で問題を抱え、引っ越しの理由は各々ではあるものの最終的に離婚に至ったという点で共通しているのである。

 そんなことって、普通にあるのだろうかと疑ってしまいたくなるが、事実そうなのである。

 世の中、治安の悪い地域とか、家相が悪いとか、殺人事件が起きた家とか、いわゆる事故物件の話は耳にするが、ここの団地の一室に関していえば、どうだろう。


 住むと離婚する部屋の最初の住人については、私がまだ赤ちゃんのときに住んでいた新婚夫婦であり、私の母から話を聞いただけなので詳しくはわからない。

 聞くところによると、その夫婦は見た感じ若めの新婚で、近所付き合いもそつなくこなし、夫婦仲も良好に見えたそうだ。住み始めて一年足らずで旦那が不倫し、離婚を理由に転出してしまったとのことだった。


 当時、団地は人気があり、それからすぐに次の入居者が引っ越してきた。二番目の住人は両親と子どもの三人家族で、四年くらいは住んでいたと思う。

 私は幼かったが、その家の一人息子に遊んでもらったことがあり、断片的にではあるが、その家族がどんな人柄だったのかを覚えている。

 息子の孝くんは、小学二年生で、いわゆる「幽霊が見える」子だった。弟が生まれる前、私にとって孝くんは優しいお兄さんみたいな存在で、私のしたい遊びに必ず付き合ってくれたのだが、

「髪の長い人形が怖い。」

 と言って、私の家の人形をけっして触ろうとせず、お人形ごっこだけはしてくれなかった。

「たかしくん、なんでお人形いやなの?こわくないよ、かわいいよ。」

「だって、ボクの家にこの人形みたいなオバケが出るんだ。」

「オバケ?」

「うん、気持ち悪い。だから、人形、触りたくないよ。」

 孝くんと話したことは、それくらいしか今は覚えていない。両親も普通の人で、特に問題のある家族ではなかったと思うが、確か、お父さんの仕事の都合で引っ越すことになったんだと記憶している。

 後日談はこれまた母から聞いたのだが、引っ越し先で、孝くんの父親の会社が倒産し、いろいろあって離婚してしまったという。母は、孝くんの母親と親しかったので、いまだに年賀状のやりとりをしている。それからは特に不幸が続くこともなく生活しているということだけは聞いていた。

 私は、この事故物件のことをまとめようと思ったとき、孝くんが言っていたオバケの話を思い出した。それまでは、不幸の続く部屋ってあるもんだな、くらいにしか考えたことはなく、この部屋の離婚と女のオバケについての関連性については不明である。


 三番目の住人もまた、孝くん一家が去ってすぐに入居してきた。その住人のおかげでこの部屋は公式に事故物件となった。

 というのは、この一家の母親が首吊り自殺をしたのだ。

 一家は、園田さんという名前で、夫婦の間には二人の姉妹がいた。そのうちの妹の明子ちゃんとは同じ学年で、クラスは違ったが同じ団地で、同じ習字教室に通っていたということもあり、習字教室へ行くときは学校の帰りに待ち合わせして一緒に通っていた仲だった。

 明子ちゃんは、少し変わった女の子で、気が強いからか周りに友達が寄ってくるタイプではなかった。それでも、習字教室の行き帰りに、一緒に話すと明子ちゃんはおもしろく、怖い話が好きだった私たちは、よくホラーマンガを貸し借りしながら感想を言い合い盛り上がっていた。

 明子ちゃんからは髪の長いオバケの話は聞いたことがなかった。だけど、明子ちゃんのママは子どもながらに「こわいな」と思う雰囲気を持っていて、風貌があの「髪の長いオバケ」と重なり、私は明子ちゃんに誘われても、彼女の家の中に入ることを遠慮していた。

 というのも、ある夏の日、私にとってトラウマになるある出来事があった。

 私が団地の前の公園で友達数人で遊んでいると、普段はあまり参加しない明子ちゃんが珍しく、

「仲間に入れてー。」

 と、輪の中に入ってきた。

 私達はしばらく、縄跳びや鬼ごっこなどをして遊んでいたが、陽の高い夏休みの午後だったため、みんな喉が渇いて、

「今日は解散、水分補給!」

 と言って、各々帰っていった。

 私も同じく家に帰ろうとすると、明子ちゃんに呼び止められた。

「ねえ、あたしん家にいいものあるから、おいでよ。」

「あ、うん。」

 断る理由もなかったので、誘われるまま明子ちゃんの家にお邪魔した。

 明子ちゃんの家は昼間なのにカーテンがしてあり、うっすらと暗かった。そのせいか、居間に足を踏み入れた瞬間、空気がずしんと重たいような感覚があった。

「これこれ」

 明子ちゃんは、居間に入ってすぐの場所に設置してある冷凍庫を開けて、ブロックの氷を素手で掴んで口に頬張った。

「理美ちゃんも、好きなだけ食べていいよ。」

「え、」

 氷をバリバリと大きな音を立てながら噛んでいる明子ちゃんに手渡された一かけらの氷を、戸惑いながら口に入れ、舌で転がしてみる。

 乾いた口には、氷の感触は気持ちいいものだったが、それにしても明子ちゃんの食べ方は少し奇妙に映った。

「ママにバレると怒られるから、内緒だよ。」

 明子ちゃんは狂ったように、氷をどんどん口に頬張って、ガリガリ噛み砕いている。私には、とてもじゃないけれど歯が折れそうだし冷たいし、できたものじゃない。

(氷より、アイスクリームが食べたいよ。)

 そう思って、私は、

「明子ちゃん、わたしもう帰るね」

 と、明子ちゃんに言って玄関に向かった。

「そっか、じゃあね。」

 明子ちゃんはそう言うと、玄関の電気を付けてくれたが、まだ冷凍庫の氷をばりばり食べているようだった。

 私が靴を履き、扉を開けると同時に、奥の部屋の方から、

「あきこ―――!!」

 という怒号が響いた。

「お前はまた、ママの氷を食べたんだね!もうこれしかないじゃない!!」

「ガリガリガリ……。」

「バリ、ボリ、ボリ……。」

 氷を噛み砕く音が一層大きくなり、恐怖を覚えた私はゆっくりと玄関から出て、明子ちゃんのママに気づかれないように静かにドアを閉めた。

 ドアが完全に閉まる直前、

「誰か来てたのかい?」

「理美ちゃんだよ。」

 という会話が聞こえてきて、誰かが玄関に向かってくる足音がした。ドアの隙間から長い髪の毛の束の一部が覗いた。

 髪の毛と認識した瞬間にドアは音を立てずに閉まり切り、もう姿は見えないというのに、私は忍び足で気づかれないように階段を下りていった。


 後になって知ったが、氷を異常に食べたくなる氷食症という症状が世の中にはあるそうで、それは鉄欠乏性貧血の人に見られることがあるらしい。

 明子ちゃん親子は、揃ってこの症状があったんだろうか。

 それから私は明子ちゃんの家に上がることはなかった。

 明子ちゃんのママは、ヒステリーを持っているようで、噂ではそのことが原因だと囁かれたが数年後に夫婦は離婚してしまった。

 明子ちゃん姉妹は父親とともに父方の実家へ引っ越していき、一人になった明子ちゃんのママは、ほどなくしてこの部屋で首を吊って死んでしまった。

 明子ちゃんのママが自殺してから、310号室は一年程ほど空き部屋になっていた。

 私は、あの日の出来事を一人で抱える恐怖に耐えられず、弟や同じ団地のエミちゃんに話してしまった。

 そのせいで、子ども達の間では、310号室のドアの前に立つと、「ガリ、ガリ、ボリ、バリ……」と氷を噛み砕く音が聞こえる、という怪談が流行ってしまい、明子ちゃんのママの自殺後も、その音を実際に聞いたという子もいた。


 四番目の住人は、老夫婦だったが、この夫婦に関しては離婚ではなく死別である。これはわりと最近の出来事なので、私もしっかり覚えているが、越してきた頃はその夫婦は年のわりに元気で、持病の話などは聞いたこともなかった。

 しかし、間もなく夫が末期の胃がんを宣告され、団地のある住人がこの話を妻から聞いてすぐに夫は他界してしまった。

 一人になった妻は、この部屋で起こった事故のことを承知で入居を決めたことを自治会の会長に話していたそうだし、それからもこの部屋に住み続けていた。

 先日、その妻は認知症による物忘れがひどくなり、老人ホームに入ることとなったため娘さんに連れられて引っ越していった。

 娘さんによると、ここ最近は家の中でぶつぶつ独り言をしゃべったり、急に叫んだりすることが頻繁にあったそうだが、認知症の症状だろう、と言って気にしていない風だった。


 今回の話は、一貫性のない話の寄せ集めになってしまったが、同じ部屋で起こった出来事であることは確かである。

 孝くんが言っていた、「髪の長い女のオバケ」が住人にとり憑いて、狂わせたり不幸をもたらしたりする、ということが本当にあるのだろうか。

 真実はわからないが、あの部屋に足を踏み入れたとき、何となく空気が重たく、そういう空間ってあるのかな、と霊感の弱い私でもそう感じた。負の雰囲気に曝されることで、そこに住む人へ何らかの良くない影響があるのかもしれない。

 私にはそれしか言えない。

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