わたしの怖い団地
小鳥 薊
わたしの怖い団地
第1話押し入れの男の子
私は、この団地で生まれ今も家族とここで暮らしている。来年の春に就職が決まり、私だけこの住まいを離れ一人暮らしをすることになったため、この機に、団地や周辺で起きた私の体験談を記しておこうと思ったのである。
とはいっても、私は団地以外で生活をしたことがないので、ここでの体験や出会った人たちについて、もちろん怖いと思ったこともあるが、団地がもつ独特な不気味を稀有なものだとは思っていなかったのだ。
私の部屋は五階建ての四階部分に位置し、エレベーターはなく、手摺も付いていない階段を毎度上り下りしなければならないことが億劫であった。一つの棟には五つの玄関があり、各階には左右に一部屋ずつドアが向かい合った構造になっている。建物全体では計五十部屋になる。
私は、棟の左から二番目の玄関の四階部分、左側の部屋に住んでいた。
部屋の間取りは3DK、両親と四つ下の弟との四人家族だった。私の幼少期、かつてはたくさんのファミリーがこの団地で暮らしていたが、今では老夫婦や生活保護の独身者が多く、小さな子どもは数名しかいないようだ。私がよく遊んでいた友達も、住み替えや離婚など、様々な事情で越していってしまったため、馴染みの人はもうほとんど残っていない。
私が小さなときに遊んでいた団地の目の前にある公園はだいぶさびれてしまって、小さな砂場とブランコだけがぽつんと残っている。芝を刈る者もいないので、雑草に覆われ、次の年にはそのブランコも撤去するという噂を数年前から聞いているが、未だに実行はされていない。
築四十年越えのこの団地は、私が子どもだった頃と比較するとあまりにも静かで、ただ死に向かって佇んでいるコンクリートの塊に見える。
部屋の中はいたって普通の雰囲気の、天井の低くて少し狭いというだけの家だ。私の母はイベント毎が好きな人で、季節に合わせて部屋を装飾したり、手づくりの小物を棚やらテーブルに並べたがるので、居間は賑やかで、言ってしまえばごちゃごちゃしていた。
「理美ちゃんの家は可愛いね」
小学生の頃、遊びに来た友達がそう言ってくれるのが嬉しかった。
私は、高校に上がるまで弟と同じ部屋だった。八畳の部屋を二段ベッドで仕切り、それぞれに与えられた小さなスペースが唯一のプラーバシーだった。
今回は、その空間で起きた不思議な出来事を一つ挙げようと思う。正直、あまり怖くはないかもしれない。
普段はさほど気にも留めないのだが、私が、少しいやだな、と感じる場所があって、一つは押し入れだった。
子ども部屋と居間の境には大きな押し入れがあり、引き戸を開けるともちろん中は暗闇だ。戸を開けていれば少しだけ光が射すので、四隅が見えて安堵できるのだが、戸を閉め切ってしまうとたちまち暗黒の世界がどこまでも広がっている空間と化すのだった。
父は、子ども達を叱る際の仕置き部屋としてこの押し入れを使っており、対象は弟ばかりだったのだが、私も数回は入れられた。
戸を閉められると幼い私の力では一人で開けることができず、その暗黒の世界で、しばらく恐怖に耐えなければならなかった。
あるとき、弟と押し入れの話になり、そこで不可解なことを弟が話し始めた。
「おねえちゃん、押し入れの中に男の子がいたよ」
「え、何言ってんの」
「本当だよ、ぼく、いつも押し入れに入れられちゃったときは、その子と話してる」
「そんな子、わたし知らない」
私は、急に寒気を覚え、その瞬間、押し入れが閉まっていることを確認して少し安堵した。だいたいにして、弟の仕置き中に押し入れから弟の話し声なんか聞いたことがない。大抵は、
「出してー!」
と泣き叫んでいたり、泣き疲れて大人しくしているばかりだったからだ。
「たっくん、その子と何話しているの?」
「うーん、パパとママの話とか、おねえちゃんの話もするよ。あとはゲームの話とか。それとね、その子、たまにコワイことも言う」
「コワイこと」
「聞きたい?」
「え、聞きたくない」
恐がりの私は、そんなこと聞きたくなかった。弟はその男の子を怖がっている様子は全くなかったが、私はぞっとし、そんな話をした弟を少し睨んだ。
「じゃあ言わなーい」
弟は、そう言って友人の家へ遊びに出掛けてしまった。
それからしばらく、押し入れの話は弟とも誰ともしていなかった私は、その話自体はうっすら覚えていたものの、あのとき感じた恐怖をすっかり忘れていたのだった。
それから数年後、私が十六歳、弟が十二歳になった年のことだ。父が不慮の交通事故で亡くなった。突然のことで、私たちは悲しみに暮れ、特に母は長いこと立ち直れずにいて、それから大変な数年を私たちは過ごした。
私が成人し、母方の祖母が一緒に暮らすことになってからは、母はすっかり元気を取り戻し生活している。弟は受験生で、部屋に籠ってばかりいる。
実は、あの押し入れの話をふと思い出した日の夜、不可思議で恐ろしい夢を見た。
私は夢の中でいつも通り、ベッドで寝ていた。私が高校生のときには、弟が隣の六畳間へ移り、私一人があの押し入れの八畳間を使っていたのだ。
一段ずつに分解して使っていたベッドは、頭の方を押し入れに付けて配置しており、その夜の夢の中でも私は同じように眠っていたのだ。
すると、頭の方で何やら、ぶつぶつ、ぶつぶつ、と声のような音がして目が覚めた。耳を澄ましてみると、それは何かが押し入れにぶつかった音や擦れた音とかではなく、確かに誰か人の囁き声であった。その声に聞き覚えはなく、小さな男の子の声ではないかと私は思った。
その瞬間、男の子で思い出した。私は、幼い頃の弟の可怪しな話を、今までぞんざいにしていた話を、夢の中で思い出したのであった。私は、もちろんこれが夢の中の出来事であるという自覚などしておらず、完全なる現実として恐怖を一人で味わっていたのである。
隣の部屋には弟が寝ている。あの押し入れを越えた居間には母と祖母が寝ている。それを思うと少し安堵し、私にはある種の勇気と好奇心が沸き上がってきたのである。それに、昔は空間のあった押し入れも、今では荷物が敷きつめて収納されているため人が入るスペースなどない状態だった。
囁き声はまだ、定期的に続いている。その音量は大きくなるでもなく、小さくなるでもなく、不気味に一定で何やらぶつぶつ言っているのだが、私が寝ている場所からは何と言っているのか分からない。
頭側の引き戸を少しだけ開けて、確認するだけなら、そう思って私は恐る恐るではあったが、戸に手を掛けた。人などいるはずがない。でも、この声の正体を知りたい。知らなければならないのだ。私は夢の中でそう思った。
すうっと、戸は音も響かず動いた。私は、そんなに開けるつもりはなかったのに、戸は抵抗感なく一気に五十センチメートル程開いてしまった。中は、私の部屋の暗闇よりも漆黒の闇だった。もちろん、何があるのか肉眼で確認することは困難である。誰かの気配はなかった。
私は少しだけ頭を垂れ、押し入れを覗き込んでみた。少しずつではあるが私の目はしだいに暗闇に順応し始め、押し入れの内部を認識し出していたが、と同時に押し入れの隅が見えない。段ボールの積荷も存在しない。中は確かに空っぽだった。
私は混乱し、恐怖を忘れて更に奥の方へと体を入れてみた。
その途端だった。
手だった。何者かの両手に首元を挟まれ、そのまま押し入れの中に引き摺り込まれてしまったのだ。不思議と叫ぶことができず、戸がすとっと閉まった音が聞こえた。
何者かの手は冷たく、まだ私の耳の辺りを覆っている。痛くはない。これは小さな子どもの手だ。何も見えない。
私は恐怖で声が出なかったが、体は動いたのでその手を払おうと自分の頭を抱えたが、私の手は、その冷たい手に触れることはなかった。子どもの手は忽然と消えた。
次に私は、両手を伸ばして押し入れの戸や壁を探ろうとしたが、また可怪しなことに一向に感触に辿り着けない。
暗闇の中、私がイメージしたのは宇宙だ。どこまでも続く漆黒の空間。密室に何者かと取り残される恐怖と、無限の空間に投げ出される恐怖と、どちらが勝っているのだろう。私は、途方に暮れ、泣きながら前に進んだ。泣いているはずなのに、私の耳は聞こえなくなってしまったのか、何も聞こえない。
早く果てに辿り着きたかった。どれくらい歩いただろう。私はだんだん恐怖心よりも疲弊してしまって、いくぶん冷静になっていた。そして、これが夢であったらな、などと思っていたのだ。
そのとき、今まで聞こえなかった耳に、キーン、と激しい耳鳴りが起こり、私は思わず耳を塞いだ。すると、またあの冷たい小さな指先が、今度は私の手首を掴んで私の両手を払おうとする。
「ひっ」
私は声を上げた。声を上げることができた。しかし、その拍子に耳を塞いでいた手は頬の方へずれ、耳の穴のすぐ傍で、
「ふうっ」
という息をかけられた。
瞬間、私は金縛りにあったように、体が硬直してしまったのだ。右耳のすぐ傍に誰かの唇がある。ぶつぶつ、ぶつぶつぶつ、と呟いている。
そこで、目が覚めた。
まったく恐ろしい悪夢だった。目覚めて全身が汗だくになっていた経験は初めてだ。しかし、夢というのは不思議なもので、目覚めたての瞬間は夢の内容をしっかり覚えているのに、時間が経つにつれて徐々に記憶が曖昧になり、すごい早さで忘れてしまうことが多い。
その悪夢は、私に衝撃を与え、他の夢と違いすぐに忘れることはなかったものの、あのとき感じた恐怖心はしだいに日常に掻き消されていった。
とはいえ、私が体験した出来事に何かしらの意味付けをしなくては、私は気持ちが悪かった。押し入れと男の子の話を、その日のうちに弟へ聞いてみたかった。しかし、弟は受験勉強で多忙のため、少し話を振ってみたものの、
「何それ、覚えてない」
と言ったきり、話してくれなかった。
それから数日後のことである。部屋から出てきた弟が話しかけてきた。
「ねえちゃん、あのさ」
「どうした、勉強はかどってる?」
「うん、まあね、それよりさ、このあいだのことなんだけど」
私は、すぐにあの押し入れの話だと思った。あれから、気にはなっていたものの、夢の出来事だったのでそれ以上の詮索はできず、私は内心、弟から話を聞くことは諦め、ベッドの配置を変えるのみに留まっていた。次の日から普通に眠れたし、あの怖い夢は見ていない。
だからこそ、思いもよらぬ告白を聞くために、私はダイニングテーブルの椅子に腰を据えた。
「さっきさ、ふと思い出したことがあって」
「うん」
「おれら、親父に叱られたとき、押し入れに入れられたじゃん」
「たっくんがほとんどだったけどね」
「まあね、それでおれ、夢かもしれんだけど、押し入れの中で男の子と遊んだ記憶があるんだ」
「うん、私もその話、覚えているよ。その子といろいろ話したんでしょ。あのときは何言ってんの、って思って全然信じてなかったけど」
「だよな。で、その子に言われたんだ。自分にはおねえちゃんがいないから羨ましいって」
「へえ…」
「あとは何の話したかなんて覚えてないんだけど、もう一つだけ、怖いこと言われてたの、思い出したんだよ」
「…なんて言われたの」
「パパが嫌いだから死ねって」
私は、その瞬間、夢の中でぶつぶつ、ぶつぶつ、囁いていた男の子の言葉を理解した。というか、今はっきりと耳元で聞こえた。
「パパキライ。パパタタク。パパトジコメル。パパシンジャエ。パパシネ」
振り返っても誰もいない。
「パパシンダ」
弟の顔を見る。弟はひどく怯えた顔をしている。私は弟に話しかけようとしたのだけれど、ひどい耳鳴りがして頭を抱えた。耳鳴りは一本の線のように続いている。それが大きくなったり小さくなったりを繰り返し、しまいに微かに聞こえる程度になった。そして途切れ途切れ、ぶつぶつ、ぶつぶつ、と。
「シンダネ」
弟はあの男の子の容姿を今でも覚えていると言っていた。しかし、私はあえて聞こうとはしなかった。もし聞いてしまったら、想像できてしまうからだ。あの声が形を持って私の中に存在してしまったら、私はまた夢であの子と出会うような気がする。
そして次はきっと、闇の方が良かったと、後悔する。
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