紫誇る、桜の湖
自動ドアが静かに開いた。私は外へ出る。スーパーマーケットだった。今日の食事でも買おうと入ったのだったが、結局板チョコ一枚だけ手にとった。指を咥える間抜けそうな男の子に羨ましそうに見られたものだ。すっかり広まりつつある無人レジ、バーコードを機械に見せつけて百円と少しを払う。私はそうやって手に入れた板チョコを無造作にコートのポケットにしまい、また行くあてもなく街を歩くことにした。
冷んやりした空気。さらさらと流れる。
青い夕方も終わりかけている。
今夜はどこへ泊まろう、最悪また公園か高架下の人に見られないところを見つけて、一晩を過ごすしかない。それとも、もし宿が見つかった時のために、お金を下ろしておいた方が良いだろうか。
「あんた、三にしたでしょ。どおりで重たいと思った」
駐輪所を通り過ぎるとき、後ろで自転車をこぎはじめた女が、小さな自転車に乗った小さな子どもに向かってあくたれた口調でいった。子どもは、いたずらでやったのだろうが、自分のしたそんな過去の行為に一切触れず、一生懸命に自分の自転車を漕いでいたが、その走りは
私はよく夢を見る。夜見ることは時折だが、昼寝をするとほぼ必ずだ。眠りの夢。その夢の王国の国王が、もしこの
夢の王国の国王。そんなものは今考えたばかりの
私は帽子のつばをひょいと触って、国王に少しの謝罪を入れ、と同時に横断歩道を渡りきると、そこで立ち止まった。
公園だ。それも道路のすぐ横に膝くらいの高さしかない滑り台と、砂場とベンチが一つあるだけの粗末な公園。夕まぐれの、青い空気の中に薄い暗さが混じり出した景色にぼやっと浮かぶその公園で、二人の子どもが砂場に膝をついて、砂を掘りながら唄を歌っていた。
「宵宵よ 橋の上には幽霊ひとつ 檜と薔薇と死の香り
来い来いと 招く手の揺れ艶やかに 月の時代を満喫す
欺いて 美しい 火の陰あらわに黒塗りたくり
仲たがい 風吹けり 幼い魂もって行け」
大学生らしき青年も公園にいて、彼はしゃがんで、歌いながら砂を掘っている子どもたちを眺めていた。彼は立ち上がる際に、通りの側から私が見ていたのに気がつき、
「宿ですか?」
と唐突に声をかけてきた。
まさに当たりだった私は驚いて、何も答えることができなかったが、青年は続けて、
「ついてきてください」
と、
私は不安になってきて、
「私ですか?」
尋ねるのだが、彼はそれには答えずに公園を出て、すいすいとむこうの屋並の方へ行ってしまった。
私は公園を回り込んでいく暇はなかったので、柵を
子どもの歌声が背中から聞こえる。離れるにしたがって、その歌声は絞られていった。
青年は風のように歩いた。
途中で、私は、なぜ彼を追っているのか疑問に思った。
それでも街を出て、坂に出来た広い家の並ぶ住宅街も抜け、そしてついに、私はその道のいきなりに森へ入る異様な道があるところへきた。すっかり暗くなってきている。
「あのう、さっき宿って言っていたのは、」
「この先にありますよ」
「ここを歩いて行けばいいんですか?」
「ええ、僕もついて行きます。安心してください。道に迷うようなことはありませんから」
青年は人懐っこい笑顔でそんなことを言うと、がさり、と
「
と彼は言った。「桜の湖です」
なんだか分からなかったので返事はしなかった。
「息はできますか?」
返事がなかったことが気になったのか、そんなことを聞いてくる。
「できます」
「ここ、岩が草に隠れてますから、つまずかないようにしてください」
「ありがとう」
ぞわぞわと森は音を鳴らす。葉の隙間を抜けてきた
森には温度はなかった。
ふと水の匂いがしてくる。雨かと思ったがそうではなく、その正体は湖だった。青年は、
「あの湖沿いにありますから」
と言った。
森の木々が途切れる。私は景色に驚いた。幻想の景色、蕩然とする光景だ。青年はもう一度言う。
「紫誇る、桜の湖です」
ぶよぶよした空気を肺に吸い込む。右を見ると、歩いて行く青年の背中のそのさきに建物があった。そうすると、あれが話の宿だろう。……まぶたが重たくなっていることに、私はようやく気づいたのだった。
「ようこそおいでくださいました」
老婆の着る和服はくすんだ紙のように見えた。私が宿に、扉を開けて入った頃にはもう、青年の姿は見えなくなっていた。私は老婆に、何も入っていない荷物を預けて、さらに部屋を案内してもらうわけだが、空気は冷えていて、床も冷たく、階段を上りながら夜が少々不安になってきたのを感じた。廊下の電気は一つ消えている。それのせいで必要以上に陰気に感じる。不経済だ。が、まあいい、と思い直す。こんな森の奥にある宿だ。客なんてそうそう来ないだろう。しかしこの建物の古さから、長くやっていることは知れるし、それでやっていけているのならば文句は言えない。そもそもが公園で寝る身である。屋根があるのはありがたい。
妙な不安から胸中で長々と
と私は、すでに老婆が去ったあとの閉じられた扉を見るともなしに見ながら考えた。
目が覚めると、夜更けであった。
重い頭を持ち上げる。全く夢も見なかったからっぽの頭は、ちゃんとした人体の質量をもつ。脳が頭蓋骨の中で何かの溶液に浸かっているのを思った。
風呂はあるのだろうか。
風呂にはもう何日も入っていない。そのうえ一週間も洗っていないシャツは肌に張りついて着心地が悪い。私はシャツを脱いで卓の上に広げて置いた。
この部屋にはベランダがある。今気がついた。風に窓が鳴ったのである。
私は鍵をといて窓を開けた。けれどそのとき恐ろしく冷たい風が吹いて、私は急いで窓をとじた。やはり風呂に入りたくなった。
シャツをもう一度着直して老婆を探す。時折足を止めて耳を澄ますが、物音はない。こわごわ裏へ続く廊下を進むと、そこで、ひそひそと人声がした気がした。足を止めると、すぐ手前の扉が音もなく開いて、中から女が出てきた。肌に冷たさを感じるほど
私は心底驚いた。が、彼女はそうではなかった。私の存在に気がついていないかと思える。すんと澄まして行き過ぎてしまった。その後ろから老婆が出てきて、
「あら、どうなさいました」
と、
「ここは、あのう、風呂なんかは?」
「ああ、ございます。こちらへ」
老婆の案内で私は浴場へたどり着いた。
膝を少し曲げて
「宵宵よ 橋の上には幽霊ひとつ 檜と薔薇と死の香り
来い来いと 招く手の揺れ艶やかに 月の時代を満喫す
欺いて 美しい 火の陰あらわに黒塗りたくり
仲たがい 風吹けり 幼い魂ももって行け」
外から聞こえてきた。子どもの声。
私はハッとした。あの公園で聞いた唄だ。妙な唄だと思っていたのだ。また耳にするとは、なんの、どういう、巡り合わせなのだろうか。一体この唄は、何なのだろうか。
遠ざかる歌声に私は神経質になる。だけれど、それだけだった。
脱衣所には浴衣が置いてあった。あの老婆がわざわざ用意してくれたのだろう。なかなかどうして気の利く仕事である。
体がさっぱりとすると頭のごたごたも流れ落ちたのか、そうなると問題になってくるのが生理上のものだ。私は腹が減った。けれど、老婆は見当たらないし、食事の用意の気配もない。しかし仕方がない。こんな夜も遅くに食事の用意を頼む方が迷惑だ。私は少しのあいだ目を
「ああ、そうだ」
コートのポケットから板チョコを引っ張り出すと、それをかじるのだった。
チョコレートの苦い香りが鼻を刺す。茶色い粘っこい唾を下で弄ぶ。熱いお茶を作り、溶かして飲み込む。そんなことをしながら部屋に
けれど眠れそうではなかった。
これくらいなら起きていた方が楽なのだ。
眠気が満ちるには、まだあと数時間は必要である。そう言うわけで私は少し朝の散歩をすることにした。夜のあの幻想的で奇妙な湖は、朝日にどのように映るのだろうか。
部屋を出るとすぐ、私は老婆と鉢合わせた。
老婆は私の泊まった部屋の隣の部屋の前にいた。扉を開けるところだ。扉に手をかけたまま、こちらを向いた彼女は、数秒の間、張り詰めたように私を見つめた。それから部屋へ入っていった。何か納得のいかない様子だった。お金の問題だろうか。
私は彼女の後ろを通り過ぎようか、それとも少し話をしてから行こうか迷い、結局私は老婆の後ろに立ち止まる。
部屋の中をみて、
「ああ、昨日の」
と声が出た。その部屋には昨晩会ったあの美しい女が、机に突っ伏して寝ていた。
「死んでるんだよ」
私の方も見ずに老婆はぼそりと言った。
「死んでる?」
「ああ。薬を飲んでな」
そう見ると確かに、女には温もりがなかった。それだけにより一層美しくも見えた。
老婆は慣れている風だが、話を聞いてみると私は納得した。この宿は自殺者が訪れる宿であるらしかった。皆、ここを訪れて、その晩に死に、料金は床に置いておくのだ。私はそんなつもりはなかった。それを話すと老婆はじゃあそれでいい、と言った。が、
「その代わり、少し仕事を手伝ってもらうよ」
と、私に、その女の方を指差した。
私は女を担いで宿を出た。
「どこへ?」
「湖」
「湖に? 捨てるんですか」
「そうじゃ」
「私は、ある青年に紹介されるかたちでここを訪れたわけなんですが、それはどう言うわけです? 私は死を望んでいそうだと、そう判断されたわけですか」
「青年? そんなものはおらんが」
私は女を湖へつけて、そこへ押し込んだ。汚れた、現実な湖だと今は思う。
来た道を戻る。宿へ帰る。部屋の荷物を持ち、あるだけのお金を老婆に渡すと、私は森を歩き、また、元の街へ帰るのだった。
街へ足をつけた。久しぶりな気分だ。私はコンビニを探す。お金を下ろしたかった。
見つけたコンビニに入る。そこでお金を下ろしたついでに飲み物でも買っておこうと棚を見ていると、後ろから肩を叩かれた。振り向くと、幼い子どもを抱き抱える女性が立っている。が、肩を叩いたのはその女性ではなく、子どもの方らしい。子どもは、
「ふん」
と鼻を鳴らした。
「あのう、」
と私が母親の顔を伺うと、
「国王じゃ」
と子どもがその鈴のような声で、
「私が夢の王国の国王じゃ」
「はい?」
母親は微笑んで言った。
「ようこそおいでくださいました」
私は手に持ったお茶を
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます