トコトコ掌編集
戸 琴子
スクエア・スフィンクス
何気ないこと、わたしはそんなことに放課後を帰っていた。
次は右に曲がる。と、その前に酒屋の黒いガラスに映ったわたしをやっぱり見てしまう。確認、確認。いつ見たって、背いの低いのと一重なのと、髪の多いのは変わらない。それとアヒル口、これは何だかバカみたいであまり気に入らないのだ。別にため息をつくほどの事でも無いけれど、わたしはぷいと目を逸らして行ってしまう。
もうすぐ家に着くという段、空が一点、ぴかりと光ったような気がした。それから突風が二回、三回と背中を押し押した。首筋に寒い。わたしは襟をぐっと引き寄せ、髪を膨らませて壁を造る。こういう利便方だって有るには有るのだ。
丁度公園を通る。
このときに、ふとした瞬間、公園に寄ってみようという思いつき、空気の冷やこさから早く帰りたい気持ちに押しかつ、そんな気持ちが起こった。
公園に這入る。ブランコと、ベンチと、砂場だけある貧相な公園だこと。ぐるりは膝の高さほどの、低い鉄柵で囲われている。
ブランコの冷たい鉄柱を指で触れて、「ポイ捨て禁止!」の看板を馬鹿にして、それから砂場に行ったとき、そこにスクエア・スフィンクスを見つけた。
わたしはスクエア・スフィンクスを拾いあげる。
きん色のぺたぺたした重量のある像で、手に握ってみるとしっかりとした感触である。外気のおかげでしとり、と冷たい。ブランコの鉄柱よりも少し。
ほー。とまじまじ見ながらいったん、ベンチのところで座ったときに、
「ヘイコー、テキトー、メンメンボーロー」
と、道路に響く、大きな歌声が聞こえて来た。それに、それは近づいてくる。
「やい、兄よ」
わたしは叫んだ。そうなのだ。だいたいこういう者の正体は、いつだって兄なのだ。
「なにしてるのよ」
「歌っていたのさ。こんなに心地の良い日、歌わないなんて損じゃあないか」
兄は片手に書物を抱えて、マフラーを首にぐるぐる巻きして、分厚い靴を履いていた。
「損なことないでしょ。別にそういうのって全くもって無いのよ」
わたしはせっかくなので兄についてあるいた。家まで同じ道だから。
兄はやはり歌っていた。
マンション。赤レンガ調の四角いマンション。ここがわたしの住むところで、わたしが五歳の時に、家族でここへ引っ越して来た。ガレージを突っ切った方が早いので兄もそこを通る。わたしもその後ろを歩く。兄の声がガレージに震えた。胸がすくッとする。わたしのところは車を一台持っているけれど、今は無い。父が会社に持って行っているのだ。
エレベーターで六階へ。
二人はただいまと言う。けれど部屋は静かなままで、わたしは電気をパチンとつけた。
兄は帰るや否やテレビの前にガシンと座ってしまって、即座にゲームをつけてやり始める。いつものこと。わたしはリビングの窓を開けて、猫の額のようなベランダに出る。それから、ポケットから紙箱を取り出す。
メビウス! わたしは間違って八ミリの物を買ってしまったのだけれど、買ったからには吸い切る以外にない。ライターで火をつける。この煙草の後味は、テロテロしていて嫌いじゃないのだ。
輪郭のきりとした糸のような青いケムリが、ツーーとたつ。
そして空中でくるっと方向転換すると、行き場を失いあとから来るケムリに抜かれて、立ち場をなくしてしまうとそのまま薄くなって消えていく。空気に溶けたケムリの行く先は知らない。
時間がゆっくり進むようにと、こわごわ口をつけて煙草を吸う。口の中にケムリを溜めて、数秒ころがし、半分はそのまま口からこぼしてしまって(そのときのケムリは綺麗)、もう半分を鼻の空気と一緒に肺へ流しこむ。そうすると、肺を齧るように快感がして、そのあと身をもがく煙たちが、のどを通って外の世界へ出る。そのころには、ケムリたちはすっかりアホらしいケムリとなって、宙気に溶けてゆく。
わたしはそれと一緒に、鞄に入れていたスクエア・スフィンクスを取り出してみた。(教科書の下敷きになって、へにょへにょだった……)
もう一度掴んで見ても、やっぱりいい。わたしは煙草をくわえておいて、スクエア・スフィンクスを両手で遊んでみた。すると、気づかなかったのだけれど、いつの間にか兄が後ろに、窓を開けて立っていて、
「おい! 何か奇態なものを持っているじゃないか」
と。わたしはそれをモーゼの十戒のように掲げてやった。口の端の煙草だって自慢げに動く。
「それはそうと、」
と兄は実際スクエア・スフィンクスにはあまり無関心だった。なんだい!
「僕はちょっとデートに誘われたから、行ってくるよ。そういう危ないものを、いつまでも遊ぶんでないよ。わかったか」
わたしは不服顔で煙草を床に押し付けて、赤い火をぐりぐり消す。そして、
「気にくわない」
と言ってやる。
「何があってそんなに人気ものなのだ、兄よ。いい加減にしたまえ」
こんな奴のどこがいいのやら。そこいらの女はみんなバカである。
「バカな妹には分からないのだよ」
けれど一番バカなのは間違いなく兄である。それは、彼をデートに誘う女の子たちもそろえて頷くだろう。
わたしは部屋に入る。ベランダは寒かった。もう指が固くなっているのだ。
それからそのあとわたしは、玄関で靴をはいている最中の兄の背中に向ってスクエア・スフィンクスを投げつけてやった。
汚い悲鳴のあと、ドアの音がする。わたしは自分の部屋に。イヤホンで耳を覆って、大好きな音楽のなかに埋もれて流されてしまう。
十数曲聞いてから、お腹が空いた。冷蔵庫や食器棚を見ても、これといって気に入る物が無く、わたしは泣く泣く財布をひらけて、コンビニに買いに行くことにした。
服がぐでぐでなので、ちゃんと着替える。これは人間としての尊厳、ガールのたしなみ、自己満足。何だっていいけれど、なかなかお気に入りのコーデ。
そうやって家を出ると寒いのなんの。走ってエスカレーター。
コンビニはマンションを出てすぐ真ん前(車道は挟むよ)にある。横断歩道を渡って到着。
色々物色した結果、蜜柑のゼリーに決めた。わたしはそれだけ持って、レジのところへ行ったけれど、いざ店員さんにピッってしてもらってから、財布を忘れてしまっている事に気がついた。玄関までは持って来ていたのだけれど。
それと同時に、わたしは間違えて、左手にスクエア・スフィンクスを握っているのに気がついた。
「お客様、百六十五円です」
と、店員A。
「申し訳ないが、わたしは財布を、家に忘れた」
と私は言った。そして続けて、
「けれど、わたしにはこれがある!」
そう言ってわたしは、店員Aにスクエア・スフィンクスを見せつけた。
「おお!」
と声をもらして彼は、
「ちょっと店長に確認して来ます」
そう言って奥へ引っこんだ。へっへっへ、どうだ参ったか。いかなる権力も、これを持った今のわたしに逆らうものはない。
胸をはっているところにさっきの店員が涙ぐんで戻ってくる。
「あのう。やっぱりお金は払ってもらわないと、いけないみたいです」
わたしは何も得られず。
スクエア・スフィンクスだけを持って店を出た。
何も面白くない。わたしは横断歩道の真ん中で、スクエア・スフィンクスを思いっきり強く、地面に投げつけてやった。すると、スクエア・スフィンクスは、ぱちんといって消えてしまった。
わたしはゼリーも諦めた。
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