新しい仕事と前の仕事と その1
「婿殿、行ってらっしゃいませ」
「あ、あの……行ってらっしゃい」
毎朝、小鳥遊と小鳥遊の婆さんに並んでお見送りされるようになったわけなんだけど……少しずつこの状態に慣れてきたような、まだまだ慣れていないような……
「あぁ、じゃあ行ってきます」
そんな2人に笑顔で挨拶を返しながら出勤していく俺。
女性2人からお見送りされているのって、端からみたらどんな感じに見えるんだろうな……
小鳥遊の花嫁修業が終わったら、婆さんが日参することもなくなるんだろうけど……それはそれで少し寂しく感じているのも、また事実だったりするわけで……
「あ、武藤さん!」
そんな事を考えながら駅につくと、俺を呼ぶ声。
そちらへ視線を向けると、そこには笑顔の早苗ちゃんが立っていた。
「おはよう早苗ちゃん。今日は登校日かい?」
「はい、そうなんです。でも、もう少ししたら学校が正式に再開になるみたいなんです」
早苗ちゃんの学校は、例の新種肺炎の蔓延のせいで休校になっていて、週に1度登校日が設けられているんだよな。
そのせいで、朝出会うことがめっきり少なくなっているんだけど、こうして元気な笑顔を見ることが出来ると、少し安堵してしまう。
痴漢から助けてあげたのがきっかけで、登下校中の電車内だけ一緒にすごすようになった早苗ちゃんなんだけど……最初の頃は、スマホを通してでないと会話出来ないくらいシャイというか、コミュ障だった彼女なんだけど、今では普通に話が出来るようになっているんだよな。
ひょっとしたら、ゲーム内でも仲良くしている俺が相手だからなのかもしれないけど、それでも大きな1歩だと思うんだよな。
「今日も半日なので、帰りはご一緒出来ないのですが……」
「そうだね。その頃俺は仕事中だから、くれぐれも気を付けて帰るんだよ」
「はい! わかりました」
俺の言葉に、笑顔で応える早苗ちゃん。
そうだな、この調子でクラスメートと話をすることが出来るようになれば、一緒に登下校する友達が出来るのもそう遠いことじゃないかもしれないな。
そんな事を考えながら、俺の会社の最寄り駅で下車し、早苗ちゃんと別れた。
「……ん?」
会社に向かっていると……見覚えのある人が、俺の前を歩いているのに気がついた。
間違いない、俺の後任の係長だ。
東雲部長と同い年の女性なんだが……引き継ぎの時に、俺の事をあからさまに、
『出世コースからはずれた仕事の出来ない男』
的な目で見てきて、俺の引き継ぎの話をまともに聞こうとしなかったんだよな……
まぁ、俺が出世コースから外れていたのは事実だし、それについて今さらどうこう言う気はないんだが……せめて、引き継ぎくらいはまともに聞いてほしかったんだが……
「……ったく……なんでこう上手くいかないのよ……絶対おかしいって……」
……ん?
なんか、新係長が何やらブツブツ言っていて、それが断片的に聞こえてきたんだが……なんだろう、愚痴? 的なことを言っているような……
「……あんな出来損ないの後任くらい、楽勝だと思ってたのに……でも、今更聞けないし……」
そんな事をブツブツ呟きながら歩いている新係長。
まぁ、ブツブツ言うのは100歩譲って許すとして……歩きながらスマホを操作しているのは如何なものかと思うんだが。
「おはようございます!」
そんな新係長に、後方から元気な声で挨拶をした俺。
相手が男なら肩を叩くところなんだが、相手は女性だし、引き継ぎの時の感じからして良い印象は持たれていないみたいだしな。
そんな俺の声に、ビクッと体を震わせた新係長。
慌ててスマホをポケットにしまいながら、俺の方へ視線を向けてきたんだが……なんか、そのまま足早に会社の中へ入っていってしまって……おいおい、一応挨拶したんだからさ、せめて一言挨拶を返してくれても罰は当たらないんじゃないか?
っていうか、そこまで嫌われているのか俺?
「……ま、気にしてもしょうがないか……」
若干凹みながら、俺も会社へ入っていった。
ま、距離は短かったけど、歩きスマホを辞めてくれただけでもよかったとするか。
◇◇
新しい部署へ向かう前に、一度前の部署へ足を向けかけてしまうのはよくある事ってことで、勘弁してもらうとして……
「おはようございます」
新しい営業部に、元気な挨拶をしながら入った俺。
部屋の中には、すでに半分近い社員達が出勤していたんだが……元気な声が帰ってこないというか、みんな俺の事を一瞥すると軽く頭を下げるだけで……って、おいおい、名目上とはいえ俺はお前達の上司にあたるわけなんだし、その態度はどうかと思うぞ?
まぁ、この部署に集められた社員達ってのは、将来が期待されているヤツらばかりみたいだし、俺のような元窓際族だったヤツに挨拶するのなんて面倒くさいのかもしれないが……
だが、それは俺のポリシーに反する。
「おはようございます!」
入り口のところで立ち止まって改めて大きな声をあげる俺。
2度繰り返したことで、数人の社員達が、
「……おはようございます」
と、返事を返してくれた。
まぁ、声が小さいのが気になったが、今日のところは反応があっただけでもよしとするか。
そんなやり取りを経て、俺の机に移動。
この営業部は、部屋の奥に東雲部長の机があり、その隣に俺の机がある。
まだ時間が早いのもあってか、東雲部長はまだ出勤していない。
よく見ると、俺の机の上には起案や報告書が山積みになっていた。
昨日、俺が退社した後に置かれたものだろう。
さて、まずはこの山を片づけるとするか。
椅子に座った俺は、早速書類に目を通していった。
始動して間がないこともあり、報告内容も、挨拶回りの報告がほとんどだったんだけど、中には早くも契約を取って来た内容もあったりして……さすが東雲部長が直々に集めたメンバーだな、と関心してしまう。
「おはようございます」
そんな中、東雲部長が部屋に入ってきた。
すると、
「「「おはようございます!」」」
社員達は一斉に立ち上がり、東雲部長に向かって大きな声で挨拶を返していった。
って、おいおい……俺の時とずいぶん態度が違わないか?
思わず苦笑する俺。
すると、そんな俺の表情を見た東雲部長は何かを悟ったらしく、
「朝の挨拶は大切です。挨拶をされたら元気に挨拶を返す。これは社会人の常識です。相手を見て態度を変えるような人はこの部署にはいないと思いますが、そのような行いはどこで見られているかわかりませんから、皆さんも、くれぐれも気を付けてくださいね」
にっこり微笑みながら椅子に座る東雲部長なんだけど、その台詞を聞いたみんなは、なんか複雑な表情を浮かべながら俺と東雲部長を交互に見ていたわけで……俺の表情を見ただけで、アイツらが態度を変えているのに気がついて釘を刺すあたり、さすが東雲部長といったところか。
「武藤部長補佐、まだ始業前ですが今日の打ち合わせをさせて頂いてもよろしいですか?」
「はい、問題ありませんよ」
東雲部長に、笑顔で応える俺。
この人の元でなら、思い切り仕事が出来そうだ、うん。
以前は、
『こんな女性と結婚出来たら幸せだろうな』
なんて思った事もあったけど、今は尊敬出来る上司的な感情しかないんだよな。
以前の俺だったら、一回り以上年下相手にそんな感情を持つことなんてなかったはずなんだが、それだけ俺も人間的に成長したってことなのかもしれないな。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます