慎重と用心深いと臆病との違いとは?
ふと思った。
私に過去、きっと親切心だけでこんなことを言ってくれた人が何人かいた。
「ちゃんとご飯食べなね。」
「ちゃんと作業中休憩取りなね。」
「ちゃんと寝なね。」
今となっちゃ友人すらいない私は
3日に1食
2日くらいなら飲食一切しない時もある
睡眠はわからないけど基本悪夢で1、2時間に1度は起きてる
Pc作業中は飽きるまではぶっ続け。
まぁ、普通かな?
きっと過去の知人達は、
心配してそんなことを言ってくれたいのだろうけれど当時は「嬉しいけどその言葉の君の本心も善意も親切心もどうしても信じられない。自分にそんな優しい言葉が本当に向けられるはずがない」としか思えなくて、本人には「ありがとう、頑張るね!」と濁したけれど1人で「ごめんなさいありがとう凄く嬉しいけどごめんなさい貴方なんかに心配して貰っちゃってごめんなさい生きててごめんなさい」と泣いて謝ることしか出来なかった。
今思い返したら
過去私に食事を取れと言ってきた人は
「少しでもいいから毎日3食食べて!」
だったり
「毎日1食だけでも食べなよ」
だったりした。
その時点で人によって「最低限の普通」が
違うんだな。
という点が1番面白かった。
よく痛々しい厨二病の人が人間観察が趣味
なんて言いがちだけれども人それぞれの基準とか常識の違い、価値観や思想観念の違いは比べると本当に面白いと思いますよ。
なにより私の趣味が傍から見ればもろ厨二病だったりするのでしょうかね。
楽しみながら首吊って薬飲んで腕切って血飲んでって。これらの娯楽は厨二病では無いと思っているんですがね、どうなのでしょうか。鬱状態が酷い時に酷くやってしまう点なんかは普通に精神疾患の類のような気もしますがね。
話が逸れましたが、つい昨日久々に私に優しい言葉をかけてくれた人がいました。
一昨日くらいに「吊り縄の結び方を教えて」と言ってきてたり娯楽で腕を切る同士だったり薬を飲み始めようと思ってたりする
まぁ、全て「娯楽」で、という同趣味の知人でした。
私がもう数年新規フォロワーを通してない鍵垢で鬱になって長文で拙い言葉で連投してた時くらいに、DMに話があれば聞くよ、迷惑どんどんかけていいよ、
といった内容のメッセージを送ってきてくれました。
久々でした。過去にもいました、何人か。
相談聞くよ、いつでも話聞くよ、と。
まぁ、その人らに1度も話も相談もしませんでしたが。
過去の人らには基本的に何故か、その言葉を聞いた瞬間「あぁ、君もか。」と若干の失望感が湧いてしまっていました。
多分ですが、過去その言葉を言ってきていた人達は高確率で「君と話していると楽しい!」と言ってきていた気がします。
この言葉もよく言われます。
そりゃそうですよ、えぇ。
幼稚園児からずっと人の顔色見てたんです。
相手がどんな受け答えをすれば喜ぶか大抵分かります。そして私ができる範囲で相手には楽しんでもらおうと、献身的の塊のような接し方をしてきました。まぁ、本心を一切出さないから結局話してて楽しいと言われた人たちとも今友達じゃないのでしょうけど。
だから、そうなのですよ。
私と貴方の気が合うから楽しいんじゃない。
私が尽くしてるから貴方は楽しいんですよ?
なのに貴方は取り繕っただけの私と仲良くなった気で私の奥底の悩みを聞き出そうと?
知性ある生き物はみな自分の都合のいいように、そして他人をけ落とす事に快感を覚えているんです。
自分以外の知性ある生き物に自分の弱い所を知られていると言うだけでいつ陥れられるかわからなくて怖い。
ましてや私が気を使ってることにすら気づけないお前なんかに話せるわけがないだろ??
と。
まぁ、それとさっき述べたような「生きててごめんなさい」の気持ちの方も混ざってしまって、結局自ら人に話しかけることすら億劫になってしまいましたね。
雑談すら、「今私が話しかけたら迷惑かもしれない」「そもそも相手からしたらLINE交換、リプライは社交辞令で個人チャットで話すほど仲がいいと思われてないかもしれない」「あぁ、烏滸がましくてごめんなさい生きててごめんなさい」となって話しかけられなくて
向こうも当然話しかけてなんか滅多に来なくて、友人関係は破綻。
友人ゼロ人は本当なんですよ。
またもや話がズレましたね。私もADHDなのかも知れません。
それで、昨日優しい言葉をかけられた話ですよね。
同趣味の人に。
その人にはそこまで嫌悪感や失望感を抱かなかったんですよ。
多分なんですけど、同じような
娯楽目的で腕を切って首を絞める
普通だったら頭がおかしいような趣味を
お互い同じような形で認めあえてたから
ですかね。
むしろそんな心配をしてくれると思っていなかった。
驚きと感謝とごめんなさいの気持ちで。
まぁ、この人にならすこしは話しかけてみたいなと思えたので自ら個人チャットて話しかける練習には手伝ってもらおうと思います。
さて、タイトルにした話は先述の文章に少し入っているのですが。
私は人の善意や親切心は全て裏があると思っている、というよりも
「裏がある可能性」、一般的に善意に裏がある場合は最悪ですよね?
「裏がある可能性」「最悪の場合の可能性」を第1に考えて、保証と保険が効くように思考と行動をしていると思うんです。
自覚なしにいつの間にか善意は全て切り捨てるような言動行動になってしまっているので明確な理由は自分でも言葉に出来ないのですが…
いつでも最悪に備える、というのは大事かもしれませんが人間の善意にも常にこれをしてしまうというのは、慎重と言えるのでしょうか?
正直いって、そこら辺の人間が全員こんなことを常に考えている訳では無いと思います。
常にこんな事考えてたら友人に相談事をする人間はゼロ人でしょうし。
なのに私は常に全ての人間を無意識下の中で疑ってしまっている。
その可能性の方が低いはずなのに。
これは
慎重ですか?用心深いですか?それとも臆病ですか?臆病ゆえの姑息さですか?
小心者だからですかね。
私自身が常に人を陥れようとしてるから他人もそうだろうと決めてかかってる、というわけでは決してないと。私自身は思っていますがね。無意識下では、分からないことかもしれませんね。
描き始めたのは1/29 23:40より前でしたが今は1/30 0:01になりました。
もう書き終わろうと思います、おやすみなさい。
また、悪夢と戦います。
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