堕落論 改。なんて高尚なものでは無いのだろうけれど。

坂原 治

2019/12/16

世の中には大まかに分けて、あくまで大まかに分けて私の言葉で、そして俗的に表すのであれば「徳」と「常」と「堕落」に分類されると思う。

そして私は「堕落や逃げ、甘えに「救済」と説いた偽りの道を与えること」が常になってしまった人間なんだろうな。

母は常だ。結果論的に、そして俗世的に、民主主義的な正しさを正しいと言った。

私は理論的に、いや、論理的に?

通れるだけの回り道をして、

「堕落人、甘え、逃げ、何も考えず自分の欲だけに従い一般的なただしさから外れてしまった者らに「そこはかとなく正当っぽい理由」を与えること」、きっと正しくはない「救済の道」を、いや、「堕落、怠惰の道」なんだろうけども。

それらを与えてしまうことがどうも常らしい。

そしてその、それを与えられている堕落人もまた紛れもなく私なのだけれど。

かの文豪は異端な自分を人間失格と申した。

かの文豪は堕ちるべき道を堕ちることが人の救済への最もの近道だと申した、また、一生が毒々しい青春なのは致し方ないとも申した。

何故かこれらは文豪と慕われた。

今そんな事を言い出せばきっと多くの物が「異端ぶって、俗物じゃない振りをして自分を高尚に見せようとしている痛々しい人間だ」なんて否定し放題なんだらうな。

きっと私が書いているこれが、私の気まぐれで俗世に出回ってしまっても、きっとこれを目にする人は限りなく少なく、そしてその少ない人物達も否定し放題なんだろう。

近頃の、このような界隈の多くの人はゴシップにニタニタ笑うやふな輩ばかりなのだろう。

そしてそれはまぁまちがいなく。

自分自身もそうなのだから首を絞める言葉なのかもしれないが。

自分自身もそう、とここで言っておかなければまた高尚ぶって!等と言われてしまうのだろう。

私の行動言動全て、

「優しい」なんて言葉で片付けてしまうのだけれど

えぇ、それを正そうとしたり、それの本質を見たり、

そんな事をしてくれる「友人」が私にはおりませんで。

怠惰なんてことはわかっているんです。

ただそうしないと、私が救われないのです。


そんな言葉と、

ジフェンヒドラミン

コデイン

エフェドリン

そんなもので私は救われてしまった気になったりするのです。


「生きていたくないと思ってしまった。」なんて嘆き涙を流すうぬに、またこれは偽りの救済を与えることで。

こんなことをしなければ生きていけないのなら、

きっと生きていない方がいいなんて、

人間に在らずことを考えてしまったりするのですから。

きっと私だって既に人間を失格しているのでしょうけれども。

こんなことを言えばまた、






私は惹かれる人間になりたかった。

魅力的で?魅惑的で?

蠱惑的な人間になってみたかった。

例えばカルト宗教の教祖。

例えばホスト、ホステス。

例えば人を惹きつける作品を作れるアーティスト。


こんな言葉で飾っても結局は「誰かに求められてみたかった」という簡単で最低な言葉で片付けられてしまう事なのですが。


(あぁ、これを最低な言葉と言ってしまう時点で私はいくらか敷居が高いようだ。)


こんな文を、年端も行かぬ私が書いたところで何が変わったり、

誰を救ったりはきっと出来ないのだけれど。

そんな気概は私にはもとよりないのですから。

これを誰かが読んでいるのであれば、

その中でこの文に何かを思ってくださった方にひとつ。

この文はきっと正しくもないしきっとこの文に責任なんかないのですから、この文に何かを思い気を病んでしまったり、気を害してしまったり。

そんな一喜一憂はこの文には勿体のないものなのですから、とだけお伝えしたいです。


2019/12/16

3:15

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る