【半自伝的小説】自慰に耽る
サリー
第1話「君の名前は西川尚くん。3日後の10月10日で7歳になる」
神よ、
変えることのできるものについて、
それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。
変えることのできないものについては、
それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。
そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、
識別する知恵を与えたまえ。
(ラインホルド・ニーバー"The Serenity Prayer"大木英夫訳)
唇から
辺りは暗い。身体を包む水はひんやり静かで、遥か彼方にある水面越しの丸い光だけが唯一の光源だ。
高く、遠く、かすかな音がする。水面から引っ張り上げようとしているみたいに、近づいてはまた遠のく。人の声だ。呼んでいる。近づいてくる。
うるさいな、ほっといてや。
不満の泡を口から出して、そっぽを向いた。
――私はここから出たくない。
すうすうする下半身を掴まれた。掴むものなんてあるはずのない箇所を。
その瞬間、私は1年8か月ぶりにベッドから跳ね起き、産声じみた悲鳴を上げていた。
「どうしたの? もしかして痛かった!?」
看護師が持っていた尿瓶を放りだして、私の身体を抱き支えてくれる。感覚的な違和感が一瞬よぎったものの、そんな些細な引っかかりなんて全然目じゃなかった。今目の前にある自分の剥き出しの股間に比べたら。
「な、なん、しょれ……。しゅよお……? がん……?」
舌ったらずな己の声を聞く。病衣がはだけた股間の真ん中には、肌色のナマコの赤ちゃんみたいな物体がくたっと寝そべっている。
単体で見れば、けしてグロテスクなものではない。だけどそれは、明らかに私の股間と繋がっていた。融合していた。事故によってできた腫瘍なのだろう。毛がないのも、腫瘍のせいで寝ている隙に剃られたのだ。
何が、「大きな怪我はないし、その内すっかり元気になるよ」やねん。好々爺そうな担当医の顔が脳裏に浮かぶ。気休めも大概にしてほしい。腕や足にできた腫瘍なら切除することも可能だろうけど、この腫れものは位置的に私の……――
「喋れるようになったのね、尚くん」
医者が医者なら、看護師も看護師だ。年若い彼女は患者の動揺なんてお構いなしに笑うと、立てた枕に私を凭れさせた。
『ナオくん』、確かにそう聞こえた。今までのは聞き間違いじゃなかったらしい。
「恥ずかしいのかな? 大丈夫ですよ。すぐ慣れるからねー」
「あにょなぁ、あぁしのなまえはぁ……」
約2年ぶりの発話はどうしても覚束ない。SM譲みたいなセリフを吐く看護師に、痺れた舌を駆使して反論しかけたところで、いきなり病室のドアが開いた。
「大丈夫か、尚!?」
「せやかりゃなおちゃう……!」
甲高い子供みたいな声が出た。しんと部屋中が静まり返る。
ドアを開けた
「あ……
廊下を歩いていく足音が遠のいてから、我に返ったように看護師が口を開いた。智也は「先生呼んでくるって」と返し、ゆっくり部屋に入ってくる。
この二人は歳が近いのもあってか、お互いくだけた口調で話す。それとも、プライベートでも付き合いができたのかもしれない。私は意図せず恋のキューピット役を押しつけられているのだ。そうでもなけりゃ、会ったことも名前すら聞いたこともなかった遠い親戚の彼が、2年近くも私の見舞いに通い詰めるはずがない。
「いきなりどうしたの、尚くん。そんなにおしっこするのが恥ずかしい?」
顔を覗きこんできた看護師の言葉で、下半身丸出しなことを思い出した。急いで病衣で隠そうとするが、ちっとも腕が動かない。看護師の陰になっているとはいえ、若い男の子が近くにいるというのに、火事場の馬鹿力はさっき飛び起きたことで打ち止めらしい。
それにしても、この看護師のデリカシーのなさは一体なんなのか。看護学校を出て間がないようだが、女心には素人も玄人もない。名前の言い間違いはともかく――大方、事故現場の混乱で他の被害者と所持品が入れ替わりでもしたのだろう――、年上の女性を『くん』付けで呼ぶのは個性が強いってレベルじゃないし、幼児に話しかけるような口調も常識外れだ。
――何かが、変だ。
股間からぴょこんと飛び出ている腫瘍を睨みつけていると、医者とさっきの弁護士が部屋に入ってきた。
「あ、先生。こいつどうもパニックになってるみたいで……」
智也とかいう子が不安そうに言うのを頷きで制し、担当医が枕元に立つ。
「喋れるようになったんだってね。若いからどんどんよくなるね。私なんか膝が痛くて痛くて」
老人ジョークを口にする医者からすれば、28歳の私――いや、1年昏睡してたらしいから今は29か――は確かに小娘だろうが、自分が同年代と比べて健康体だとは思えない。短大を出てからずっとバーテンダーをしてきたから、太陽を浴びると灰になる吸血鬼のような夜型人間だし、食事をとらないことはあっても酒を飲まない日はなかった。不摂生が蝶ネクタイをつけてシェイカー振ってるみたいな生活を続けていたのだ。特に事故前の3か月間は、半同棲状態だった彼氏が出ていって気兼ねする必要がなくなったから、連日明け方まで飲み歩いていた。
1年寝たきりのあとの8か月間。この回復速度は平均以下なんだと思っていた。なんせ半年はまばたきしかできず、1日の9割以上を寝て過ごしていたのだから。
更に顔を俯かせて医者の視線から逃げた。直感が言っている、下手に喋るのはまずいと。私の勘はよく当たるのだ。伊達に28年間、人の顔色を窺って生きてきたわけじゃない。
「どうしたんだ、尚。腹でも痛いのか?」
智也とかいう子の心配そうな声がする。しばらくして、医者が静かな声で言った。
「君の名前は『
やはり子供扱いの猫なで声だ。警戒しながら無言で頷いた。
「じゃあ、なんて名前?」
曖昧に首を捻る。言っていいものか判断がつかない。医者は温和な口振りと態度なのに、やけに威圧感があった。まるで尋問を受けているようだ。寄ってたかって得体の知れない宇宙人たちに囲まれながら。
そこまで考えて、医者の威圧感の正体に気付いた。身体が大きすぎる。痩せた老人なのに、身長は180センチを優に超えているだろう。目線で確認してみると、他の連中も平均より随分大きい。さっき看護師に身体を支えられたときに違和感があったのは、このせいに違いない。
この場にいる私以外の全員が、2メートルほどの高身長。そんなこと有り得るだろうか。そもそも、彼らがみんな標準語なのも、よく考えてみるとおかしい。よそから来たとしても、大阪弁は移りやすい。住んでいれば少しは感化されるはずだ。
実はここは大阪ではなく、私は標準語地域で入院しているのかもしれない。確かに事故当時の記憶がないから、旅行中だったというのは有り得る。しかしそれでも疑問は残る。見舞いに来るのが、この事故を担当している弁護士と遠縁の青年だけとはどういうことだ。
最早自分をとり巻く連中がエイリアンにしか見えなくなった。油断なく彼らを睨んでいると、医者が白衣の胸ポケットから平べったい物を私の眼前に差しだした。銀色の表面には、やつれた子供が映っている。
「君の名前は西川尚くん。3日後の10月10日で7歳になる。ここに来たときは小学校入学前だった。思い出したかな?」
優しい声に茫然と首を振る。鏡の中の、色白で目の大きい男の子も首を振る。疑いようもなくただの鏡だ。こんなに薄い映像装置なんかあるわけない。この医者が宇宙人でもなければ。
「何か覚えてることは? 例えば……最後にしてたこと、とか」
もう一度首を振る。私以外の全員がほっと安堵したのが判った。
「そうか……。何、心配はいらないよ。その内思い出す。今はゆっくり休もうね」
医者は私の肩を叩くと、看護師に耳打ちで指示を出して病室を出ていった。智也という子と弁護士も続けて退室する。弁護士がドアを閉め切る直前、智也の不安そうな早口が聞こえた。
「事故のショックで……」
あとはドアが閉められて、ぼそぼそと聞きとれないやりとりに変わる。
「さあ、おしっこしましょうね。大丈夫、ちゃんとできるよ! 前までやってたんだから」
看護師が見当違いの励ましをしながら、ナマコの赤ちゃん改め私のムスコの赤ちゃんを尿瓶の口に入れる。よく見ると、その下にふたつの肌色の団子もあった。本当に腫瘍じゃなくて男性器らしい。
膀胱は最早限界だが、こんな状況で出せるわけない――と思ったら、いきなり看護師に腹を手の平で押された。手付きは優しいものの、かなり強引に押してくる。「ほら、ね。手伝ってあげるから」って、一体なんのプレイやねん……!
パニくっている内に、ささやかな水音が聞こえた。同時に「うあっ」と思わず声が漏れる。
「大丈夫、零れてないよ。上手上手」
看護師がにこやかに褒めてくれる。が、そんなん気にしたわけとちゃう。排尿の感覚にびっくりしただけだ。女のときと違って、短いけれど細い管を通り抜けていく独特の感覚が確かにある。なんやこれ、めっちゃ変な感じ。
水音がやむと、看護師は後始末をし始めた。いつの間にか廊下の声も聞こえなくなっている。
「いっぱい出たねえ」
これまたアダルトビデオみたいなことを言う看護師の無邪気な声を聞きながら、私は脳内で自分の状況について整理する。
ある日目覚めたら事故で1年経っていて、しかも7歳の男の子になっていた。あ、もうあかん。意味不明すぎて頭が理解を拒もうとする。
聞きたいことは山ほどある。だけど、おかしいのは私の頭かもしれない。周りから見れば、今の私はいたいけな子供だ。そんな子が理路整然と話したり、自分は30前の女だと言い張ったりすれば薄気味悪がられる。最悪政府に捕まって、解剖されてしまうかもしれない。幸い、事故のショックで記憶を失っていると思われているようだから、とりあえずだんまりを決めこんで情報収集が妥当か――。
「じゃあ、私行くね。何かあったら、いつもみたいにそこにフッとして」
私の顔の上、数十センチのところにある高感度センサー付きのナースコール――すごい技術だ――を指差した看護師が、「あ、もう声出るか」と笑った。
「ここあ……とうきょ……?」
反射的に言っていた。ドアノブに手をかけた看護師が振り返って頷く。
「そうよ、大槻総合病院。今は知らない大人たちばっかりでつまらないだろうけど、すぐに尚くんと同じ歳ぐらいのお友達とも遊べるようになるからね」
看護師と入れ替わりになって、智也と弁護士の木邑が戻ってきた。
私が記憶喪失だと判明したからだろう。一度聞いていた自己紹介を今度は詳しく話し始めた。
「俺の名前は藤咲智也。尚とは、はとこっていう遠い親戚になるんだってさ。俺、自分に親戚がいたなんて知らなくて、木邑さんから尚のこと教えてもらったときすげえ嬉しかったんだ。これからよろしくな。退院したらいろいろ遊びにいこうぜ」
そう言って本当に嬉しそうに笑う彼は、少し癖のある前髪に変な跡がついている。今日が初めてというわけではなく、会えばほとんどの確率でついていた。引っ越し業者のバイトをしているらしいので、汗抑えのタオルを巻いていた名残だろう。年齢は22、3歳くらいか。大学生には見えないからフリーターなんだろうが、ちゃらついた感じのない勤労好青年という風貌だ。バイト先で可愛がられているに違いない。口調や仕草は歳相応なものの、社会人らしい落ち着きがあった。
それにしても……さっきのこの子の言葉がなんとなく引っかかる。私が違和感の正体に気付く前に、木邑が話し始めた。
「おじさんは尚くんの担当になった木邑って言います。尚くんが入院してる間のお金の支払いなんかをやってるよ。だから君は安心して、早く元気になってね」
実際は事故の加害者から示談金をふんだくったりもしているのだろう。前回同様弁護士と名乗らなかったのは、私が子供だからか。襟に弁護士バッジが見えないから、お人好しの営業マンのようにも見える。それでも彼が弁護士なのは、自己紹介される前から気付いていた。バーの勤務中に客から教えてもらったのだ。「知っとる、
木邑の話で違和感は確信に変わった。この西川尚という男の子には肉親がいないのだ。寝たきりになるほどの事故だ。保護者がいても弁護士は就くだろうが、入院費の支払いなどは通常弁護士業の管轄外のはず。
恐らく、尚の親は事故に巻きこまれて亡くなった。祖父母や叔父叔母もなく、だから遠縁の藤咲家まで連絡がいったのだ。木邑はこの尚という子の財産管理も任されているのだろう。
7歳で天涯孤独の孤児。なかなかハードな状況だ。なのに全然危機感が湧いてこない。知らない子の話を聞いているようにしか感じない。事実、西川尚と私はまったく赤の他人なのだ。こんな状況のとき、一体何をすればいいんだろう。私がしたいことってなんなんだろう。
ゆっくりと視線を巡らせ、窓の外に目を向けた。秋の空は澄んで白く見えるほどに遠い。薄緑色のカーテンが午後の陽射しに透けている。やっぱりどことなく白っぽくて、夢の中の景色みたいだ。そっとまばたきをしてみても、四角く切りとられた秋空が続いているだけだった。
と、小さく跳ねるような声が聞こえた。声の主の智也に視線を向けると、「やべ」と呟いて携帯電話の画面を見ている。
「次の作業始まる。先輩たちに無理言って抜けさせてもらってんだ」
目が携帯に釘付けになった。初めて見るデザインだ。未来的なメタリックブルーのボディはパクンと軽い音を立てて折れ曲がり、手の中に納まるサイズになる。私が入院している間に出た最新機種だろうか。そんな物を持っているなんて、案外いいところのお坊ちゃんなのかもしれない。孤児の私が個室に入院しているのは、彼の親の計らいによるものだろうし。
「ん? 尚、もしかして目が悪いのか?」
携帯を作業ズボンのポケットに入れたその指で、眉の間を撫でられた。無自覚に目を眇めていたらしい。視力が悪いのは明里のときからだから気付かなかった。違和感がないということは、明里と同じ左右0.4ぐらいの近視なのだろう。
「メガネも用意しないとな。じゃ、今日のところは帰るけど、思い出そうとして無理なんかするなよ。全部俺に任せとけ」
智也はいかにもお坊ちゃん然とした力強い発言をして私の頭を一撫ですると、「木邑さんも。お先に」と慌てた様子で病室を出ていった。手を上げて見送った弁護士が私に向き直る。
「僕も仕事があるから帰るね。尚くんが喋れるようになったから、これからいろんな大人の人が尚くんに会いにくるけど、僕もできるだけ一緒にいるようにするから」
少し考えて、無言で頷いた。『いろんな大人の人』というのは行政の人、特に児童福祉に関わる人間のことだろう。
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