心の奥の霧

「何その顔!?」


 玄関の戸を開けて、家に入ると初めに言われたのがその言葉だった。

 梓は俺の顔を凝視した。

 俺は曖昧に笑ってごまかす。


「いや、学校の階段で転けたんだ」

「はぁ? 嘘でしょ」

「本当だよ」

「うわぁ、マジだっさ」


 相変わらず辛辣な梓だが、なんだか心が安らぐ。

 俺、とうとうMになったかな。

 ついに新たな道が拓けたかもしれない。


「何してたの、こんな時間まで」

「ちょっとな……」


 俺はとりあえず風呂に入りたくて梓の質問を適当に流す。

 そして廊下を通って風呂場を目指した。

 するとその時、リビングから話し声が聞こえた。


「ねぇ、依織はどうしましょう。このままではいけないと思うのだけれど」


 どうやら、俺のことを話しているようだ。

 未だに親に子として認識されていたことに少々意外に思いつつ、聞き耳をたてる。


「あの子も一応は海瀬の長男よ? どこかのサラリーマンという訳にはいかないわ」

「うーん」


 父のため息が聞こえた。


「ではどうしろと言う?」

「例えば、形式上は依織を社長に置いて、実際的には青波さんに任せたりとかはどうでしょう」


 どうやら晶馬さんの次期社長候補は候補ではなくほぼ確定のようだ。

 流石は仕事のできるイケメン王子様だ。

 やることが早い。

 しかし、そんなことを考えていると、父の馬鹿にしたような声が聞こえた。


「依織に社長? 会社の品位が損なわれるだろう」

「……」

「あいつに社長の座なんてやったら会社を潰されそうだ。それに、あの馬鹿者を表に立たせるなんて想像するだけで恐ろしい」

「それはそうですね」


 おい母よ。

 否定しろや。

 最後まで俺を庇えよ。

 くそ、結局どっちも敵だ。

 本当にうちの両親は腐ってる。

 全ての行動が世間体を気にしているなんて、虚しくならないのだろうか。

 周りの目を気にし過ぎるのはどうかと思うがな。


「どちらにせよ、もし万が一にもあいつがしょうもない三流企業にでも就職したら縁でもなんでも切ってやる」

「お父さん、そこまで言わなくても」

「あいつには覚悟が足らんのだ!」


 ゴンッと荒々しい物音が聞こえる。

 どうやら酒を飲んでいるらしい。

 父は酒に飲まれるタイプだ。

 この暴言にも納得できる。

 いや、本来は納得しちゃいかんのだろうが。

 俺はそっとその場を後にした。

 ふと振り返ると、複雑な表情をした梓が俺を見ていた。



 ---



 それにしても、まさかあの隠れモンスターな変人がかつての友達だったとは思わなかった。


 赤岸柚芽。

 確かに、そんな名前だったはずだ。

 当時は『ゆめ』としか思ってなかったし、高校は名字呼びが普通だから気づかなかった。

 まさかアイツがアイツだったなんて。

 ……何考えてんだろ、俺。

 正直、頭がこんがり過ぎて回ってない。

 さっきの両親の話を聞いて何も思わなかったのはそのせいだろう。

 脳が正常に動いてないからだ。


 そもそも、どうしてアイツは俺に正体を隠していたんだろうか。

 わざわざ、あんな化け物キャラ作るなんて俺のことが好きだと言うならどう考えても逆効果だろうに。


「わけわかんねぇよ……」


 しかも、なんだよ。

『私は依織たちが付き合うのは反対』って。

 胸の内を見透かされているようで気分が悪い。


 吐いたため息が、やけに響く。

 体温は熱く、汗が湯船に流れ出ている感覚だ。

 お湯の温度を上げ過ぎたかもしれない。

 俺はのぼせた頭でぼーっと考える。


 正直、柚芽に抱きつかれてキスされた時、そんなに嫌じゃなかった。

 俺が柚芽のことを拒絶できなかったのはそのせいだ。


 本当は、押しのけてでも玲音の元へ駆け寄るべきだったんだろう。

 それが愛の証明って奴だ。

 晶馬さんも言っていた。

『もっと玲音を愛してるってアピールをしないと』

 本当にその通りだ。


 結局あの後、俺は玲音を家に送り届けるわけでもなく一人で帰宅した。

 疲れ果てていて、一人になりたかった。

 だが、今考えたら馬鹿なことをしたと思う。

 あんなことがあってすぐに、よく彼女を一人で帰らせたなと思うと、自分が血の通っていないクズ人間のように思えてくる。

 いや、実際そうだな。

 クズだ。クズ。最低なクズ野郎だ。


 ただ、ようやく違和感が解けた。

 過去の初恋の感情が思い出せた。


 柚芽を認識したおかげか、全て思い出せた。

 あの時の恋心や、柚芽の体温、匂いなど色々と昔のことを思い出せた。

 あの時、確かに俺は柚芽に恋をしていた。


 だが、やはりあの時の気持ちと今現在、玲音に対する気持ちは違う。

 だからと言って、玲音のことは好きだ。

 それも今日改めて思った。


「気持ち悪りぃな。陰キャのくせに」


 恋愛なんかで悩んでいる自分が気持ち悪く思える。

 クラスのモブキャラ風情が、恋愛の悩みを抱くなんて百年早えよ。

 そうだ。

 忘れてはいけない。

 俺は冴えないオタク君なんだ。


 でも、まだ何か引っかかる。

 陰キャという言葉に引っ掛かりを覚えた。


「未だに自覚してなかったのか?」


 自分で尋ねてみるが、俺がわからんものは俺もわからん。


「いや、別に陰キャとは自覚してたはずだが」


 曖昧な返答を俺に返す。

 ていうか、風呂場で自問自答してる時点でキモい奴だ。

 ここの場面だけ切り取っても十分な陰キャである。


「それにしても。じゃあアイツは誰なんだろう」


 俺は、腫れ上がった頰を濡らしながら、柚芽ともう一人の親友だった少年を思い出そうとしていた。

 そしてなんだか、その彼もまた、学校のどこかにいる気がした。

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