交わることのない世界

「ふぅ……」


 イノリはゆっくりと長刀を鞘に収める。

 チン――という鈴の音に似た金属音が静寂の中、静かに響く。

 それは、この決闘が終わりを告げた合図であり、同時に一騎とイノリ――二人の道を決定的に別つものだった。


 イノリの表情は決して穏やかなものとはいえないだろう。

 その瞳には戦いに勝利した余韻も達成感もない。

 残痕の念を抱いた瞳はただ、真っ直ぐに一騎を見つめていた。


「最初からわかってるよ。君が優しい事なんて……」


 そう最初から。

 一騎と再会したあの夜からずっとだ。


 何も変わってなかった。


 小さな子供を助けようと、泣いている人を助けようと必死で。

 自分の命すら顧みずに、誰かに手を伸ばしていた姿は――

 まるで、あの頃と同じ。


 だからこそ、去来する嬉しさも喜びも。彼に抱きつきたい衝動も全てを殺して。

 ただ、罪と怒りと怨嗟の感情だけを爆発させて――



 イノリは一騎の意思を砕いた。



 意識を失った一騎の体を光の繭が包み込む。

 イクスギアの強制解除に伴い、元の服装に戻った一騎。

 まるで幼子のように寝息をたてるその顔にイノリは安堵の吐息を吐く。


 イクスギアの防護壁は強固だが、絶対ではない。

 一騎が怪我をしないように手加減するのは随分と骨が折れた。

 

 だが、その甲斐あって一騎に目立った傷はない。

 戦闘による疲労こそ残るだろうが、一晩も安静にしていれば大丈夫だろう。


「お疲れ様」


 横たわる一騎にそっとねぎらいの言葉を投げかける。


 天邪鬼なイノリからは絶対に出ない言葉。

 常に本音で話せないイノリだからこそ、本人の気付かない内に本音を漏らす癖がついてしまったのだ。


 力の入らない一騎の体を抱きかかえ、待機していたクロムの場所へと向かうイノリ。

 

「ずいぶんと派手にやったものだ」


 クロムの第一声がそれだ。


 トレーニングルームは見るも無惨な光景だった。

 クレーターのように砕けた床に、ひび割れた防護膜。

 特殊な素材、そして異世界の技術で作られたトレーニングルームの悲惨な有様を見て、クロムは苦虫を噛んだ表情を覗かせる。


「もう少し耐久値を見直した方がいいと思いますよ?」

「これでも俺を基準にリッカ君が調整したんだぞ?」


 クロムは肩を竦めて苦笑を浮かべる。

 クロムの本来の実力は特派の中でも次元が違う。

 だが、今回リッカが基準にしたデータというのは恐らく……


「司令の封印状態の力なんて参考になりませんよ」


 人間の力にまで封印されたクロムを基準にしたデータなのだろう。


 確かにそれでもクロムは強い。

 イクスギアを纏ったイノリと互角に戦えるだけの力は残っているだろう。

 だが、それは腕力だけじゃない。長年の戦闘により培われた経験が合わさって初めて互角に戦えるのだ。


 純粋な力だけで見ればどうしても劣ってしまう。


「まぁ、それは今回のデータで改良するわ。中々、いいデータが取れたしね」


 そう言ったリッカの表情はどこか満足げだ。

 《アングレーム》と《シルバリオン》、二つのイクスギアの戦闘データが取れたのだ。

 《魔人》との戦闘データはあるが、イクスギアを用いた対人戦はほとんどない。これほど貴重なデータは中々お目にかかれないだろう。


 イノリは嘆息しながらも、気を失った一騎をオズに預ける。


「彼をお願いします」

「わかってるよ」


 一騎を抱きかかえ直したオズは先に地上へと向かう。

 その後ろ姿を見送りながら、イノリは人知れずため息を吐いていた。


 この戦いの結末はここにいる誰もが知っていた。

 勝てる気でいたのは一騎だけだろう。


 それだけの実力の差が二人にはある。


 それを知りながら、クロムがこの決闘を承諾したのは、単にイノリの我が儘を聞き届けたからではない。


「それで? 気は済んだのか?」

「……」


 イノリはその一言に押し黙る。


 決闘前にイノリが言った事は、紛れもない本音だ。


 彼と一緒に戦えない。


 だが、その本心は別のところにある。


 彼の力が弱いから?

 違う。そんなの理由にならない。


 彼が嫌いだから?

 違う。本心じゃない。


 なら、なぜ?


 それは――


「イノリ君?」

「――はッ!?」


 自問自答していたイノリはクロムの声で我に返る。

 振り返ると、クロムが心配そうにイノリを見つめていたのだ。

 それだけじゃない。

 リッカも同じ視線を向けていた。


 イノリは小さく頭を振ると、コクンと首を縦に振る。


「はい。十分です」

「決意は変らないか?」

「はい」


 一騎と一緒に戦う事は出来ない。

 その決意だけは戦っている最中、ぶれる事はなかった。

 むしろ、一騎のあの言葉を聞いて、よりその意思が強くなったくらいだ。

 

「彼とは一緒に戦えません」


 もし、一騎がイノリが毛嫌いする他の人間達と同じなら、あるいは――一緒に戦えたかもしれない。

 自分の為に――強さの為だけに拳を握るだけの愚者なら、何の感心も抱くことなく、死地へと誘っていただろう。


 だが、違った。


 一騎は十年前と――イノリが初めて出会った時と何一つ変っていなかった。

 イクスギアの破壊衝動に性格が塗りつぶされようと、根っこの部分は変らない。

 誰かの為に手を伸ばす事の出来る人間。

 泣いている人の為に戦える人間。


 だからこそ――そんな彼のままだったからこそ――


「彼が好きだから」


 無論、意識がないとはいえ、同族を殺した事に対する嫌悪感はある。

 だが、それを払いのければ、イノリの中に残るは恋慕の感情だ。

 彼の全てが愛おしい。


 この身を焦がす狂おしいまでの愛情。

 日々、彼女の中に芽生えた憎しみを洗い流す激情こそが彼女の本来の気持ちなのだろう。


 これを恋と片付けるにはあまりに質が悪い。

 発情した雌のように気付けば彼の事ばかり考えている。


 イノリの種族である《銀狼族ライカン》の特徴なのだろう。

 《銀狼族》は絆を何よりも大切にする種族だ。

 仲間、友人、家族に対する愛情はもちろん。輪をかけて強いのが異性への愛だ。

 

 一度、結ばれたならば、それは何よりも強固な絆となる。



 だが、それこそが呪い。

 

 

 イノリは種族の中でも、恐らく、この欲望が誰よりも強い。

 それは、イノリが人の温もりに飢えていたから。


 この十年、特派の皆が居ても感じていた孤独感。

 それがこの数日はどうだ?


 一騎と再会した喜びにこれまでの孤独感が嘘のように掻き消えた。


 また、あの孤独を味わいたくない。

 一騎が傷つく姿を見たくない。

 それはイノリの弱さでもあるが、同時に願いだ。


「我が儘だってわかってます。けど、お願いします」


 イノリは懇願する。

 クロムはその眼差しに目を伏せた。


 一瞬にして様々な思考がクロムの脳裏を過ぎったのだろう。


 一騎とイノリ――二人の適合者の連携による作戦の成功率。

 イノリのギア適合者として残された時間を考えれば、一騎の作戦への導入は必須と言ってもいい。


 だが、この思いを聞いて、一騎を戦いに巻き込めるか?


 イノリと一騎の関係がこれ以上、良好なものになるとはもう思えなかった。

 なにせ、イノリが身を引いているのだ。


 一騎の優しさに触れ、一騎に心を開いておりながら、その想いを奥底へと沈めてしまう。

 一騎の優しさがイノリの知る昔のままだから。

 そして、取り返しのつかない過ちを犯してしまったから。

 その恋に、罪悪感にこれ以上、無理を強いる事は――司令としてではなく、大人として許容する事が出来ない。


 クロムの中で、荒療治と銘打った作戦が頓挫した瞬間でもあった。


「……わかった。一騎君を作戦から外そう」


 クロムはただ一人の少女の願いをくみ取る為に――最後の希望を捨てる決断を下した。

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