My Dear ~いつかきみに~

彩瀬あいり

前編

 君に手紙を書く日が来るなんて、思わなかったよ。

 それも手書きだ。なんて原始的なんだろう。

 たくさんの、目に見えない信号が飛び交う中、電子データではない手書き文字は、かえって安全だというけれど、実のところどうなのだろう。

 遥か昔、機密文書は暗号化され、解読できないようにしていたと歴史書で学んだけれど、こんなふうな個人の手紙までは検閲対象ではないのかもしれない。

 いや、検閲はされるだろう。

 僕たち学者や研究者こそ、知識や情報を外部に漏らさないよう、監視されるはずだから。

 こうして書いている今、これがいつ君に届けられるのかわからない。

 ひょっとしたら、僕が君の元へ帰ったあとに届いたりするのかもしれない。

 そう考えると、つまり、これを君が読んでいるのであれば、僕はまだ君の元へ帰還していない、ということになるだろう。

 何故かって? だって、恥ずかしいじゃないか。

 届けられた手紙を、もしも僕が自分で受け取ったとしたならば、君に見せる前にすぐさま処分するよ、絶対にね。

 理由はそれだけじゃない。

 言葉は、直接伝えなければ意味がないと思うからだ。



 さて。一行前の文章から、実のところ二週間が過ぎている。

 まったく手紙というのは面白いね。どれほど時間が経過したとしても、紙面の上では止まったままだ。僕の身体は一日進めば進むだけ先へ進んでいるのに、これを書いた僕は、あの時のまま、ここにいる。

 手書きという形状は、そういうものなのだろうね。画家が景色を切り取ってキャンバスの中に閉じ込めるように、手紙は人のこころを、その瞬間のままに閉じ込める。

 いつだって新鮮なままだ。変わらないでいられるって、素敵なことだと思う。

 君は今、笑っただろう。

 大人になんてなりたくないと言うと、君はいつだって笑ったから。

 そう言って微笑む君の顔を、僕はまるでいま君が目の前にいるかのように、思い出すことができる。

 ああ、そうだ。今日は、君の話をしようと決めていたんだ。

 手紙なんて、一体なにを書けばいいのかわからなくて。考えあぐねたあげく、同じように手紙を書いている同僚に訊ねてみた。すると、相手への気持ちを綴ればよいのだと言われた。

 君への気持ちを語るのであれば、それは今までの生活を振り返ることに他ならない。

 だって僕たちは、ずっと一緒にいたのだから。



 初めて君の瞳を見た時、なんて美しいのだろうと思った。

 蒼、あるいは碧。

 ああ、文字というものの素晴らしさを、いま僕は噛みしめた。

 君の瞳は、「あお」なんて単純な響きだけでは表現できない、それはそれは美しい色だ。

 かつて、青空と呼ばれていた空。灰色の空しか知らない僕たちの考えた、ドーム上に投影される偽物の空とは比べものにならない色を宿した君に、僕は強く惹きつけられた。

 至極ありふれた亜麻色の長髪すら、黄金以上の価値があるように感じられた。

 光を受けて輝く瞳が動き、目の前にいる僕を捉えたその瞬間、僕のこころは君に囚われた。

 あの時からずっと、僕は君のとりこだ。

 けれど、それは決して悟られてはならないことだとも理解していた。

 僕と君の関係は、主従であってしかるべきだったから。

 そう望まれていた。義務づけられていた。

 規則や価値観は大切で、特に階級上位は模範たれとされる立場だ。そこに属している僕は、それらに背くわけにはいかないのだと己を律していた。

 君には君の立場があり、僕はそれを見守る役目を担っている。

 まだ少年だった僕は、その年齢なりに、自分の立場をわきまえていたつもりだ。

 そのくせ、僕は欲してやまなかった。

 君の声を。

 君の手を。

 君の姿を。

 君の存在を。

 君、そのものを。


 立場が許さないことを本当に実感したのは、学舎に入ったころだっただろうか。

 なにしろ、それまでの僕ときたら、通信映像での教育ばかりで、同世代はおろか、生身の人間と触れ合う機会がほとんどなかったものだから、学舎は本当に衝撃だったよ。

 もっとも、そんなふうに育つのは珍しいことではないのだけれどね。

 僕と同じように、狭いコミュニティで育ってきたご同輩たちは、同級生という不思議な存在に驚き、恐れ、どう接すればいいのかわからないといった生活をしばらく送った。

 いまにしておもえば、あれは徴兵を意識した生活だったのだろう。

 人口が減り、出生率が下がり、環境破壊からくる都市部の崩壊により、人々は過疎と呼ばれていた場所へ個々に逃げ込んだのだから。

 他者と触れ合う機会などなく育った僕たち世代に、社会性を植え付けさせる意味で、あれは必要な過程だったんだ。

 いま僕がいるのは、僕と同じ条件によって生まれた者たちが集められた部隊だ。かつての同級生たちは、同僚、あるいは仲間となった。

 肉体ではなく、頭脳に特化した部隊とはいえ、やっていることは変わらない。

 戦争だ。


 ああ、僕のことはいいんだ。君との思い出を語ろう。

 僕が知るかぎり、君ほど魅力的は女性はいない。

 遺伝子操作が可能な今、容姿なんてお金で買えるし、外科的処置を行えば、望んだ容貌に変えられるのだから、外見的な美しさは意味をもたない。

 魅力とは、その心根を宿した行動に現れる一連の仕草だ。


 例えば君が、塩と砂糖を入れ間違えたお菓子を作ったこと。

 見た目は完璧なのに、味だけがとても不完全で。僕としては、まさか君がそんな失敗をするなんてちっとも思わなかったものだから、ひどく驚いたことを覚えている。

 けれど、とても微笑ましくも感じたんだ。気にするなと言ったことは、慰めなんかじゃない。僕の本当の気持ちだよ。

 お菓子作りといえば、小麦粉をまき散らしてまっしろになったこともあったね。

 あの現象は、海を舞台にした古典作品に登場する「タマテバコ」のようだった。

 僕も君も、粉まみれになって、キッチンで一緒に笑った。とても楽しかった。

 なにも君の失敗ばかりを記憶しているわけじゃないよ。それらは僕にとって好ましいものであり、君の行動が、僕のためになされているということが、ただただ、嬉しかったんだ。ひたすらに。

 もっとも君にとっては当たり前の、与えられた役割を遂行しただけだったのかもしれない。

 だけど僕は、君がもたらす全てのことを好意的に受け止めていたのだということを、改めて言わせてほしい。


 意外に感じるだろうか。

 だけど、本当のことだ。

 いまここで、紙面の上でぐらい、こころの内を吐露してもいいだろう?

 文字とは、不思議だね。

 抑え隠していたはずの気持ちを、こんなにも己に突きつけてくるのだから。


 それが、禁じられて然るべきことなのだと、こころに深く刻んだ時。

 僕が君に抱く気持ちそのものが、歪んだ思考なのだと認識せざるを得なかった時。

 社会的に下になってしまうであろう君にとがが向かないように、僕は、君への想いを封じ込めることにしたんだ。

 学舎で指定された課程を終えて戻った僕は、徹底して君への態度を変化させることにした。

 はじめは戸惑った様子だった君も、やがてそれを受け入れたことに憤りを感じただなんて、随分と勝手な言い草だ。

 だけど、離れていた五年間。

 君を忘れた日はなかったし、君以上の女性はいなかった。

 それは今も同じだ。


 なんでもない時に、ふと君を思い出す。

 君が僕を呼ぶ声。

 君が、僕のために作った料理。

 整えられた寝室、清潔に保たれたキッチン、磨かれたガラス窓から見える庭。

 そう庭だ。

 君が、僕のためにと育てた植物たちは、本当に見事だった。

 このご時世。乾いていない果物を食べることが出来るなんて、奇跡だと思ったよ。

 君はいつだって、僕に驚きと、喜びと、温かさをくれた。



 ああ。いつか本物の空が見たいね。

 映像で見た、かつて水の星と呼ばれた惑星のような世界。

 美しいアオ。君の瞳のような空。


 底知れない青い空、透き通るような水、鮮やかに萌える緑。

 僕が目指して研究してきたそれらは、この国の情勢とは真逆の方向にあるものだったけれど、君だけが信じ、辺境ともいえる場所へついてきてくれた。

 それを「逃げ」だという人もいたけれど、それでもよかったんだ。

 研究なんて二の次だ。

 僕は、君とふたりだけで暮らしたかっただけなのかもしれない。


 誰にも咎められない場所で、この先の未来をずっと、君と生きていきたかった。

 遺伝子エラーで生殖機能を持っていない自分の身体。眉を顰められ、嘆息された欠陥を、僕は嬉しく思う。

 優秀な子を残すためだけに、会ったこともない誰かと婚姻を結ばなくてもよかったから。

 神とやらがいるのかどうかは知らないけれど、僕は「神」に感謝する。



 いま、君のまわりはどんなふうだい?

 君が育てた種。僕が作り、君が世話をしてくれた植物たちは、もう芽吹いただろうか。

 造花ではない、生きた花を束にして、君に贈るのが僕の夢なんだ。

 何故だかわかるかい?

 君が言ったからだよ。

 僕が、甘ったるいとバカにした恋愛小説にあった求婚の場面。

 素敵ですと微笑みを浮かべた君に、僕が手ずから花を捧げ、愛を囁く。


 いつか、あらゆる人類の間に壁がなくなって、なにもかもが許容されるような世界になる。

 そのために、僕はいまこうして戦っている。


 ねえ、ルゥ。

 ずっと言いたかったことがある。

 きちんと言葉にして、伝えたいことがある。

 僕は君を




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