第六十一話 月と星

 月星紋は千葉氏の家紋である。月星とは、妙見菩薩信仰、特に七星、つまり北斗七星をさすことが多い。後年の剣豪千葉周作が北辰一刀流を名乗ったのもその由縁であろう。伝説では、坂東八平氏の祖の一人といわれる平良文たいらのよしふみが平将門と共に、妙見菩薩の化身によって助けられたというものである。


 一口に月星というが、代表的なものは小さな丸の下に上弦の三日月が描かれているものである。他に、後世で七曜紋九曜紋等と中央の大きな丸を小さな丸が囲む構図も月星紋と呼ばれている。なお、斜めに傾けた構図は江戸期以降のもので、室町期には使用さたことはない。


 平良文はその後、平将門と袂を分かち陸奥守、鎮守府将軍として、陸奥の地へ旅立ったが、良文が再び関東へ戻るまでの間に将門は反乱を起こし討伐されてしまう。しかし、その後将門の遺領を受け継いでおり、その下総国相馬郡こそが、上総氏千葉氏相馬氏の三氏所縁ゆかりの土地となった。


 戦国武将は多かれ少なかれ身内同士が血で血を洗う抗争を経験しているものだが、千葉氏は特にその傾向が強かった。そもそも、上総、下総両国に跨って、千葉氏、上総氏、佐賀氏、相馬氏近縁の平姓武士団が存在し、養子などをやり取りし、密接な関係を持ちながら、しかし決して仲が良いわけではなかった。千葉氏の興りは、上総家の家督を継げなかった長男であったというから、推して知るべしである。


 平安末期、源頼朝が挙兵し、石橋山で敗れた後、頼朝は上総千葉両氏に使者を発てたところ、上総氏は頼朝を支持しなかったが、千葉氏は積極的に支持した。その後鎌倉幕府が成立した後、上総氏は頼朝に滅ぼされ、千葉氏は重用された。下総守護を歴代補任され、官職名の上総権介(上総は親王補任国であるため実質の国司)と居城の地名から千葉介ちばのすけと称した。最盛期には、下総の過半を千葉氏が領していたとされる。


 元寇の折、当主が九州で戦死、嫡男は九州に在留し九州で地頭職守護職を補任され関東には帰れず若くして没した。そのため、関東では在国の嫡男が幼少のため、叔父の系列が千葉介を継承した。さらに南北朝期に入り、当主の子と元当主の子が南朝北朝に分かれて長く争うことになる。


 室町時代、関東は関東公方と関東管領上杉一族の争いが続いていた。千葉氏は下総守護を歴任するなど関東鎌倉府の重鎮として重きをなしており、常に関東管領上杉一族側に立っていた。そんな中、第17代当主千葉胤将は、父胤直の隠居を受けて下総守護職と千葉介を継いだが、父と異なり上杉方ではなく古河公方を支持した。これは、関東のパワーバランスを崩す行為であった。誰もが古河公方の工作を疑ったであろう。


 しかし胤将は、享徳三年(1454年)病で亡くなってしまう。胤将には子がなく弟の胤宣が家督を継いだが、胤直が後見することになる。だが、そのときは胤直は隠居にもかかわらず、上杉方と通じ、上総守護職まで補任されていた。この出来事には、関東管領方の関与が疑われるだろう。そんなに都合よく若い当主が病で亡くなるって?


 康正元年三月、危機感を覚えた古河公方方こがくぼうがたの千葉一族の重臣馬加まくわり康胤と原胤房は千葉城を襲い、千葉胤直、胤宣親子は城が炎上する中を命からがら逃亡する。馬加まくわり康胤と原胤房は逃亡先の城も攻め、親子と胤直の弟胤賢は自刃する。馬加まくわりは珍しい姓だが、幕張という地名にその名残がある。馬加氏は将胤が古河公方側に立った際に大きく関与したと言われている。


 京の幕府は、古河公方の権力が伸長することを危惧し、美濃に領地があり室町幕府奉公衆で千葉一族出身の東常縁とうのつねよりと浜式部少輔春利(美濃土岐一族)を派遣し鎮圧することにした。常縁はその年の十一月に千田の原氏を、次いで馬加城を攻め、馬加、原両氏を下総から追い出すことに成功する。前後して市川城には千葉胤賢の息子である千葉実胤・自胤兄弟を入れた。


 古河公方は反攻し、明くる正月市川城を攻め、千葉兄弟を武蔵への撤退へと追い込んだ。しかし、東、浜両人は東へと転戦し、東金城、次いで上杉との来援軍と共に八幡城と攻め馬加康胤と原胤房をついには敗死させるに至った。しかし、それに6年の歳月を要した。当初の千葉家当主の敵討ちという目的は達成されたかに見えた。そして、畿内で起きた戦乱、応仁文明の乱が天秤の傾きを変える。


 当初東軍であった美濃の『小守護』斎藤妙椿が戦乱のどさくさで美濃国内の多くの荘園を押領したが、その中に東常縁の領地があった。関東での戦争などしてる場合ではなく東常縁は京に戻った。その時に、常縁が浜式部少輔春利あてて詠んだ歌が斎藤妙椿の知るところとなり領地が返されるが、それは美談として有名な出来事である。


 主将であった東常縁とうのつねよりがいなくなった馬加一族討伐軍は表立った活動はできなくなる。さらに、馬加康胤の(自称)庶子である岩橋輔胤をして古河公方足利成氏が、千葉氏宗家を相続させてしまった。岩橋孝胤は東常縁が馬加康胤を追って転戦する間、下総の豪族を纏め、康胤、胤持が敗死すると千葉介を名乗り、居城を佐倉城に替えた。つまり、千葉家の家督を分家の分家が簒奪したということになる。


 千葉実胤・自胤兄弟は、太田道灌の助力などにより下総の過半を占領することもあったが、国人衆の支持を得られず、撤退している。そして、太田道灌が死んで援助するものがいなくなり、進退に窮していた。兄の実胤は隠居してしまっていた。そこへ、俺の援助があった。安房を占拠し、上総武田氏の領を通過した自胤は、千葉城跡に陣屋を構築し佐倉へ攻め寄せる機会をうかがっていた。しかし、農繁期になったことで集めた兵は過半が国元へと帰ってしまっていた。


 千葉自胤よりたねは武蔵下総国境の利根川(隅田川)沿いの石浜城(浅草付近)に拠って、幕府から千葉介を認められ虎視眈々と下総を狙ってはいたが、実情は小領主に過ぎなかった。とても、俺が用立てた戦費の返却など不可能である。千葉城付近、馬加など接収した領地もあるが、戦場となった農地である。収穫どころか、飢饉の心配さえもあった。


 その自胤が、どこからか火槍の噂を聞き付けたらしい。

「総代様、何卒私めに火槍をお貸しくだされ」

「火槍を貸せというが、あれは高いぞ。この日ノ本で使える火槍は、儂の物しかない。銭を返えせるあてはあるのか」

「それは!」


 自胤は名にし負う内政下手である。太田道灌から石浜城を与えられ所領としたものの、太田道灌、ひいては扇谷上杉家におんぶにだっこであった。まともに徴税できたかすらも疑わしい。文明11年7月には上杉軍と共に臼井城を落城させ、上総、下総の大半を勢力圏に収めた時期もあったのだが、国衆には全く支持されなかった。本来の千葉氏宗家の血筋は自胤であることが明らかであるにもかかわらず、である。


 そして二十年近くの歳月が流れ、岩橋輔胤の嫡男といわれる孝胤は千葉介を名乗り、古河公方を支え、下総にいまだに勢力を保持している。自胤は石浜城から自力で勢力拡大はできなかった。現在千葉荘周辺を占領しているのは俺が貸し与えた兵と銭によるものである。


「里見を潰し、武田と共に千葉、馬加を抑えたまでは良かったがな。佐倉は落とせず、銭を返さねば、鎌倉のものとなるが、千葉家がそのようなことでは示しがつくまいに」

「お屋形様」

 親父が御所様、あるいは鎌倉様なので、伊豆足利家という意味で、左京は俺をお屋形と呼ぶようになっていた。

「なんだ? 左京」


 飄々とした調子で、左京が話に加わってきた。

「千葉介殿は、何のために、佐倉を攻められるのでしょうか?」

「む。知れたこと。伯父、父を殺した一族が、千葉の名を名乗っておるのですぞ。うち滅ぼすのは、当然ではございませぬか」

「されど、佐倉の城は難攻不落。いつ落とせるので?」

「むうっ」


 自胤が下を向いた。

「火槍を貸せと申されますが、あれを使ってそれでも落とせぬ時はどうなさります?」

 自胤の膝に置いた拳がプルプルと震えだした。

「腹を切るぐらいではすみませぬぞ」

 左京は静かな声。


「古河を攻めるにあたって、火槍は秘中の秘。それを満天下に知らしめてそれで失敗となれば‥‥」

 そこで言葉を切って俺を見た。

「千葉の名を徹底的に貶め、岩橋が千葉を名乗る旨味を無くせば良いか。両手、片足の腱を切り、片目を潰して放逐とするか」


「そ、そこまで・・・」

「嫌なら、和睦せい」

「この期に及んで和睦ですと」

「戦に振り回される民が哀れだからな」


 左京の口から言わせるか。

「左京?」

「は。 新介(孝胤)殿を、千葉家の猶子となさりませ」

「ゆ、猶子ですと!」


「自胤殿は、男児がございません故」

「い、いや。某には兄の子を猶子として」

「なにかと。病がちと聞きおよびまするが?」

 だめを押しておくか。

「出家するならば、儂が京の公方様に口をきこう。そうだな、興福寺などはどうだ」


 自胤は茫然とした様子。

「千葉の嫡流であれば、おろそかにされることはなかろう。それとも、真宗に入るか。真宗ならば子供も残せよう。なんにせよ、一家が二派に分かれることは、乱れの元。実績のない七郎(自胤の猶子、実胤の実子)に千葉ほどの大家を相続させるわけにはいかぬ。千葉に城を築き直し、息子として佐倉から新介殿を迎えるがよかろう」


「七郎を寺に入れると申されるか!」

「千葉介殿! 二千貫に及ぶ借財、下総国内国人衆への統括状況、佐倉城への攻め手の滞りいずれも、関東総代足利揆一郎政綱の意向に抗える材料にはならぬのではないでしょうか」

「それは、重々承知の上のこと。なんとしても、我がが手で、我が手で・・・」


「自胤殿。火槍はな、借用一丁百貫だ。どうしても、戦に使うにはそれだけかかる。百丁揃えてそれで、運よく佐倉城を落としたとして、一万貫以上増えた借財をどう返済するつもりなのだ」

「お屋形様の言われる通り、借財を返す当てがなく戦は始められませぬぞ。佐倉城を落として、どれだけ領地が増えるのか、しっかと考えねばならぬはず。しかも、戦禍に塗れた領地でございますぞ」 


 下を向いたまま、絞り出すような声で返してくる。

「某には、某には出来ぬことでございますか」

「下総の武田の後詰があるうちに攻め抜ければ良かったがな。いくら父祖の土地はいえ、攻めを中断して、千葉に陣屋を建てるのは攻める気があるのかと言われかねん。物井か亀崎あたりに城を造るのなら誰が見ても攻め気が分かる」

「それが、何故いかぬと・・・」

 俺の言うことが分からぬようではな。たとえ、岩橋を滅ぼしたとて、その後が盤石とはいかぬだろうさ。

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