第六章 江戸湾制覇
第五十八話 歌の翼
帰路、俺を堺で待っていた船は、鎌倉丸ではなく、さらに新造の伊豆丸だった。三本マストの大型帆船である。親父が、新造の船を送り、鎌倉丸を関東に戻したのである。伊豆丸は、鎌倉丸と異なり、竜骨を使った新設計の船で、流線型の船であった。僅かだが鎌倉丸に比べ船足が早い。それは、期待したほどではないのだが、舵の効きが良く、今後戦船に採用するか検討することになっている。
船を送るのにもちろん空船ではない。伊豆で特産として名の知られ始めた、銅製品、樟脳、塩、清酒などを積み込んで、帰りは粗銅、米、麦等の雑穀類、布や着物を満載して帰るのである。今では、二、三か月に一往復はしており、関東と堺の海路を結ぶ廻船の様な位置づけにされている。それまでの、伊勢神宮の廻船は、船員を関東の水軍が雇うようになり、神宮が廻船の持ち株を、三浦や富永等伊豆衆の関東水軍衆に譲るに至って、途中の熊野、志摩や知多の水軍衆とも良好な関係を築くにいたっているのだ。
船員は、多くは下田の関戸家、土肥の富永家から選ばれている。この二家は俺への忠誠心が特に強い。というのも、新開発の羅針盤を搭載しているのである。
風磨の里である足柄には磁鉄鉱の鉱山がある。そこで、特に強い磁力を示した欠片を加工して作らせたのである。
羅針盤を使って沖乗りで土地勘のない沿岸に近寄らずに一気に伊豆から、伊勢大湊まで進むことができる。大船に見合う人数が乗っているし、火槍を改良したものを持たせているためか、関東の船乗りは常に意気軒昂である。
伊豆丸の速度は追い風で凡そ3ノット程である。だが、西から東への航路の場合、海流に上手く乗ると、2ノットの上乗せが見込める。1ノットは時速1.852キロであるから、5ノットでほぼ時速9キロである。例えば夜明け6時頃に大湊を出航したとすると、日暮れには相良湊で宿をとれる。あるいは、一晩海の上で過ごし、翌日には下田に帰るという離れ業を見せる者達もいる。
逆に、東から西への航行となると、3-2で1ノットになるかというと、そうはならない。東から西への数が吹き続けることは滅多にないし、海流に乗るのを外して、上手回しをつかって、逆風をついての航行となるからだ。
通常黒潮は、ほぼ西から東に流れ、この海流に乗っていけば、陸上で無風であっても海流に乗っている以上、逆風が吹き、つまりは上手回しにより、海流よりは幾分か早く進むことができる。
帆船は今までの手御漕ぎ船と異なり、乗員の数が少なくて済む分、多くの貨物を載せることができる。また乗員が少なくて済む分、水、食料が少なくて済む。だが、上手回しを使う以上、船体の剛性がより必要になる。そのための竜骨構造だが、直進性が必要になるため、帆柱による重心の上昇を抑えるため、喫水の下を深くする必要がある。接岸できる湊を選ぶようになるのだ。また、高剛性の船体を求められることと相まって、何層かの甲板を設け、甲板下が小部屋の集合体のような構造となる。大部屋が作りにくいため、貨物船としては使い勝手は悪くなる。
俺は、堺を出帆してから紀之湊で醤油、味噌を買い付け、安宅、尾鷲、大湊、そして熱田で、織田大和守あての手紙を託した。もう一度大湊に戻って、鰹節を手に入れて、相良、焼津、内浦と帰ってきた。
焼津では、長谷川法栄に伊勢新九郎への手紙を託した。
都合十日ほどの航路であった。
「お帰りなさいませ。旦那様」
調理場で何やら大鍋に向かっていた、お松が振り返って笑いかけた。
「ただいま。……何をやっている?」
「ほら、見て」
菜箸で鍋の中のものをつまみあげて見せる。
「あーん」
「な、何?」
「ほら、あーんだよ。旦那様」
あーん、と口を開ける。菜箸に挟まれているのは小海老?
覚悟を決めて、口を開ける。
口の中に菜箸が押し込まれる。これは!?
「サクラエビか!?」
懐かしい風味。
「そう、今朝の網でとれたのよ。サクラエビの釜揚げよ」
「そういえば、今が旬か」
「内浦の漁師頭に、目の細かい網で深いところから取って貰ったものなの。最初の一窯が旦那様に味見してもらえて、グッドタイミングね」
菜箸を持ったままガッツポーズである。
「ぐっどたいみではありませぬ! お方様」
俺の真下からいきなり声が聞こえた。
女中頭が松をねめつけている。白髪交じりの女中頭は、背が俺の胸辺りまでしかなく、すぐそばにいると目に入らないことが多い。
「あら、おせん。武家の女房が旦那様の食事を差配するのは当然のことよ」
「自ら、包丁を使い、煮炊きをするなど奥方様がすることではございません」
「こんなに、美味しくできたのよ? おせんも食べてみて」
「それが、はしたないというのです!」
長くなりそうだと、俺は退散することにした。あ、そうだ。伝えておかないと。
「松、湯浅の醤油と味噌を買ってきた。鰹節もな」
「え、本当? やったー」
その場で万歳する松。義母がいないせいか随分とはっちゃけているもんだ。
「お方様!」
案の定、おせんに怒られていた。
自室に足を向けたときに、その音が聞こえた。
ボロンボロン・・・
何だろう?
その音色に向かって歩き出す。
縁側で、ギターを抱えたお勝がいた。
形状は琵琶と言った方が良いのだろうか?
しかし、糸巻きの数は六。拳が入りそうなサウンドホールがあるので、ギターだと思う。
音も、ガットギターの音だ。
俺は、呆然と立ち尽くした。
一心不乱に、たどたどしい指使いで、どこか懐かしい音色を奏でている。
その曲は・・・
思わず、不用意に足を踏み出して、床がみしりと鳴った。
はっとした風で、お勝が振り返る。
「旦那様!」
抱えてギターらしにしかきみえないしろものを、脇へ置いて立ち上がる。
「帰っていらしたのですか!」
たたっと走り寄る。
「お帰りなさいませ」
お勝はそう言って、深々と頭を下げた。
「ああ、先ほどな」
そう返しながら、目はお勝からギター擬きへと移ろう。
「松姉さまが職人に作らせたものです。なんでも、
「さっきの曲、もう一度弾いてみてはくれないか?」
「えっ?」
「頼むよ」
「はい」
お勝は、口元を引き締めてうなずいた。
先ほどの位置に戻って儀居太を抱え直す。俺は、お勝の隣に腰かけた。
やがて奏でられる曲。
思わず、口ずさんでしまう。懐かしい曲。
うさぎ追いしかの山
こぶな釣りしかの川
・・・・
二番を歌い終わって、三番というところで、歌詞が怪しくなった。
一瞬言い淀んだ時に、俺の後ろから歌声が加わった。
こころざしを果たして
いつの日か帰らん
山はあおきふるさと
水は清きふるさと
松は歌い終わると、にこにこと指の先で拍手をした。
「勝子ちゃん、上手になったわねぇ」
お勝は、照れたように顔を赤くしてはにかんだ。
「まだまだだと思いますけど、上達したのなら、姉さまの教え方が上手いからです」
「じゃあ、今度は勝子ちゃんも歌ってみようか」
松が儀居太を受け取ると、弾き始めた。スリーフィンガーのアルペジオ奏法の伴奏つきである。お勝は、わあと、その音に心を奪われたようだ。
「さん、はい」
三人で歌った。
お勝の声は、良く通る澄んだソプラノで、読経で鍛えられていると感心するものだった。
松は豊かなアルトで、その声にとても惹かれるのを感じた。普段の声とは全く違う歌声。
「あら、あら」
歌い終わった松が袂から白い綿布を出して、俺の眼もとを拭っている。
我知らず俺は頬を涙で濡らしていた。
「そんなに、懐かしかったですか?」
「あら、
お勝は不思議そうに小首をかしげた。
はは、そうだな。俺は、半笑いで、二人を抱きしめた。
『人に翼がなくても、歌には翼があるだろう』
そんな言葉がふっと浮かんだ。
誰の言葉だったろうか? 歌の翼、歌の力。そんなものがこの戦乱の世を動かしてくれるなら、俺は……
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