この世界の均衡

 とんとんと扉を叩く音がしたのはどれくらい時間が経った後のことだろう。

 どうぞ、というとディーテフローネが入ってきた。


「リュデンシュベルの第一王子から連絡がきたわ。今度こそ取引に応じるそうよ」

 それは青空にとっては朗報でもなんでも無い。

 青空の顔色が沈んだ。

「そんなにも落ち込まないで」

「落ち込みます。わたし、ハディル様と戦いたくはありません」

 青空は頭を振った。彼と対峙するなんてそんなの嫌だ。聖女なんて降りたい。


「わたし、聖女なんてなりたくありません。嫌です。あんなひどい王子様の元になんて行きたくありません」

「それでもわたくしは目的のためにあなたをリュデンシュベルの第一王子の元に連れていくわ。まあ、彼が今度こそわたくしたちの宝物を返してくれたら、の話だけれど」


 ディーテフローネは青空の近くへ歩いてくる。

 青空はあれからずっと窓の近くに立っていた。まだ窓の外を眺めていたほうが気分がまぎれるから。


「だいたい、どうして異世界の人間が召喚されるんですか。王子様が〈光の剣〉を持っているんでしょう。彼が魔王をやっつけるために旅にでも出かけたらいいじゃないですか」

 青空は一番疑問に思っていたことを尋ねた。

「それは無理よ。〈光の剣〉はこの世界の人間には扱えないもの」


 ディーテフローネはあっけらかんと言った。

 青空はぼかんとした。それが真実なようでディーテフローネは「それができたら苦労はしていないのではないかしら」と続けた。

「い、意味がわかりません」

 青空の正直な感想にディーテフローネはころころと笑った。


「それはそうよねえ」

 彼女は近くの椅子に座った。


「色々と不便よね。聖なる遺産を使うにも制約があって。五つある光の神の力を受け継ぐ聖なる遺産だけれど、長い歴史の中で光と混沌の勢力とで戦ううちに力が弱まっていったの。その過程でいつからか〈光の剣〉を人間が扱うことは出来なくなった。そうして、人間たちは試しに別の次元に住む人間を聖術を使って召喚した。そうしたらその人間は〈光の剣〉を使うことができた。そういう理由よ」

「じゃあわたしは本当に〈光の剣〉を使えるってことですか」


「そうなるわね。あなた、元の世界に戻りたい?」

「え……」

「戻れるわよ。元の世界へ。彼らが勇者もしくは聖女召喚をするとき、術式に盟約を組み込むの。すなわち魔王を倒せし者よ、この世界に参れって。その約束が果たされたとき、あなたはこの運命から解放される。次にこちらとあちらの世界が近づくときにもう一度扉は開かれるわ」


 初めて聞かされた事実に、そらはごくりと息を呑みこんだ。

 ハディルがなにも言わなかったからてっきり無理なのだと思っていた。


「けれども、魔王を倒さない限り青空はこの世界に留め置かれる。魔王ハディルが異世界との扉を開いてもあなたは元の世界に戻れない」

 元の世界に戻るには青空が聖女になり魔王ハディルを倒す必要がある。

「わたしがハディル様を傷つけるなんて。そんなの無理です。したくありません」


(ああだからか……)


 レイのあの、青空を憎むような眼は。事態は青空が考えるよりもっと深刻だったのだ。


「本当はね、魔王ハディルだって異世界への扉を開くことはできるのよ。だって人間よりもはるかに強い力を継承しているのよ、彼。けれど、たとえ彼が異世界への扉を開いてもあなたは彼を殺さない限りこの世界に留め置かれる」

「嫌! 止めてください」

 殺すなんて、そんな言葉を使わないでほしい。青空は、ハディルと争うことを望んでいない。


「ディーテフローネさんたちは、ハディル様をこ、こ、殺したいの?」

 青空は涙を浮かべる。

「そういうわけでもないわ」

 予想外の答えに青空は「えっ……」と聞き返した。


「もう少し時間があるわ。ちょっと待っておいでなさい」


 ディーテフローネはそう言って立ち上がり部屋から出て行った。青空が待っていると彼女は自らお盆を持ち青空の元へ戻ってきた。机の上に手際よくカップとポットを並べていく。一緒に干した果物の乗った皿もある。


「遠慮しないで飲みなさい」

 青空はディーテフローネが手ずから注いでくれたお茶のカップを手に持つ。よい香りが鼻腔をくすぐる。暖かいお茶が喉を通りお腹に染みわたる。


「いいこと、青空。光があれば闇も生まれる。これはね、必然なの。どちらか一方が勝てばいい話ではない。相反するものが均衡を保って存在する。それが世界の秩序。どちらかが欠けても均衡は崩れるわ」

 ディーテフローネはいつのまにか顔から微笑みを消し去っていた。

「太古の昔光と混沌は争っていた。力は均等だった。だから世界は無に消さなかった。光と混沌はこの世界から旅立ったとされているわ。どこへ行ったのかは知らない。けれど力の一部は残った。それが何を示すかは、もうあなたも知っているわね」

 青空は頷いた。


「その後は光の側の人間と混沌の側の魔族とがそれぞれに戦った。人の数だけ考え方があるもの。そうして長い歴史の中で魔王は三人まで減った。最初は五人いたのよ」

「え、そうだったんですか」

「混沌の力ごと魔王は消えた。二人ね。そして聖なる遺産と呼ばれる五つの力も徐々に力を失っていった。それがいまの世界の状態。均衡を保つには魔王を消してはいけないのよ。黄金族はそのことをちゃーんと知っているの」

 ディーテフローネは青空に向かってウィンクをする。


「ねえ、青空。あなたは元の世界に戻りたい?」

「わたしは……」

「いいのよ。正直に答えて」

 言いよどむ青空にディーテフローネが優しく言い添えた。


「正直言うと……帰りたいです。だって、いきなりこっちの世界に召喚ばれたんです。みんな心配していると思います。家族や友人にだって……会いたい」


 青空は大学からの帰り道に砂糖を買いだめしているときに異世界に召喚された。予期せぬハプニングだった。突然のことで、誰にも何も言ってない。きっと今このときだって両親はとても心配をしているだろう。友人たちだって、もしかしたら青空のことを気にかけているかもしれない。そういうことを考えはじめると駄目だった。


「それは当然の感情よね」

「だけど、だからといってハディル様を倒すなんて……。それに、ハディル様たちとお別れなんて」


 日本に帰って懐かしい人に会いたい。その気持ちも確かにある。それなのに、青空の中にはレギン城で出会った人たちの顔も次々と思い浮かぶ。可愛くてちょっと生意気な双子のルシンとヒルデガルト(彼らは本当は青空よりもずいぶんと年上だけれど、見た目が子供なのでつい年下の感覚で接してしまう)。親切なディーターにヒーラー。

 それから。


(ハディル様……)


「そんな切ない顔しないで。ねえ、青空。ここからは提案よ。わたくしたちはこれ以上魔王を減らしたくはない。減らしてはいけない」

「でも。わたしがこっちの世界でずっと暮らすことになってもまた誰かが異世界から人間を召喚したら」

「異世界召喚の聖術は人間にはとても重労働な術なの。今の神官たちも相当に準備をしてきたでしょうね。だから次に行えるとしてもそれは何十年後とかの話ではないかしら。互いに不干渉を貫いていれば、ほかの国もわざわざ異世界から勇者を召喚しようとは考えないわ」

 魔族との境界を接している国以外では特に、と彼女は続ける。


「青空、大事な話をするわ。そのあとあなたをリュデンシュベルへ戻す」


 ディーテフローネはお茶を口に含んでから、青空に向かってもう一度長い話を聞かせた。

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