第6話 春間マリーと穏やかなとき

「きみね。

 どうしてクラスで、あんなことを言ったの?」


 学校からの帰宅後、何故かいまだに僕に付き纏う転入生の春間マリーに尋ねた。


「んな?

 なんのはなし?

 あんなことってどんなこと?」


 目の前の彼女は可愛らしく小首を傾げる。


「ッ、えっと。

 それは……」


 その仕草にドキリとして、思わず声を詰まらせた。


 彼女はなにが楽しいのか、機嫌の良さそうな表情で、ドギマギする僕の顔を覗き込んできた。


 思わず顔が赤くなってしまう。


 そんな綺麗な顔をこんなに近付けられたら、正直困る。


「ねえ、ねえ、テル。

 なんのお話し?

 ちゃんと最後まで言ってくれないと、分からないよ」


 僕は照れ隠しに、こほんと小さく咳払いをしてから、気持ちを落ち着けた。


「なにって、昼間の話さ。

 きみ、クラスで言っただろ?

 僕のことを、きみの、……か、飼い主だ、なんて……」


 本当になんてことを言いだすのだろう。


 いま思い出しても心臓がドキドキする。


 彼女は「ああ」と肯いて、ポンと手を打った。


「なんだ、そのこと?

 どうしてなにも、私は本当のことを言っただけなのよ。

 テル、私のことを飼ってくれてるじゃない。

 ご飯を食べさせてくれたり、寝床を与えてくれたり。

 私、いっつも幸せなんだから!」


 そう話し切る前に、もう彼女は僕の腕に絡みつき、喉をゴロゴロと鳴らし始めていた。


 なんというか本当に幸せいっぱいという表情だ。


 僕が黙っていると彼女はますます密着してきて、おでこを肩にぐりぐりと押し付け始める。


「……いやご飯とか寝床って。

 それはきみが、強引に家に押しかけて来るから用意してるんであって、僕が好きでそうしてるわけじゃないんだけれど……」


 腕に絡みついた彼女を引き離し、僕は照れ隠しに呆れた顔をしてみせた。


 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


 春間マリー。


 新雪のように白い肌と、人の目を惹きつけて止まない美しさをもった、転入生の少女。


 彼女は昨晩に続けて結局今日も、僕の家に泊まることになった。


 終業のチャイムが鳴り、彼女を中心に賑わい始める放課後の教室を、今日も僕はカバンを掴んで、ひとり足早に立ち去ろうとした。


 けれどもやはりまた、校門付近に差し掛かった頃に、遠くからの声に呼び止められたのだ。


「待って、テル!

 一緒にかえろうよ!」


 振り返ると、彼女が満面の笑みを浮かべていた。


 ◇


 僕はいま、エプロンをして晩ご飯を作っている。


 夕飯のメニューは、海老とキノコのアヒージョ。


 キッチンに立ち、黙々と海老の背わたを抜いていく。


「ね、ね、テル。

 それはなにをしてるの?」


 彼女がすぐ後ろまでやって来て、背中越しに料理をする手元を覗いてきた。


 興味津々な表情で爛々と瞳を輝かせている。


 肩越しに漂ってくる彼女の香りに鼻腔をくすぐられる。


 健康的なお日様の匂いだ。


 でもなんだか、その香りは少しだけ甘い。


 どきりと胸が高鳴るのを隠しつつ、僕は料理する手元に視線を落とした。


「こ、これは海老の背わた抜きだよ。

 今晩はアヒージョを作ろうと思うんだけど、海老はこうやって、ちゃんと処理してやらない。

 そうしないと食べたときにシャリシャリとして、食感が悪くなるんだよ」


「へぇー。

 テルは物知りだよねぇ」


 彼女は料理をする僕の肩に、こてんと頭を乗せた。


 ◇


「さ、どうぞ。

 召し上がれ」


「うわぁ、おいしそうなの!

 頂きまぁす!」


 お腹を空かせた彼女が、早速アヒージョに手を伸ばしてパクっと頬張った。


「あちっ」


「っと、大丈夫?

 油は熱いから注意しないと」


「あつひぃ……。

 わかったー」


 ヒィヒィと舌を出しながら元気よく返事をして、彼女は再びアヒージョに手を伸ばす。


 くるんと丸まって湯気を立てる鮮やかな赤い海老を、箸で器用に摘み上げた。


 ふうふうして、パクッと口に放り込む。


 もぐもぐと口を動かして、蕩けてしまいそうな表情で頰を押さえている。


「んにゃあ……。

 美味しいのー」


 幸せそうに晩ご飯を食べる彼女を一頻り眺めたあと、僕もホカホカと湯気を立てる熱々のアヒージョに手を付ける。


 ……うん。


 おいしい。


 海老もキノコも、ちゃんとプリッとした食感だ。


 海老なんかは煮詰め過ぎると、身がボソボソになっておいしくなくなるのだけれど、今回は上手に作れたようだ。


 味付けもうまくいっている。


 実はこのアヒージョの味付けのベースは、店売りのアヒージョの素だ。


 けれども僕はそこにひと手間加えて、剥きアサリを鍋の底に沈めて炊いた。


 こうすると店売りの簡素な味付けにも貝の良い出汁が加わって、ちょっとお味に深みが出るのだ。


「あ、きみ。

 それはスライスしたニンニクだから、食べない方がいいよ」


「はーい」


 香りづけのニンニクを、直接食べようとした彼女に注意を促す。


 まあ匂いさえ気にしなければ、食べちゃってもおいしいんだけど、女の子だしね。


「あ、あとね。

 このバゲットを、アヒージョのスープに浸してから食べると、おいしいんだ」


「そうなの?

 やってみる!」


 作ったばかりの晩ご飯を、幸せそうに頬張る様子を眺める。


 彼女と食べる夕飯は、いつものひとりで食べる夕飯よりも、なんだかとてもおいしく感じられた。


 ◇


 食後、僕はソファに並んで腰をかけて、テレビを観ていた。


 画面に流れている番組は、日本の津々浦々を訪れる旅番組だ。


 テレビのなかでは芸能人の男女が、旅館の女将さんに給仕されながら、豪華な料理を満喫している。


「ね、ね、テル。

 なに観てるの?」


 春間マリーが、僕の膝に寝そべってきた。


「ちょ、ちょっと。

 そんな、くっ付かないでよ」


 彼女を膝からおろして、ソファの端に寄る。


 ふたりの間に隙間が生まれた。


 彼女はそんな僕の態度に、膨れっ面をする。


「もう、テルったら冷たいのね。

 ちょっとくらい、お膝に乗せてくれてもいいじゃない」


「ちょっとくらいって、きみねぇ……」


 まったくもう、警戒心がないんだから。


 小さく嘆息する。


「あんまりそうやって、男子にベタベタ引っ付くもんじゃないよ。

 僕はそういうの勘違いしないほうだけど、クラスの男子なんかは、ホント直ぐに勘違いするんだからね」


「……うにゃ?

 私、クラスの男の子に、引っ付いたりなんてしないよ?」


「いや、でも実際、こうやって引っ付いて来ているじゃないか、僕に」


 キョトンとする彼女に、呆れた顔を向ける。


「それは、テルだからだよ。

 テルに引っ付いてるとね。

 なんだか私、ぽわぽわってなって、幸せな気持ちになるんだぁ。

 えへへ」


 臆面もなく話しながら、彼女は相好を崩す。


 本当に幸せそうな笑顔だ。


 彼女の態度に赤面して、僕は誤魔化すように顔をテレビに向けた。


 画面は芸能人の旅案内人が、旅館の温泉に浸かるシーンに切り替わっていた。


「あ、広いお風呂なのね。

 そういえば、昨日のお湯は熱かったねぇ」


 ソファに寝そべったまま、彼女がにじり寄ってきた。


 ちょこんと頭を乗せて僕の膝を枕にする。


 でも彼女が急に変なことを言い出したものだから、僕は昨日の彼女の霰ないはだか姿を思い出してしまって、今度は彼女を膝から降ろすのを忘れてしまった。


「……いつか。

 私もテルと一緒に、こういう所に行けたらいいのにな」


 彼女が小さく呟く。


 顔を赤くしてそっぽを向いた僕は、そんな寂しげな呟きを聞き落とした。


 ◇


「今日はちゃんと、こっちのベッドで眠るんだよ」


 春間マリーの手を引いて、母が使っていたベッドまで連れてきた。


「うにゃ?

 うー、私はテルと一緒がいいなぁ」


「……ダ、ダメだよ。

 だって、は、恥ずかしいじゃないか」


「恥ずかしいことなんて、なにもないじゃない!

 ふたりで引っ付いて寝るとね。

 あったかくて、幸せなんだからぁ」


 彼女が柔らかく微笑んだ。


 この少女は本当によく笑顔が似合う。


 真っ直ぐに僕を見つめて微笑む彼女の綺麗な瞳に、僕は吸い込まれてしまいそうになる。


 純真無垢なその瞳を覗き込んでいると、なんだかこちらが間違っているような気持ちが湧いてくる。


 段々とひとりで意固地になっていることが、馬鹿らしくなってしまった。


「ね、テル?

 いつもみたいに一緒に寝よ?」


「…………。

 ……きみの、好きにすると、いいよ」


 顔を背けながら、途切れ途切れにそう応えるのが僕には精いっぱいだった。


 ◇


 背後でもぞもぞと、彼女が動く気配がする。


 結局ふたり一緒に僕のベッドで眠ることになった。


 また彼女に押し切られた形だ。


 僕ってこんなに、押しに弱いタイプだったかな。


 でも不思議と悪い気はしない。


 むしろこんな風に僕を巻き込んで、強引に物事を進めてしまう彼女に、なんだか懐かしさというか、胸が暖かくなるような気持ちを覚える。


 彼女に背を向けて横になった。


 そんな僕の背後から、シーツを擦るさらさらとした音が耳を掠めてくる。


「……ね、テル」


 彼女がこちらを向いて甘えた声だす。


 それでも僕は背中を向けたままだ。


「……どうしたの?」


「ん、と。

 ……ね?

 引っ付いていい?」


 頭が真っ白になってしまう。


 こういうとき、なんて応えればいいのだろう。


 頭の中がぐるぐるしてしまって、考えが纏まらない。


「……好きなように。

 ……すると、いいよ」


 掠れた声でそう応えた。


 背後で、彼女が喜ぶ気配がする。


 彼女はいそいそと体を動かして、背中にピッタリと張り付いてきた。


 背中越しに温かな体温が伝わってくる。


 少し高めの体温だ。


「んにゃあ。

 幸せだぁ」


 彼女はゴロゴロと喉を鳴らす猫みたいで、本当に幸せそうだ。


 そんな様子にどう返せばいいかわからないものだから、遂には僕は言葉を失って押し黙ってしまった。


 ◇


 肩越しに彼女の息遣いが聞こえてくる。


 心臓の鼓動がやけに大きく耳を打つ。


(う、ううぅ……)


 もう正直、いっぱいいっぱいだ。


 彼女は唸る僕の背中にぴとっと密着している。


 まだ眠ろうとはしていない。


「ねえ、テル。

 明日学校は、お休みなのよね?

 テルはなにをして過ごすの?」


「え、えっと明日?

 うん、明日ってなんだっけ!?

 えっと、うん。

 と、特に予定は……」


 僕はもう完全に支離滅裂だ。


「えっと、ど、読書でもしながら、ゆっくりと過ご――」


「あっ!

 そうだ!」


 言葉を遮られる。


 背中の少女が急に大きな声をあげた。


 僕の背中から離れて、体を起こす。


 どうしたのだろう?


 身体を捻って彼女の顔を見上げる。


 そうすると、ウキウキと楽しげな笑顔が飛び込んできた。


「だったら、ねえ、テル!

 明日は私と、街でデートをしようよ!」


 朗らかに微笑む彼女。


 その笑顔に、たとえ断ったとしてもきっと明日はデートをすることになるのだろうと、僕はひっそり少しの期待に胸を弾ませた。

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