書き手としての「共鳴に対する誤解」
どうせ公開するときに時間が記録されていますから、これから前みたいに具体的な時間を書くことをやめます。
はい、いつもどおり、結論から話します。
読者からの見て何を思うかはわかりませんが、書く側からものを書くときに、人認められるように書いてしまうことが多いです。
そんな場合、読者が自分がを書いたものを「共鳴する」といいます。読者自分自身の経験から作者の言葉と全く知識と感情が繋がらない場合の例を言ってみると、外国語や全く読めない外国語の文字のことですね。
だが、私みたいな人であれば、よく斬新な(つまり全然人の見たことのない表現やストーリーなどの)ものが作りたくなりすぎて、「読者の経験から外れた体験」を作品を書いている際に、つねに読者に感じさせたくなります。
この文を読んでいる人に問いかけたいのです。作者同志のみなさんであれば、私みたいにこう考えてしまう人はいますか。
その「斬新」を体験させてみると、読者からのいい反応もあれば、悪い反応もあります。前から作品を作るときの経験を思い返せば、私はよく低評価で批判されたこともかなり多かったです。嫌な思い出にもなって、心の弱い僕なら何度も悩み、涙が出るほど静かに泣いてしまうこともあります。この「悲しい失敗の気持ち」は、私にとってはいい味がするようには思っています。
でも、新作を作るときに、「人にとって新しいもの」と「人が共鳴するもの」はどっちも道具として使うべきだと私は思います。いい作品はね、かなりバランスをとる工夫を何度も作品を書き直すことによって作られるものだと思うのです。
まだ新人であったころの私、つまり初めてネットで「投稿」の行為をして、沢山の顔も名前さえも知らない人に作品を見せるときの私のことですが、よく「人にとって新しいもの」を重んじてしまった。
それがかなり作品のクオリティーにも、読者が理解できる程度にも影響が及びました。いい方にも、悪い方にも。
無論私の場合、それが悪いほうだと思いますが、
それから一度もの書きを止め、反省期に入ったのです。今になって思い返して考えれてみれば、自分がやってしまったことが「人と繋がりたくない、ただ人が理解できないもの」という場面をよく作ってしまいました。
そんなトラップに落ちたのです。「斬新」を夢中に考えると、ときにバランスを失って、人にインパクトを与えて印象深く自分の特徴を覚えさせるよりも、読者との心の距離がむしろ遠くなっていきました。
反省期に分かったことが一つあります。この文章でシェアしようかと思ってこれを書いてみました。
それは斬新でない「人がもう分かっているもの」や「見飽きたもの」はむしろ共感でき、近づきやすいかもしれないということです。
むろん上述のものをとっくに悟った人がいることは承知の上です。それでもこれを知っている人にまだくだらないことを言っているのは変なのかもしれませんが、よく考えればそうでもないんですね。
私がものを書いているときに、一番よく考えていることはいかに自分をどんな状況でも無防備に自分を晒すことができるのかです。言い換えれば、いかに自分の恥を公開して、自分の思想をそんなルールで束縛するかですが。
より分かりやすい別の場面を借りていうと、アスリートが相手にわざと自分の弱点を見せ、相手にそこを攻撃しろと言っていることと同じことになります。
「自分がこういうところが弱いから私にちゃんとそこを高めるために、攻撃してくれ」という意味も含めて、これからも、いつまでも頑張って無防備な自分でやっていきたいと思います。
そんなのは、実は実力の強い先人の作者たちはもはやとっくに悟ったものかもしれません。つまりそんな人に私は無駄話をしているようには見えるかもしれませんね。
そうなのですが、
これを読んで「あれ?私もそうしていいじゃないですか」もしくは「そう言ってしまうと私もやりたくなりました」と思ってしまう人はいませんか。
すぐに現れなくてもいいのですが、ここで考えてみるのです。自分が他人と話すときに、なにか自分にとって「ごく普通」、「どうでもいい程度」のことを言い出し、他人がなぜか意外と「勉強になりました」と言ってくれる場面を経験したことがありますか。
もし以上に「あるよ」と答えた人であれば、一つ大事な事に悟ったと思います。
「勉強になります」というものは新しいものに限りません。むしろ「よく知られているもの」自体が忘れられやすいものとして、また新しいものになってしまうことがあります。斬新なものが必ず全く見られたことのないものだとは限りません。
むしろ見飽きたからこそ、物事を考えるパターンが機械のように自動的になってしまい、心が冷たくなることが多いです。ここでいう「冷たくなる」というのは、感心しなくなり、情熱がでなくなり、好奇心でさもまるで持てないことです。
いかによく知られている「見飽きた」ものを再び好奇心を持たせるか、それも実はいい作品の原料にもなれます。ググってみると日本語でThink outside of the boxという英語の文を訳すと「既存の考えに囚われずに考える 」になりますが、そんな「斬新」の考え方よりも「既存の考えにわざと囚われて考える」というように新しい物作ってもいいと思います。
なんせ、そもそも使っている言語が日本語であれば、日本語の読める人という枠にはすでに囚われているし、自分はそもそも自分でさえ気をつけていないルールに縛られているからです。すでに縛られていれば、むしろその縛りを楽しむことが自分の「敏捷さ」になって、人に「日本語で書いた作品」という縛りで地味な興奮を日本語の読める読者に味わせることができます。
前の私みたいに、ただ既存の考えにとらわれないように考えようと思っていた人がいませんか。
それに基づいて共鳴を作ろうとしている人はいませんか。
そんな共鳴の作り方は、私にとっては「誤解」です。あるいは部分的に正解の「誤解」です。
この文を読んで、この私という名高くもない人の肩に乗って、私より高いレベルで作品を作り、私よりも私が堕ちた「トラップ」の中に堕ちないようになって、この文章を読むことを通して、よりスムーズに作品が書けるようになった気がすると思う人はいませんか。
いればよかったのです。
いなくてもいいが、文章は終わってしまいます。
読者がここまで読んでくれることだけで、いかなる立場になろうと、作者である私からしては、みなさんの注意力をここまで運ぶことができてうれしいです。
だから、読んでくれて、心から感謝の意を申し上げます。
地味なのですが、
本当に、ありがとうございました。
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感想を聞かせてくだされば、私も喜びますよ。
では、また次作で逢いましょう。サンキュー (草)
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