第4話 いざない ④

 二台の特機隊専用車はどこにも寄らず、神宮司邸の正門前に到着した。時刻は午前十一時十五分になろうとしていた。

 細い舗装路の左には稲の育った田んぼが広がり、右には神宮司邸の高い塀が前後に続いていた。道からやや奥まった位置にある門扉に正面を向けて停止した一号車に続き、四号車はその手前の路上で待機する。センサーが一号車を感知し、門扉が自動で開いた。一号車が前進し始めたところで四号車も動き出す――が。

「どうしたんだ?」

 小野田の声を聞いた瑠奈は身を乗り出し、前方を見やった。

 一号車がわずかに後退した。そして再び前進しかけるが、またわずかに後退してしまう。

 四号車のサイドブレーキをかけた恵美が、小野田を見た。

「小野田さん」

「ああ」小野田は頷いた。「行ってみよう」

 そして小野田は振り向き、「瑠奈ちゃんはここで待っているんだ」と告げた。

 小野田と恵美は瑠奈が返事するよりも早く車外へと飛び出し、すぐにドアを閉じた。事態の急転に備えてか、四号車のエンジンはかけたままだ。

 一号車は前進と後退を短い間隔で繰り返していた。もっとも、エンジンはうなっており、前進しても押し返されているといった様子だった。

 小野田と恵美が一号車に向かって走り出したのと同時に、「きゃあああ!」と悲鳴が上がった。若い女の声だ。

 そして次の瞬間、一号車の窓ガラスが四方に吹き飛んだ。四号車のフロントガラスやボンネットに、いくつかのガラスの破片が当たった。

 瑠奈は思わず両目を閉じて片手で顔を覆った。そして静寂に気づき、恐る恐る手を下ろして目を開ければ、幸いにもこちらの車内には影響がなかった。続いて外の様子を窺うと、小野田と恵美が頭をこちらに向けてうつ伏せに倒れていた。瑠奈はすぐに車を降り、ドアも閉めずに二人に駆け寄った。もっとも、声をかけるまでもなく、グレースーツの二人はおもむろに立ち上がる。

「大丈夫ですか?」

 遅ればせながら声をかけると、「おれは大丈夫だ」と返した小野田が、恵美を見た。

「わたしも、平気です」

 言った恵美は、左手で右手を押さえていた。右手の甲を切ったらしい。少量だが鮮血がしたたっている。

「尾崎さん、早く手当を――」

「それより隊長たちを」

 恵美は瑠奈の言葉を遮り、一号車へと向かって急ぎ足で進んだ。それを追う小野田のあとに、瑠奈も続いた。

 一号車はエンジンが止まっているらしく、静まり返っていた。見れば、窓ガラスのすべてが割れている。カーテンシールドエアバッグが展開しているため車内の様子は把握しずらいが、前部座席の双方のエアバッグはすでにしぼんでおり、運転席の池谷と助手席の佐川はうつ伏せの状態である。

 突然、一号車の運転席のドアが開いた。続いて助手席のドアも開く。池谷がカーテンシールドエアバッグを押しのけて運転席からふらふらと降り立ち、助手席から降り立った佐川は感覚を取り戻すかのごとく頭を何度も横に振った。

「大丈夫か?」

 一号車の右横に立った小野田が声をかけると、二人は頷き、それぞれの側から後部座席を覗き込んだ。

「隊長! 仁賀さん!」

 佐川が叫んだ。

 池谷に並んだ小野田や恵美とともに瑠奈も覗き込もうとしたが、小野田によってこじ開けられたドアをよけるために、瑠奈は三歩ほど後ずさりを強いられた。

 転がり出たところを池谷に抱き留められたのは仁賀だった。意識はないらしく、ぐったりとして目を閉じており、額から血を流している。すぐに恵美が反対側に回り、佐川とともに大場を引きずり出した。大場も微動だにしない。仁賀を路上に寝かせると、小野田が再び後部座席を覗いた。そして、その背中が静止する。

「どうなっているんだ」

 小野田の啞然とした声を聞いて、ようやく瑠奈は一号車に近づいた。そして、カーテンシールドエアバッグを片手で押し上げる小野田に並んで後部座席を覗き、目を剝く。

 そこに梨夢の姿はなかった。床に彼女のものとおぼしきリュックが置いてあるだけだった。

 ほんのわずかだが、甘い香りが漂っていた。


 大場と仁賀は意識のないまま、小野田と恵美によって、輝世会にかかわる総合病院へと搬送された。総合病院に向かった四号車と入れ替わりに駆けつけた処理班が現場鑑識を担っており、午後一時を過ぎた今でも、正門前では灰色の作業着姿の五人が作業に従事している。小野田と恵美は十分ほど前に帰還したが、泰輝は未だに帰ってこない。

 瑠奈は第一別宅の応接室のソファで蒼依と向き合っていた。

 事件の成り行きを瑠奈から聞き終えた蒼依は、気鬱げな表情で視線を落とした。

「本郷さん、どうなっちゃったんだろう?」

「無事だといいんだけれど」瑠奈は膝の上で左右のこぶしを握りしめた。「大場さんや仁賀さんのことも気になるし、あの男の子も心配だよ」

「男の子の処置、うまくいくのかな?」

 尋ねられ、瑠奈は首を傾げる。

「わからないけれど、失敗する確率のほうが低いみたい」

「目の前で自分のお父さんが食い殺されてしまったから、そんな忌まわしい記憶を消せるのなら、処置も仕方ないかもしれないね」

 言って蒼依は、顔を上げた。切なげに目を細める蒼依だが、彼女の言葉は小野田の言葉を彷彿とさせた。

「蒼依はそれで納得できるんだね」

 瑠奈は自分の言葉に険を感じた。現に蒼依はおびえるように肩をすくめている。

「え? どういうこと?」

「人の記憶を勝手に消したり改竄したり、それって倫理にもとるよ」

「だって自分の父親が食い殺された記憶を消してもらえるんだよ。あたしだって、自分のお父さんが殺された記憶を消してもらいたいくらいだし」

 泣きそうな顔で訴えられるが、瑠奈に引く気はなかった。

「自分のお父さんが殺された記憶を消してもらって、お父さんはどこかで生きている、っていう虚偽を刷り込まれるのが、いいの?」

「それは……」

 蒼依は涙ぐんでいた。これ以上はいけない――そう悟りつつも、瑠奈の意気は鎮まらなかった。

「まさか、特機隊に入りたいから、処置だなんていう愚劣な行為を認めているわけ?」

 蒼依の頬を涙がこぼれ落ちた瞬間に、ドアがノックされた。

瑠奈が「はい」と答えるのと蒼依が涙をぬぐうのは同時だった。

 ドアを開けて顔を見せたのは恵美だった。

「あら」恵美は瑠奈と蒼依を交互に見た。「お邪魔だったかしら?」

 剣呑な雰囲気を悟ったらしい。

 しかし以外にも、蒼依は「かまいません。どうぞ」と返す。もっとも涙声は隠せない。

「そう? じゃあ、入らせてもらうわね」

 恵美は室内に足を踏み入れると、ドアを閉じ、蒼依の隣に座った。恵美の右手には包帯が巻かれている。ガラスの破片で切った傷だが、痛みはわずかに残ったものの出血は止まった、とすでに聞かされていた。

 自分で招き入れておきながら、蒼依はうつむいていた。居心地の悪さを感じたが、瑠奈は恵美に顔を向ける。

「大場さんたちは大丈夫なんですか?」

「その前に」恵美は毅然とした表情で瑠奈を見た。「声を荒らげて蒼依さんに詰め寄るのは、やめなさい」

「あの……でも……」

 言い訳はいくらでもできるだろう。だが、恵美の言うとおりなのだ。自分の正当性は認めつつも、行きすぎた糾弾を止めてもらえて、瑠奈は感謝していた。

「尾崎さん」蒼依が顔を上げた。「いいんです。瑠奈はあたしのことを心配してくれているんです。あたしの抱える問題にちゃんと向き合ってくれているんです。だから……」

 声を詰まらせた蒼依が唇を嚙み締めた。

「わかっている。あなたたちのこと、理解していないわけじゃないから」

 蒼依に答えつつも、恵美の目は瑠奈に向けられていた。

 返す言葉が見つからず、瑠奈は目を逸らすしかなかった。

「ところで、わたしの話、いいかしら?」

 恵美に問われて瑠奈は促す。

「はい」

「まず、大場隊長と仁賀さんの容態だけど、病院からの連絡では、未だに二人とも意識不明のままよ。大場隊長は頭蓋骨骨折のほか、複数の打撲や裂傷があるわ。仁賀さんは頭部や全身に打撲や裂傷がある」

「意識不明のまま……」

 瑠奈は自分の声が震えていることに気づいた。見れば、蒼依も沈痛をあらわにし、テーブルを見つめている。

「何が起きたのかはまだわからない」恵美は続けた。「本郷梨夢さんの行方もわからないままよ。ついでに言うと、本郷さんの叔母である立花彩愛さんもどこにいるのかわからないの」

 まるで瑠奈にその叔母の居場所を尋ねるかのようなまなざしだった。無論、知る由もなく、瑠奈は話を合わせる。

「本郷さんのおばさんって、どこかに勤めているんですか?」

「立花さんは神津山市役所坂萩支所の職員よ。わたしが支所に電話して、いろいろと理由を作って問い合わせてみたら、今日のお昼に早退した、と伝えられたわ。確認のために自宅の様子を見に行ったんだけど、不在だった。彼女は徒歩で通勤していたらしいけど、彼女の車が自宅にないの。自分の車でどこかに出かけたみたいね」

「そうだったんですか」

 この事件に合わせたかのごとく行方をくらますなど、瑠奈でさえ不審に感じた。とはいえ、本郷梨夢の叔母との面識はない。不審を抱いたところで、憶測の域を出ないのではどうしようもない。

 ふと、梨夢の所持品が残されていたことを思い出し、瑠奈は問う。

「本郷さんのリュックがありましたが、何か手がかりは見つからなかったんですか?」

「彼女のリュックも調べたわ。でも今のところ有力な手がかりはないわね。リュックの中にあったスマホのロックを解除して、履歴などの情報を確認したけど……」

 恵美によると、梨夢のスマートフォンの通話記録やメールアプリ、メッセージアプリにも、目立った情報はなかったという。加えて、彼女が連絡のやり取りをしていた最近の相手は、立花彩愛だけだったらしい。

「ただね」恵美は言った。「本郷さんが一人であの場所にやってきたことは判明したわ」

「じゃあ、あの親子は?」

 瑠奈は問うた。

「身元は判明したけど、本郷さんとの関係はまだつかめていない。神津山市内に在住の親子であるのは確かね。はっきりしているのは、本郷さんはあの男性の車ではなく、バスで小能に行ったということよ。バスの防犯カメラにバスに乗車している彼女の姿が映っていたの」

「そうでしたか」

 梨夢が一人であの山林に出向いたことはわかったが、本人がいないのではその理由がわからない。だが幼生が潜んでいたことが無関係であるとは思えなかった。無駄とは思いつつ、帰りの車内で話題になったそれを恵美にぶつけてみると、案の定、彼女は首を傾げた。

「見鬼の可能性がある。わたしに言えるのはそれだけね。それから……」

 言いさした恵美を瑠奈は「それから?」と促す。重要なことであるのは、恵美の表情から窺えた。

「佐川さんと池谷さんの報告によれば、正門から中に入ろうとした一号車は、どんなにアクセルを踏んでも前に進めなかったらしいの。見えない何かによって押し返されたような感じだったとか」

 瑠奈も蒼依も目を見開いて恵美を見つめた。所見の出しようがない。

「そうしているうちに」恵美は続けた。「突然、意識を失っていた本郷さんが叫んだの。そして車内に甘い香りが漂ったと思ったら、何かが爆発した。本郷梨夢さんがどの時点でいかにして姿を消したのかは、佐川さんにも池谷さんにもわからない。ただ、本郷さんが叫んだあとの甘い香りが漂った瞬間に、大場隊長が、エンジンを切れ、と指示したそうよ。池谷さんがすぐに指示に従ったおかげで、爆発のあとに四号車が暴走することはなかった、というわけ」

 さらに恵美は、シフトがドライブの状態のオートマ車はエンジンを切らなければアクセルを踏まなくても前進する、という解説を付け加えた。大場のとっさの判断が被害を拡大させなかった可能性があるわけだ。

 そんな事情を知って、瑠奈はなおのこと大場の厄難に胸を痛めた。同時に、四号車の中に甘い香りが漂ったことが、どうにも気になった。

「確かに、甘い香りはしていました。ほんのわずか……数十秒程度でしたが」

 何の香りだったのか、瑠奈は思いつかないが、恵美は何やら悟った様子で口を開く。

「そうだ……あれは葛の香りだわ」

「葛って、花の?」と尋ねたのは蒼依だった。

「ええ、葛の花よ」

 恵美は答えた。

「どうして葛の花の香りが?」

 答えなど出せるわけがないのは承知のうえで、瑠奈は問うた。

「泰輝くんも体臭をバニラの香りに変えたじゃない。同じことのできる幼生がいるのかもしれないわ」

 恵美のその言葉は瑠奈を震撼させた。

「じゃあ、本郷さんは幼生に――」

 食われたのか連れ去られたのか、さすがにそれは口にできなかった。

「瑠奈はそのときに幼生を見ていなかったんでしょう?」

 蒼依が瑠奈に尋ねた。

「見ていなかったけれど、幼生が関与していなかった、とは断言できないよ。でも……もしかしたら、泰輝が追いかけていったあの幼生が、本郷さんを狙ってここまでやってきたのかもしれない」

「あの幼生は悪臭を放っていたわ」

 恵美の一言で、瑠奈の私見は無意味となった。

「それに」恵美は言う。「あの幼生が来ていたなら、それを追いかけていた泰輝くんだってあの現場にいたはず」

 私見が無意味になるどころの問題ではない。それは瑠奈が最も認めたくない成り行きを脳裏に描いてしまう。

「ちょっと待ってください」蒼依が声を上げた。「本郷さんがその幼生にさらわれたとしたら、たいくんはそこに来ていなかったんだし、じゃあ、たいくんに何かあったということじゃないですか」

「だから、山林にいた幼生じゃないのよ。蒼依ちゃん、安心しなさい」

 恵美に諭された蒼依は、得心のいったような様子ではなかったが、それでも静かに頷き、口を閉ざした。

「泰輝の情報は、まだ、なんですよね?」

「ええ、まだ何も」

 瑠奈の問いに対する答えは、それだけだった。

 いずれにしても、泰輝が追った幼生はあの場所に来ていない。そのはずだ。泰輝は無事である。

 瑠奈はそう信じた。


 ごわごわした感触が、汗ばんだ背中にあった。目にしているのは青空だ。日差しがまぶしい。セミのかまびすしい鳴き声が無数に重なっている。

 束の間、甘い香りがした。意図的に鼻で息を吸ってみるが、気のせいだったのか、青臭さが漂っているだけだった。

 脱力しきった体に力を入れ、ようやく半身を起こした。そして自分が草地に仰向けになっていたことを知る。

 周囲には雑木林があった。右を見れば雑木林の切れ目の先に田んぼがあり、その先は街並みが小さく見える。

 ここがどこなのか、どうして自分がここにいるのか、わからなかった。

 何かされたのかもしれない――そう思っておもむろに立ち上がり、見下ろして確認したが、出がけに着替えた服装に乱れはなかった。そう、自分はこのTシャツとジーンズに着替えて小能へと向かったのだ。

 梨夢は思い出した。雑木林で親子と出会ったことや、半透明の巨人が現れたことを。男が巨人に食われてしまう光景が脳裏に蘇り、身をすくめつつも、神宮司瑠奈やスーツ姿の一団が現れたことも思い出す。スーツ姿の一団は梨夢のことを知っていた。あとのことは、よく覚えていない。

「なんなのよ」

 わけがわからず、うつむき、右手で額を押さえた。わけがわからないのは今回ばかりではない。終業式の帰り道に悪寒を感じたのを皮切りに、不可思議なことが何度も身に降りかかっている。

 全裸の少年が白い怪物に変身したことを思い出した。

 ――あれだ!

 終業式の帰り道に漂っていたのはバニラのにおいだ。雑木林で少年が怪物に変死した直後に漂ったのも同じにおいである。ならば先ほどの甘い香りもそれなのかもしれない。近くにいる可能性はある。自分の気配を抑えるべく息を凝らし、周囲を見回した。

 不意に寒気を覚えた。精神状態から来る生理現象ではない。この猛暑の中で空気が冷たいのである。

 いつの間に現れたのか、梨夢から二十メートル以上は距離を隔てた正面に、異様な物体があった。直径二メートルほどの球体だ。表面が虹色のマーブル模様に覆われ、よく見れば草地に置かれているのではなく、三十センチほどの高さに浮いていた。

 目をしばたたきし、固唾を吞んだ。怪異に遭遇するのはこりごりである。右に見える雑木林の切れ目から街並みへと脱出するべく、梨夢は走り出そうとした――そのとき。

 球体の梨夢に向いた面からから一人の人間が現れた。球体の表面を突き破ったのではなく、「突き抜けた」という表現が好適な、まるで濃い日陰から出てきたかのような情景だった。ゆっくりと蠢いている虹色のマーブル模様に乱れた様子はない。

 必然的に、現れた人物は三十センチほどの高さから雑草の上に飛び降りた。軽い身のこなしだった。虹色の球体を背にして立つのは、女だった。彼女の服装や容姿に、梨夢は見覚えがあった。

「みーつけた」

 白いワンピースを身に着けた女が笑顔で言った。声で確認するまでもない。視力の上がった梨夢には、二十メートルも離れた位置の彼女の顔が手に取るように見えるのだ。その女は、立花彩愛だった。

 逃げるべきなのかとどまるべきなのか、判断がつかなかった。信用すべき人物が怪異のまっただ中にいるのだ。

 彩愛が梨夢に向かって歩き出した。笑顔を絶やすことなく、ゆっくりと確実に近づいてくる。

 逃げるもとどまるも選択するどころではなかった。ほんの一歩だけ後ずさろうとしたが、体が硬直しており、それさえかなわない。全身が震えていた。

「何を怖がっているのよ? まさかわたしの顔を忘れたんじゃない?」

 いつもの優しい声だ。彩愛に違いないのだ。なのに、体の震えは止まらない。

 白いワンピースが日差しを反射してまぶしかった。ワンピースに合わせたのだろう白いフラットシューズが、哀れにも土で汚れている。

「何も恐れることはないわ」歩きながら彩愛は言った。「あなたは誰よりも強いんだもの。それをあなたは、もう思い出せるはず」

「おばさんの言っていること、よくわからないよ」

 震えながら、梨夢は首を横に振った。

「すぐにわかるわ」そして彩愛は、梨夢の目の前で立ち止まった。「あなたは力を発揮した。思い出すときがきたのよ」

「力を発揮した……って、どういうことなの?」

「あなたのお姉さんが、あなたが力を発揮したことを感じたのよ」

 言って彩愛は、愛おしそうに目を細めた。

「わたしにお姉さんなんていないよ」

 これまでに起きた怪異が信じられないものばかりなら、彩愛の言っている内容も理解しがたいことばかりだ。何も認めたくない。梨夢は首を横に振った。

「あなたのお姉さんはとても強いわ。でもあなたは、そのお姉さんよりずっと強いの。頼もしいわ」

 彩愛は右手で梨夢の顎をつまみ、わずかに上に向けた。

 冷気が勢いを増していた。夏の暑さを恋しく感じてしまう。

「何も恐れることはない」

 甘い声で囁いた彩愛が、梨夢にそっと口づけをした。

 彩愛は目を閉じたが、梨夢は驚愕のあまり目を開いたままだった。異性に心を惹かれたことは何度かあったが、交際の経験がなければ唇を重ねたたことなど一度もなく、どうしてよいのか、わからない。

 彩愛の唇が離れた。肌寒さは続いているが、体の中が異様に熱い。全身の力が抜けそうになった。立っているだけで精一杯である。

 自分の中で何かが弾けたような気がした。これまでの人生の記憶に、別の歴史が流れ込んでくる。茫漠としており委細などつかみきれないが、一つだけ、確信できることがあった。

「わたしは、お父さんとお母さんの本当の子供じゃない」

 梨夢は自分の言葉に吃驚した。そんなはずがない、と自分の心に訴えるが、それを覆すほどの確信だった。もっとも、裏づけるものは何もない。

「ね、思い出してきたでしょう」

 笑顔のまま、彩愛は一歩、あとずさった。

 記憶の蘇生ははたして好機となるのか、それともさらなる災禍を招くのか、梨夢には予想ができなかった。

 急に湧いた疑問を、梨夢は尋ねてみる。

「お父さんとお母さんが本当の親じゃないのなら、おばさんだって、わたしの親族じゃないっていうことなの?」

「そうよ」

 彩愛は頷いた。笑顔は崩していない。

「おばさんは、誰なの?」

「あなたにとって必要な人間よ」

 そう答えられても理解できず、梨夢は眉を寄せた。

「そして」彩愛は続ける。「わたしにもあなたが必要なの」

「わかるように言ってよ」

 ついに声までが震えてしまった。むしろ穏やかでいられるほうが尋常でないだろう。笑顔を絶やさない彩愛が人間以外の何かに思えてしまい、彼女の背後にとどまっている虹色の球体に、梨夢は嫌悪のまなざしを向けた。

「あれは何?」

 梨夢に問われた彩愛は、背後を振り向くことなく口を開く。

「あれも、わたしたちに必要なものよ。あなたなら使いこなせるはずだけど、今はまだ早いかしらね」

 そして彩愛は右手で指を鳴らした。

 何が始まるのか予想もできずにたたずんでいると、不意に異臭が鼻腔に入り込んだ。糞尿のにおいだ。不快極まりない空気にさらされたまま、梨夢は震えながら固まっているしかなかった。

「さあ、行きましょう」

 彩愛が促すと同時に、虹色の球体から無数の灰色の何かが躍り出た。

 太くて長いそれらがのたくりながら伸び続け、梨夢と彩愛を包み込んだ。

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