第3話 水妖 ②
韮潟漁港から南へ二キロほど南下した国道6号沿いに、目的のディスカウントショップはあった。百代以上は入りそうな駐車場は、半分以上が埋まっている。彩愛のコンパクトカーはその駐車場の奥に停められていた。購入品の詰まったマイバッグをそれぞれ二つずつ持ち、梨夢と彩愛はコンパクトカーへと戻った。
すべての荷物が後部座席に収まると、彩愛は運転席のドアを開けた。
「さあ、帰ろうか」
「うん」
返事をした梨夢は、先ほどの衝撃を想起し、ほんの数秒、小さく身を震わせた。
「どうしたの?」
問われた梨夢は、「なんでもない」と答えて首を横に振り、助手席に乗り込んだ。
続いて運転席に着いた彩愛は、ドアを閉じるなり梨夢に顔を覗き込む。
「隠しっこはなしにしようよ」彩愛は言った。「わたしなんかじゃ母親代わりは無理だ、ってわかってはいるんだけど」
神妙な面持ちだった。この人は本気で心配してくれている――そう感じた梨夢は、うつむき、そして顔を上げ、彩愛を見つめ返した。
「今のわたしにとって、ちゃんと話ができるのはおばさんだけなんだよ」
「本当?」
ハンドルに両手を預けたまま、彩愛は首を傾げた。
「本当だよ」
梨夢が偽りのない言葉を口にすると、彩愛はその体勢のまま笑みを浮かべた。
「ちょっとだけ安心した」そして彩愛は、上体を起こす。「なら、無理に言わなくてもいい。でもどうしようもなくなったときは、打ち明けてね」
そう諭され、梨夢は頷いた。そして思う。頼れるのが彩愛だけならば、彼女にすべてを打ち明けるのが筋なのではないか――と。
梨夢が助手席のドアを閉じてシートベルトを締めると、彩愛は車を発進させた。
広い駐車場を眺めながら梨夢は苦慮するが、駐車場から国道を南方面へと出て車速が上がる頃には、どうにか気持ちが固まっていた。今なら話せるだろう。
「わたしの話、ちゃんと聞いてくれる?」
梨夢は彩愛に声をかけた。
「もちろん、ちゃんと聞くわよ」
進行方向を向いたまま、彩愛は断言した。
「じゃあ、わたし、今から言う」
そして軽く深呼吸をし、梨夢は話を始めた。
終業式の日の帰路で神宮司瑠奈と空閑蒼依に声をかけられたときに感じた悪寒と、帰宅後、二人が尋ねてきたときに見えた半透明の何か。韮潟漁港で感じた脳への衝撃。さらには、神宮司瑠奈から受けた警告まで、それらを事細かく彩愛に説いた。唯一、瑠奈からメモを渡された件だけは、ふれないでおいた。
神妙な趣でハンドルを握る彩愛は、梨夢の話が済んでからも、正面を向いたまま黙していた。どのような反応を見せるのか、梨夢は身の縮む思いでちらちらと横目で彩愛を見ていたが、二、三分ほどして、彩愛が口を開いた。
「神宮司さんと空閑さんって、梨夢と仲よしなわけじゃないんだね?」
「うん」
仲よしがいないのは彩愛も承知しているはずだ。どうやら確認を取っているらしい。
「仲よしでもないのに、梨夢が感じたことや見たことを誰にも言ってはいけない、その二人はそう言った。なんだか腑に落ちないわよね」彩愛はわずかに眉を寄せた。「それより、梨夢の感じたことや見てしまった何かが問題よ。そんな不可思議な体験って、過去にもあったの?」
「なかったよ。今回が初めて」
「神宮司さんと空閑さんが梨夢にいたずらした、っていう可能性は? なんらかのトリックとか」
「トリックかどうかはわからないけど、韮潟漁港ではおばさんと二人きりだった。あの二人はいなかったし」
「それもそうね」彩愛は首肯した。「なら本当に、常軌を逸した何かが起こっている、とか?」
「そうかもしれない」
認めたくはないが、ほかに考えようがなかった。生理的な悪寒を与えたり半透明の化け物を間近で見せるなど、女子高生の仕業にしては難易度が高すぎるだろう。しかも、交友関係にないあの二人ではあっても、いたずらをするような人間でないのは梨夢でさえ認めざるをえないのだ。
「神津山の都市伝説かもしれない」
梨夢が言うと、彩愛は一瞬、肩をふるわせた。
「まさか」
そうつぶやく彩愛を、梨夢は見た。
「おばさんも知っているでしょう? 妖怪とか神隠しだよ。おばさんが、昨日、言っていたじゃん。神津山市で失踪事件が続いているって。神隠しが失踪事件として実際に起きているのなら、妖怪の目撃例だって本当なのかもしれない。目撃されたのが本物の妖怪ではなかったとしても、突然変異の生き物という可能性だって考えられるし」
「飛躍しすぎじゃないの」と彩愛は静かに反論した。
「だって、トリックとかいたずらなんかじゃないもの。なら、どうして神津山市で失踪事件が続いているの?」
「それは……」彩愛は言う。「なんらかの犯罪じゃないか、っていう説が、今では有力でしょう。神隠しという都市伝説を否定するほうが多いわ」
「だったら、たぶん……お父さんとお母さんは何らかの事件に巻き込まれたんだよ」
「わたしはそんなつもりで言ったんじゃ――」
言いさした彩愛は、顔をこわばらせたまま正面を見続けている。
「お父さんとお母さんの失踪、神隠しより拉致事件としたほうが現実っぽいよ」
梨夢がそう言うと、彩愛は首を横に振った。
「そんな恐ろしいこと、言わないで」
「だって、おばさんが言ったんだよ。神津山の失踪はなんらかの犯罪じゃないか、って」
固執しすぎたかもしれない。口を閉ざした梨夢は、己の軽率さを悔いた。彩愛は言葉を失っている。時間を置かずに謝罪するべきだろう。
「おばさん、わたし――」
「梨夢」彩愛が梨夢の言葉を遮った。「あなたの言うとおりかもしれない。いえ、わたしが口にしたことよね。なんらかの犯罪……大きな犯罪が今この瞬間にも神津山市のどこかで起きていて、それを誰かが隠蔽している」
「隠蔽?」
何を言っているのか把握できずに梨夢が問い返すと、彩愛は頷いた。
「職場の仲間から聞いたことがあるの。大きな犯罪グループが神津山市に潜伏していて、臓器密売のために人を拉致しているって」
言って彩愛は、暗澹とした様相を呈した。
「じゃあ、お父さんとお母さんは……」
声が震えてしまった。彩愛の話から想起できるのは、絶望だけである。
疑念はさらに膨らんだ。二カ月前に起きた事件――野村美羅とその仲間たちの失踪もあるのだ。五人の若者が廃墟探検に出向いたまま忽然と姿を消した、あの事件だ。彼らの行方は依然として謎のままだが、噂によると空閑蒼依が関与していなかったことは警察の捜査で立証されたらしい。空閑蒼依だけがその事件にかかわっていなかったことに違和感は否めないが、いずれにしても、神津山市で発生している失踪事件の多くと同じく、世間からは忘れかけられている。
「こんな話、もうよしましょう」
彩愛は言うが、今さらそれを受け入れられるわけがない。
「まだ話の途中だよ。隠蔽って誰がしているの?」
「隠蔽は……」彩愛の声音は弱かった。「捜査に当たっている警察の特殊部隊という噂よ。そう……噂なの。だから大きな犯罪とか、臓器密売なんていうのも、ただの噂。真相はまだわからないわ」
「そういえば、ネット上の神津山の都市伝説もすぐに削除されてしまうとか、聞いたことがある。おばさんの言っていること、噂から伝わってきたことかもしれないけど、当たっているんじゃないかな」
「だから、それはまだわからないのよ」
「何かが起きていることは、認めなくちゃいけない」
言いきったが、振り出しに戻っただけだった。すなわち、真相は依然として不明である、ということだ。
「そういえば」彩愛が口を開いた。「神宮司さんも梨夢と同じように感じることができるんだったわね?」
「そう言っていた」
梨夢は首肯した。
「半透明の何かも見えているみたいだったのよね?」
「うん」
「通常の人が持ち合わせない特殊な能力を、梨夢と神宮司さんは持っている。そういうことよね?」
「そう……だね」と答えた梨夢は、この期に及んで重大な事実を意識した。「神宮司さんとわたしは、普通の人たちが持っていない能力を……特殊な能力を持っている……」
不可思議な現象は己の特殊な能力によるもの、という可能性が考えられるわけだ。神隠しとされている失踪事件、妖怪とされる何か、犯罪グループの存在――これらと、自分が持ち合わせているかもしれない不可解な能力は、はたしてかかわりがあるのだろうか。
不穏な空気を払拭できないまま、車内に沈黙が訪れた。
コンパクトカーは一路、南へと向かっていた。
佐川と交代して二時間の立哨から上がった小野田は、敷地の東側での立哨から上がった越田と分駐所の玄関前で行き会った。
「お疲れ様です」
先に声をかけてきたのは越田だった。
「お疲れ。やっとエアコンの世話にありつけるな」
弛緩した気分を隠すことなく小野田は言うと、越田の前に立って玄関ドアを開けようとした。玄関ドアが開いたのは、小野田がドアノブにふれる前だった。
「おっと」
声を漏らして小野田が身を引くと、恵美が玄関から出てきた。
「小野田さん、越田さん……ちょうどよかった」
閉じたドアを背にして、恵美は二人の男を交互に見た。
「なんというか、よくない話があるような気がするが」
懐疑を口にし、小野田は眉を寄せた。
「出動です。お二人ともこのままガレージへ」
沈着な態度で恵美は言った。
「尾崎さん」
その声に小野田が本宅のほうを振り向くと、西日を背にして、真紀が瑠奈と泰輝を伴って歩いてくるところだった。
「会長、よろしいのですか?」
そう尋ねた恵美が、小野田の前に立って真紀たちを迎えた。
「ええ。子供たちをよろしくお願いします」
恵美の正面で立ち止まった真紀が、自分の横に控える瑠奈と泰輝を見ながら言った。
「尾崎」
説明を求めるつもりで、小野田は恵美の背中に声をかけた。
「車の中で話します」
横顔を向けた恵美は、そう答えた。
グレースーツの男たちが分駐所から出てきたのは、その直後だった。大場と松崎、池谷の三人である。松崎は三十代半ばであり、池谷は二十代前半で恵美より年下だ。
「全員が揃ったな」大場は言うと、真紀に顔を向けた。「会長、お子さんたちをお借りします」
「はい」
引き締まった面持ちで、真紀は頷いた。
恵美の運転する四号車は松崎の運転する一号車を従えて神宮司邸を出発した。正門から左手に向かい、住宅地から田園地帯を抜けて幹線道路を東へと向かう。そして国道6号に乗り、二台は揃って北へと進路を取った。車の量は多いが、流れは悪くない。加えて信号機のタイミングを操作しているらしく、出発して以来、今のところ、一時停止の箇所以外で停止していない。
泰輝が気にしている方角は北東だ。とはいえ具体的な位置を尋ねても首を傾げるばかりでらちが明かず、移動しながらの確認が必要となった。
四号車の助手席には小野田が着いていた。瑠奈はその後ろであり、泰輝は運転席の後ろだ。
小野田への説明は瑠奈が担った。ことにかかわる実態は恵美のほうが精通しているはずだが、問題の発端となる現場に居合わせたのは瑠奈なのだ。
「……それで、コンビニまで行ってお菓子などを買ったまではよかったんですが、帰り道の途中で、泰輝がぐずり始めたんです」
瑠奈は言うと、隣に座る泰輝に顔を向けた。今の彼は落ち着いており、瑠奈の話に反応を示すことなく、後方に流れていく景色を見ている。
「つまり、東のほうが気になる様子だったということか?」
小野田は正面に顔を向けたまま問うた。
「というか、はっきりと言ったんです。気持ちの悪い何かが近づいてくる、って」
そう答え、瑠奈は泰輝越しにドアガラスの外――東の方角を見た。田んぼの向こうに松林がある。その先に広がっているはずの太平洋は、垣間見ることさえできない。
「お友達、ではないんだったよな?」
小野田の問いが重ねて続いた。
「はい」と首肯し、瑠奈は進行方向に顔を向ける。「純血の幼生でもなくハイブリッド幼生でもない、ほかの何かのようです」
「幼生ではない何か……か。尾崎に心当たりはあるのか?」
などと話を振られた恵美が、正面を向いたまま肩をすくめる。
「幼生以外なら、数えきれないほどの心当たりがあります」
「まあ、そりゃそうだな」
傍目に見ても、小野田は恵美にやり込められている。確認したいこともあり、瑠奈は助け船を出すことにした。
「お母さんから聞いたんですけれど、小野田さんは幼生以外の怪物に遭遇したことがあるんですよね?」
「ああ。警視庁にいたときだったが」
「その怪物という可能性は?」
瑠奈が続けて尋ねると、小野田は首をひねった。
「どうかな。あれも邪神の眷属らしいが、幼生ともまた違う。そもそもその邪神というのが、幼生の親たる蕃神とは異なる存在なんだそうだ。いずれにしても、あのときの怪物が今回の謎の存在に該当するかというと……」
煮えきらない回答だった。表情は窺えないが、おそらく小野田は忸怩たる思いでいるのだろう。藪蛇になってしまったと瑠奈は悟った。
「すみません。余計なことを訊いてしまったみたいで」
詫びて、瑠奈は肩を落とした。
「かまわないさ。そいつの可能性もなくはないんだ」
固持しない様子で小野田は言った。
「それにしても」恵美が続けた。「隼人さんくらいの能力の見鬼なら、神宮司邸からでもその気配を感じることはできたのかしら? 瑠奈さんはどう思う?」
「仮にそれが幼生だとして……たとえ隼人さんのようなレベルの高い見鬼でも、遠方に存在する幼生の気配を感じ取るのは難儀だと思います」
瑠奈は答えた。
「つまり、どんなに能力の高い見鬼であっても実際に目にして確認しなければならない、ということね」
まとめるかのごとく、恵美は告げた。割りきったというよりは、はなから抱いていた意見だったようだ。
会話が途絶えた。恵美のその意見が出れば、至極当然の成り行きだろう。
ふと思い出し、瑠奈は泰輝に尋ねる。
「方角は? もっと北なの?」
「うん」瑠奈に顔を向け、泰輝は頷いた。そして進行方向を見る。「もっと、あっち。まだまだだよ」
「そう」
瑠奈が頷くと、泰輝は再びドアガラスの外を眺め始めた。
話題を見失った瑠奈は、うつむき、目を閉じた。
コンビニエンスストアからの帰路で泰輝がぐずると、蒼依は息を吞んで足を止めてしまった。「気持ちの悪い何かが近づいてくるよ」と泰輝が繰り返し訴える様子が、あまりに異様だったようだ。蒼依が今回の出動に同行を希望したとしても瑠奈はもちろんほかの誰もが認めなかったはずだが、蒼依自らが率先して第一別宅に引きこもってしまった。精神的な負荷がかかったのは疑う余地もない。帰宅したらすぐにでも声をかけるべきだろう。
国道6号を五キロ以上は走っただろうか。不意に泰輝が左前方を指さした。
「あっち」
「この先、左のようです」
瑠奈は前部座席の二人に取り次いだ。
「尾崎」小野田は言った。「橋を渡ったら左折しよう」
頷いた恵美が、橋を渡りきった交差点で四号車を左折させた。
瑠奈が振り向くと、一号車があとについてきた。その助手席には越田の顔が窺える。スマートフォンを左耳に当てる彼は、管制室とのやり取りを担当しているらしい。
国道から外れた二台は、神津山駅を中心とした
「気持ち悪いのが、どんどん向こうに行っちゃうよ」
進行方向を見据えたまま、泰輝は言った。
「移動しているのか?」
小野田が驚愕の声を漏らした。
「もしかすると、海から来て大北方川を遡上しているのかもしれません」
そんな意見を提示した恵美に、小野田は顔を向ける。
「鮭じゃあるまいし」
「それを確かめるんです」
静かにたしなめられ、小野田は黙して前に顔を向けた。
気持ち悪い何か――今もって謎のそれが泰輝にとって心地よい存在でないことは明白である。深刻な事態に陥らないことを、瑠奈は願うばかりだった。
帰宅してからも梨夢は落ち着けなかった。むしろあの感覚がよみがえりつつある。気のせいではない。じわじわと迫り来る何か――得体の知れない何かを、どうしても感じてしまうのだ。その何かは、終業式の日の下校途中に感じた正体不明の何かとは異なる存在らしい。半透明の少年のような存在とも違う。もっとも、韮潟漁港で感じた脳を揺さぶるようなあの衝撃はなかった。
帰宅してすぐ、梨夢は二階の自室にこもった。彩愛は一階の自室でテレビを見ているようだ。バラエティー番組らしき音声が、かすかに聞こえてくる。一階から届くテレビのその音が、梨夢の理性をかろうじて現実の世界に繫ぎ止めていた。彩愛が近くにいる証しでもある。
ベッドの端に腰を下ろしたまま、梨夢はため息をついた。脳を揺さぶるような衝撃はなくても、得体の知れない何かの気配を感じ取るのは、決して心地よくはない。さらに、衝撃を感じなくなったこと自体も、ある意味、憂慮すべきだろう。こんな感覚に順応しつつあるのではないか、とさえ思えてしまうのだ。
意識を集中すると、得体の知れない何かは北のほうに感じ取れた。海というより内陸だろう。位置の変化に戸惑うとともに、その存在が具体性を帯びたような気がして、梨夢は寒気を覚えてしまう。
別な憶測が脳裏に浮かんだ。神宮司瑠奈も自分と同様に得体の知れない何かを感じているかもしれない――と。
神宮司瑠奈の言葉に偽りはないだろう。すなわち、この自分を心配していたことも事実というわけだ。加えて、神宮司瑠奈は真実を把握している可能性がある。少なくとも、こんな自分よりは真実に近い位置にいるに違いない。
歩み寄りたい、相談したい、力を貸してほしい――胸の奥底に押し込んでいた思いが、ふつふつと湧き上がってきた。矜持など捨ててしまいたかった。神宮司瑠奈と空閑蒼依、この二人とは友人と呼べる間柄ではないが、この二人が自分に悪意を持っていないことも、今なら理解できる。むしろ、同じ境遇にいる人間に注意を促すくらいはするだろう。ならば――今さらではあるが、要求すれば、再度、救いの手を差し伸べてくれるかもしれない。
パシリ、お笑い芸人のまねごとの強要、SNSなどネットでの誹謗中傷など、梨夢の被ったいじめは美羅とその仲間によるものだ。空閑蒼依は傍観していたとはいえ、実際にはいじめに加わっていない。むしろ彼女は、負い目を感じていた様子だった。神宮司瑠奈に至っては、美羅たちによるいじめを教員に訴えたのだという。ならば、この二人と打ち解け合うことは可能ではないか。
気持ちが傾きかけたときだった。
――神宮司瑠奈は敵。
自分の中で誰かが訴えた。
――空閑蒼依は敵。
言葉ではなく、意思だった。
「何よこれ」
ベッドの端に腰を下ろしたまま、梨夢は両手で頭を抱えた。
――神宮司瑠奈は敵。
――空閑蒼依は敵。
――神宮司瑠奈は敵。
――空閑蒼依は敵。
何度か繰り返して、その訴えは収まった。
脳内で繰り返されたそれが自分の本心なのか、ほかの誰かからのメッセージなのか、梨夢にはわからなかった。とはいえ、警告と受け取ることもできる。傾きかけていた気持ちが一気に萎え、心の置き場所を失ってしまった。彩愛に頼る以外に落ち着く手立てが見つからない。
彩愛の部屋に行こうと立ち上がった梨夢は、不意に、「大事な何かを忘れている」という疑念に襲われた。
何から何までが胡乱だった。
ドアに向かおうとした足が硬直している。
一階からのテレビの音は、相変わらず続いていた。
西へと進む二台のSUVは、磯野地区の市街地から外れようとしていた。建物の間隔が広がり、空き地や田畑が目立ってくる。視界には入っていないが、大北方川はこの道の南に並行しているらしい。
西の山並みに落ちかけている太陽がまぶしかった。小野田と恵美はフロントガラスのサンバイザーを下ろしている。センサーグラスをサングラスとして用いることが可能なはずだが、煩わしいのか、二人とも着用していない。
「こっち」
泰輝が左前方を指差した。
再び瑠奈が取り次ぎ、四号車は左折した。一号車も遅れることなく左折する。
民家の密集する一角だった。道はさほど広くないが、舗装されており、すれ違いに苦慮する必要もなさそうだ。もっとも、二台のSUV以外に走っている車は見当たらない。
しばらく走ると橋に差しかかった。どうやら大北方川らしい。そう大きくないその橋を渡り始めたとき、泰輝が進行方向の右、すなわち川の上流を指差した。
「そっち」
「上流のほうです」
すかさず、瑠奈は付け加えた。
「細いが、そこに道があるな」
小野田が言ったのは、橋の先でこの道と交差する小道だった。未舗装路であり、川の土手沿いに延びている。対向車とすれ違うのは不可能なほど狭い道だ。
四号車は減速し、橋を渡り終えてすぐに右折した。一号車も右折し、二台のSUVはゆっくりと狭隘な道を進んだ。
土手の三メートルほど下に川の流れはあった。堆積した土砂のおかげで、ところどころに中州や岸が作られていた。そういった陸地には概ね葦が繁茂している。川幅は十メートル強だろうか。水深は川筋の中央でも一メートル前後といった案配だ。
左手に並んでいた民家が途切れ、田畑となった。対岸の土手の先は藪が広がっており、そのさらに向こうにはいくつかの民家の屋根が窺える。
「ほら、そこだよ!」
泰輝の言葉を受けて全員が川の流れに目を向けた。
川の中央付近を流れに逆らって進む何かがあった。細かい凹凸のある表面は黒っぽい虹色であり、全長は十メートルでは足りないだろう。太さは人間の大人の胴回りよりもありそうだ。瑠奈が抱いた第一印象は、大蛇である。その大蛇のような何かが、車よりやや先行する形で、先端部を水面に出して移動している。この位置からでは、先端部に付属しているかもしれない目や口などを確認することができず、また、先端部以外は水中に没しており、全体の姿はおぼろげだ。
小野田がカーナビの画面を操作した。画面の内容からするとハンズフリーの通話をかけたらしい。
「大場だ」
スピーカーから放たれた声は、紛れもなく大場のものだった。
「右の川の中に何かが見えます」小野田は言った。「上流に向かって進んでいるようですが」
数秒の間があった。一号車でも全員が川に目を凝らしているのだろう。
「確認できた。このまま追跡してみよう。民家が近いからな、ここでの戦闘は避けたい」
大場の言葉に恵美が「了解」と返答すると、すぐに通話は切れた。
「それにしても、あれはなんなんだ?」
運転席越しに川を睨む小野田が、声を潜めた。
四号車はその何かの移動速度に合わせていたが、瑠奈が運転席の速度計を覗き込むと、時速十キロにも届いていなかった。加えて、この四号車に搭載されているはずの対幼生センサーのモニターに反応があるのか、それも確認しようとしたが、見方がまるでわからない。瑠奈が車載対幼生センサーについて知っているのは、通常は泰輝の反応を非表示にしてある――ということくらいだ。この個別非表示機能はセンサーグラスにはない機能であり、泰輝以外の幼生を対象にすることも可能だ。
「対幼生センサーに反応はないんですか?」
気になるあまり、ついに尋ねてしまった。
「反応はまったくないね」小野田が即答した。「センサーグラスは意味がないのかもしれない」
「邪神の可能性は? 対幼生センサーに反応しない邪神とか」
瑠奈が続けて尋ねると、小野田は首をひねった。
「可能性はあると思う」恵美が小野田に代わって答えた。「でも、対幼生センサーが邪神に反応するかどうか、まだ実証されていないから、確信は持てないわね。邪神を目にする機会もそうそうあるわけじゃないし。それにさっきの話にもあったけど、邪神にもいろいろとあるのよ。センサーに反応する邪神と反応しない邪神が存在するかもしれないでしょう? そういえば、山野辺士郎事件で邪神が降臨したとき、瑠奈さんと隼人さんには見えたということだけど、わたしはセンサーグラスをかけていなかったわ。不謹慎かもしれないけど、実証する機会を逃してしまったわけね」
山野辺士郎事件――二カ月余り前、五月中旬のおよそ一週間における山野辺士郎が関与したと思われる一連の事件において、高三土山の頂上に巨大な邪神が降臨したが、その場に瑠奈も居合わせていた。見鬼である瑠奈は、不可視状態のその邪神を視認している。だからといって対幼生センサーが「幼生の親たる邪神」に反応するとは限らないわけだ。
ハンズフリーの着信音がなり、小野田がカーナビの画面を操作した。
「大場だ。この先で道は川沿いから離れる。ドローンを飛ばすから、ここで車を停めてくれ」
「わかりました」と答えた恵美が、四号車を停止させた。
「おまえたちは指示があるまで車中で待機せよ」
小野田が「了解」と答えると、通話が切れた。
二台の車は動きを止めたが、未確認物体は速度を維持したまま川を遡っていく。
「泰輝はあれをなんだと思う?」
瑠奈は視線を泰輝に移して尋ねた。
「わかんない」
予想どおりの答えを返してくれた泰輝は、車の天井を見上げて首を傾げた。
振り向くと、一号車からグレースーツの四人が降り立つところだった。ここからは確認できないが、バックドアを開けてドローンの準備をしているらしい。
川のほうに目を向けると、未確認物体は葦の群れの陰に入ってしまい、すでに視野になかった。
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