死神のエレベーター

死神のエレベーター

 二十二階建てと高さはあっても、タワーマンションなんて名乗れるほど大した住み処じゃない。

 都心から遠く離れ、駅まで歩いて二十分も掛かる古い分譲住宅だ。再開発の噂を仕入れた父が、このマンションの一室を投機目的で購入した。

 夜はヒールがつらくて、替えの運動靴が欲しくなる。


 とは言え、通勤はともかく、気兼ねの無い独り暮らしは悪くない。

 くたびれた身体で夜道を歩き、マンションに着くのはいつも十時半くらい。接客業務で下っ端となれば、これもあと数年は続くだろう。


 ただ今日は店で朗報があり、足取りが少し軽い。

 新商品の紹介役イントロデューサー――店で最初に最新スタイルに身を包む大役に私が抜擢された。

 店長に渡された手提げ袋が指に食い込もうとも、数いる店員マネキンの中で自分が選ばれたことが誇らしい。


 オートロックなんてない玄関をくぐり、奥のエレベーターへと進む。

 ボタンを押して待つこと数十秒、四基ある内の一つが扉を開けた。出迎えてくれるのは疲れた顔、カーゴ内の鏡に映った自分だ。


 引っ越して一年を過ぎたが、夜のエレベーターはいつも一人で乗った。

 私の部屋がある二十階まで、ほんのわずかな停止時間なのに、下がりそうなまぶたと格闘するハメになる。

 籠が上昇する時に、お腹を圧迫されるせいかな。


 この日もいつもと同じ。ドアを閉め、瞼も閉じ、ああ寝ちゃいけないと、また目を開いた。


『……え……お』


 背後から響いたに、思わず振り返る。

 赤い小人が、鏡の中でコポコポと奇怪な音を立てていた。


 感電したように心臓が跳ね、吐く息も忘れて凍りつく。手提げが指を滑り落ち、床で横倒しになった。


 こんな禍々まがまがしいのは初めてだ。

 もう何年と目にしていなかったのに。


 人型なのは間違いない。

 服は女物だが、男女の区別にどれほど意味があろう。

 首は折れたように肩へ曲がり、真っ赤な顔にあるのは穴だけである。

 黒く穿うがたれた二つが目で、血とも体液ともつかない何かを垂らしている穴は――。


『いえ……』


 発声とともに穴が歪み、白い欠片かけらが中から覗く。

 それが不揃いな歯だとするなら、やはり口で合っているのだろう。

 もっとも、開閉する度にうごめく赤肉は、剥き出しにした内臓みたいだけれど。


 心中ではけたたましく悲鳴を上げていても、奇怪な鏡像から目が逸らせない。

 手足はまだ、人間らしい形をしている。胴体から生えている、という意味ではあるが。

 関節は妙な方向へ曲がり、人としてのバランスが悪い。腕に比べて、足が短いからか。


『お……』


 金縛られた私は、赤い少女のうめきに無理やり付き合わされた。

 床から伝わる震動で、エレベーターはまだ上昇中だと知れる。


 早く着いて。早く二十階に。

 鏡から離れれば解放されるのだと、根拠の無い希望に飛びついた。

 他に逃れる方法があるなら、教えてほしい。


『い……えおぅ……』


 聞きたくなんてなかろうが、嫌でも耳に入る。

 呻きと血反吐と――それに紛れた言葉が。


 家を? イエロー?

 呪詛かどうかも判然としない。

 黄色が何だと? 私が黄色いとでも……。


 鏡の中で、少女の背丈が少し伸びた。

 いや、浮いたのだ。

 かろうじて動く眼球を下へ向けると、少女の足は床から離れていた。

 赤い肉顔が、私の目の位置まで競り上がる。


『い、えおぉ』

「やめてっ!」


 私が声を絞り出したのと、ピンと電子音が鳴ったのは同時だった。

 赤い顔に替わって、生白い自分が鏡に映る。


 手放しそうな意識を掻き集め、エレベーターから脱出しようとドアへ身体を向けた。

 半歩外へ踏み出して、床の忘れ物に気づく。慌てて手提げを拾った瞬間、無情にもドアが閉じた。


「ああ、もうっ!」


 開くボタンを連打した私は、再び開いた隙間へ身を滑らせ、二十階の外廊下を駆ける。

 顔も合わせたことの無い隣人の部屋を五つ過ぎ、自室の前で鍵をショルダーバッグから取り出す。

 震える手で鍵穴へ差し、ドアノブを力任せに回して、暗い部屋へと飛び込んだ。


 廊下もリビングも洗面所も、全ての照明を点けていき、最後はリビングの床に荷物を放る。

 バッグの傍らにへたり込みつつ、スマホを取り出して電源を入れた。


 液晶画面を見つめた姿勢で、五分はたっぷり固まっていただろうか。

 誰かに話さなければ、と焦る気持ちは、やがて理性が溶かしてくれた。

 こんな体験、誰も信じやしない。

 いつもそうだった。


 霊感が強い、なんて言うとよくいるオカルト好きだが、私には確かに見える。

 最初は八歳、下校中の交差点で。

 十歳には、校門の近くで野良猫を指差す姿が。

 ぼんやりとした黒い少女の影が、幼い私に付き纏う。影は凶事を連れてやって来た。


 全部を確かめたわけじゃないけれど、影を見たあと、尽く悪意が私を襲う。

 交差点では直後に乗用車が横断歩道へ突っ込み、前を行く友人が巻き込まれた。

 野良猫は何者かに轢かれたらしく、翌日道路の真ん中で亡骸なきがらを晒す。


 六年生の時、母を見舞いに行った先の病室にも影がいた。

 翌日、息を引き取った母と引き換えに、以降、薄らぼけた影は私の前から消える。


 もうあんな心霊にかかずらうことは無いと、思ったものを。

 今夜の少女は影などではなく、どこまでも精緻な鏡像として復活した。


 イエロー。

 黄色い者に死をもたらす?

 わずかな手掛かりでは、考えても無為に時間が過ぎるのみ。手提げを睨みながら、貴重な休息時間が費やされていく。


 あれは死神だと、二度と会いたくないと、二十を超してもたまに思い出すことがあった。

 影を恐がって生きてきたのだ。

 それでいいのかと自問したのち、どうしようもないと諦念が湧く。


 死神がまた現れるつもりなら、覚悟を決めないと。

 シャワーを浴び、レトルトのシチューを強引に胃へ流し込んだ私は、午前一時を過ぎてやっとベッドへ身を沈めた。





 カーテンを開けると、朝焼けの空が広がっていた。

 まだ午前六時、出勤には早い。


 トーストとコーヒーで目を覚まし、今一度シャワーを浴びる。

 夜が明ければ、昨夜の不安はかなり薄れ、幻覚だったのではと考える余裕も生まれた。


 それでも気掛かりだったのは、店から支給された新作のワンピースだ。

 手提げから白いワンピースを出し、化粧を先に済ませてから袖を通す。


“光が当たると、色が変わる素材なのよ”


 店長の説明が頭の中で繰り返された。

 何色に変わるか尋ねても、悪戯っ子のように微笑むだけで教えてもらえない。

 サプライズを楽しめということだろうけれど、今となっては余計な心遣いである。


 黄色の服なら、着て行くのは避けたい。

 窓辺に立ち、朝日を浴びて服の色が変わるのを待つ。


 すぐに変化するのかと思いきや、胸に背中にと暑くなるくらいに日光を受けても、服は白いままだった。

 欠陥品でないなら、そう簡単には変色しないということか。


 ギリギリまで試そうと考え、ローテーブルに置かれた時計へ目を遣る。

 七時五十分という針の位置を見て、口汚く罵りそうになった。

 遅刻ギリギリだ!


 毎朝アラームをセットしていたスマホを掴み上げ、画面が黒く沈黙したままなのに天を仰ぐ。

 昨夜は充電を忘れて放置したせいで、バッテリーの残量はゼロになっていた。


 駅まで走るのはまだいい。ヒールは手提げに入れ、スニーカーを用意しておいたから。

 問題はこのマンションで、二十階から駆け降りて電車に間に合わせる自信が無い。


 エレベーターは乗りたくなかったのにと、今さら歯噛みしても遅い。

 バッグと手提げを抱えて玄関へ走り、スニーカーの紐をもどかしく結ぶ。

 ともかくも外廊下を疾走し、四つのドアの前で思案した。


 昨夜と同じエレベーターは論外だ。

 他の三つなら、あの少女は現れないのでは……。

 それが願望なのは、重々理解している。単に同じ行動を取りたくないだけだと。


 せめて同乗者がいないかと廊下を振り向いても、今朝は誰もいなかった。

 諦めてエレベーターのボタンを押してみると、昨日とは反対側、右端のドアがすぐに開く。


 影に直接襲われたことはないし、二度繰り返し出現した覚えも無い。私に危害を加えるつもりなら、とっくに殺されていよう。

 子供の頃の影に、いつまで脅えるつもりか。

 これは凶兆と対峙する絶好の機会なんだと、自分を鼓舞する。


 兆しに気づいても私じゃ何も出来ないかもしれないが、今までは他人にも知らせず、独り胸の内に留めてきた。

 猫を連れ帰っていたら、どうなっていただろう。

 交差点で叫べば、事故を防げた可能性もあったのでは。

 大人になった私なら、死神しにがみに対抗し得る。それが見える人間の義務としたら?


 覚悟を決めるべきだ。

 エレベーターで事故が起きるのか、殺人が為されるのか。

 あそこまで凄惨な姿でアピールしてきたということは、ロクな結果ではなかろう。


 やれることをやろう。管理人へ電話してエレベーターを点検してもらい、不審者を見たと警察にも通報する。

 本気で訴えれば、きっと動いてくれると思う。ダメで元々、今朝の通勤は電話で忙しくなりそうだ。


 もう一回ボタンを押し、再度ドアを開けた私は、エレベーターの中へ入った。

 新商品を着て勤める大事な日に、遅刻する気だって無い。


 来るなら来いという覚悟と、もう現れるなという懇願が、私の中で激しく葛藤した。

 一階のボタンを光らせると、ドアに背を向けて鏡をめつける。


 私の着た服が、今頃になって変化し始めた。鏡に映るワンピースはピンクに色づいたかと思うと、みるみる赤く染まっていく。


「そんな……!?」


 黄色よりも、もっと避けたかった色がそこに在った。

 鮮血の深紅に包まれたのを機に、私の像が歪む。


 目玉が弾け、首が折れ、顔は無惨にも肉塊と化した。

 手足の骨がボキボキと音を立てて捩曲ねじまがり、上から押さえられたように背が縮む。

 ワンピースの私は、鏡の中で赤い少女となった。


『いぇ……お』


 口の形を、必死に目で追う。

 死神は何を私に伝えたい?


『いえ、ろ』


 消えろ? 違う。

 イエロー、消えよ、見えろ……当てまりそうな言葉を懸命に探した結果、絶望が忍び寄ってきた。


 死神は私。

 私の周囲に立ち上る悪意を、健気にも忠告してくれていたんだと、やっと思い知る。

 鏡に映るのは、私の姿だ。


“逃げろ”


 ああ、私が私に告げる。

 ここから逃げろ、と。

 こんな姿になりたくなければ、エレベーターに乗るな、と。


 体がふわりと宙に浮く。

 老朽化したケーブルがあっさりと寿命を向かえ、安全ブレーキは瞬時に焼き切れた。


 顔から潰されるのだろう――それが最後に考えたこと。

 自由落下の末、二・四トンの衝撃を以って、私は床へ叩き付けられた。

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