2. 箱

 金曜日の昼下がり。

 クリーム色の壁に囲われた部屋は、本来そこそこの広さがあったはずだ。

 だが壁のほとんどは棚で隠され、窓も下半分が積まれた資料で塞がっている。

 蓋付きの試験管に薬瓶、大量の筆や巻いた紙で埋まった部屋は、雑貨屋さながらの様相だった。


 中央には平机が置かれ、その机を挟んで男二人が座る。

 大きな乳鉢で熱心に何やらすり潰しているのが、この部屋のあるじである矢崎瑛やざきえいだ。


「それは絵の具か?」

だよ」


 桂木かつらぎの発した質問へ、矢崎は端的に答える。

 もう少しで終わるから、そう告げられた桂木が作業を眺め始めて、かれこれ十分が経とうとしていた。


 日本美術工芸研究所――美工研と通称される施設の二階が、矢崎の仕事場である。

 非常勤ながら専用の一室を与えられているのは、彼の卓越した技術が評価されてのこと。

 しかしながら、美術に関心の薄い刑事には作業の意義も分からないし、僅かな興味もすぐについえてしまう。


 貧乏揺すりを我慢しながら、桂木はただ待った。

 一度始めた作業を中断させられると、矢崎はあからさまに不快な表情を浮かべるだろう。

 長年の付き合いから、そんな彼の性格を桂木もよく知っている。

 なら、ひたすら待つだけだ。


 乳棒を挽き回す単調な音。眠気を誘うその響きが途切れた瞬間、痺れを切らした桂木が行動に出た。

 大判の茶封筒を開き、中身を机の上に並べ始める。


「そろそろいいか? 先週末のことなんだがな――」

絡繰からくり箱の補修を頼まれてね。目止めに使うんだ。本来なら木地師の仕事なんだけど」

「俺の用件もそれだ」

「目止め?」

「箱だよ。値打ちのある物か見てくれ」


 取り出した写真の一枚を、桂木の人差し指がトンと叩く。

 乳鉢にラップを掛けて丁寧に棚へ置いた矢崎は、ようやく友人の用件へ目を向けた。


喜瀬きせ悠三ゆうぞう、えーっと、画号は……」


 スマホの画面に指を走らせ、目的の名前を見つけた桂木が言葉を続ける。


「喜瀬蓮周れんしゅう、箱はそいつの遺品だ。知ってる画家か?」

「ん、地元の洋画家だから、名前くらいは。とっくに亡くなったと思ってたよ」

「日曜の朝、自宅で死亡しているのが発見された」


 矢崎は過去の人として扱ったが、享年は六十八歳とまだ若い。

 二年前に蓮周の妻が亡くなってから、彼は大きな屋敷に独りで暮らした。

 身の回りの世話を通いの家政婦に任せ、自身はほとんど自室へ引きこもっていたらしい。


 日曜日の早朝、家政婦が出勤したところ、廊下で倒れる丸椅子と蓮周を見つける。

 後頭部の頭蓋にヒビが入っており、これが直接の死因と判定された。打撲は他の場所にもあったが、どれも転倒の際に受けた傷であろう。

 廊下の照明が切れたため、蓮周は自分で蛍光灯を替えようとした。椅子を持ち出して上に乗った彼だったが、バランスを崩して足を滑らせたようだ。


 割れた蛍光灯が現場に転がっていたので、それが自然な推定だろう。

 蓮周はそのガラス片の上へ落下し、腕を切って血まみれだったとか。


「死亡推定時刻は土曜午前0時から二時。まあ、事故死で間違いない」

「なら、一件落着だろ?」

「それがな、息子がゴネてんだよ」


 蓮周には二人の子供がいる。

 長男は喜瀬淳士あつし、三十七歳で既婚、今は隣県に住むシステムエンジニアだ。

 妹は喜瀬めぐみ、二十九歳の独身で、大学卒業後は東京に出てライター業で食べていた。

 親子の仲は良好だったとは言えず、恵は年に一度程度、淳士に至っては今回五年ぶりに実家に顔を出したのだとか。

 周蓮は家族との付き合いも厭う偏屈な画家であった。


「揉めた原因は蓮周の遺言だ。その内容に息子が納得してない」

「それは民事の問題だろ。刑事課の出る幕じゃなかろうに」

「俺もそう言いたいよ」


 蓮周が弁護士に預けた遺言はこうだ。

 銀行預金は息子へ、土地と屋敷は娘へ渡す。

 家財は売却し、屋敷の維持に使うべし。


「先代は資産家だったみたいだが、屋敷以外は蓮周が食い潰したようなもんだ。預貯金なんて、車一台分ほどしか残ってなかった」

「つまり、娘の取り分が大き過ぎると?」

「屋敷は売り払って、金銭で分け合いたい――それが双方・・の希望だよ」


 生活基盤が他所にある子供たちには、分不相応な屋敷は維持するのも荷が重い。

 それ以前に、兄の遺留分を侵すような配分は無効だろう。二人が承知しているのなら、公証人もいない遺言は無視してしまえばいい。


「ところがな、妹へ向けた一節が問題になった」

「蓮周は何と?」

「写しがこれだ」


 A4サイズのコピーを、桂木が対面へと放る。

 蓮周が自筆で書いたらしき文面に、矢崎は目を通した。


“作品は恵に贈る。願わくば、その美しさを理解してくれんことを”


 遺言の最後は、こう締め括られる。


「蓮周のアトリエを探したものの、作品なんて無かった。一枚もな。既に全て県立美術館へ寄贈されてたよ」

「アトリエは屋敷内に?」

「ああ。十五年前からちょくちょく屋敷を改装して、アトリエに仕立てたんだとさ。他に制作場所は存在しない」


 洋風建築の立派な屋敷は外観こそ昔と同じそうだが、改築を繰り返した結果、中は様変わりしていた。

 見覚えの無い内部構造に、子供たちも戸惑っていたと言う。


 画材やキャンバスも見当たらず、アトリエは空の木箱や板材が在っただけ。

 美術館への寄贈は、妻の葬儀よりあとのことだ。とするとそこから二年間、周蓮は筆を執らなかったように思われる。


「そのアトリエにあった箱ってのが、その写真なんだが……値打ち物には見えんよな」

「素人の作りだね。合板みたいだし、工芸価値は皆無だ。大きさは?」

「小さいのがアタッシュケース、大きいのだと旅行用のトランクくらいはある」


 ニス塗りされているとは言え、ベニヤを組み合わせた箱に値打ちは無かろう。

 写真は四枚、それぞれ別の箱を撮影したものである。どれも横に長い直方体で、天面と小さい側面の片方、二つの面が存在しない。

 計四面の板で囲まれた不完全な直方体は、箱と呼ぶのもはばかられた。蓋も無く、半端な収納ボックスといった風だ。


「まあ、俺もゴミだろうと思ったんだ。息子の主張では、アトリエに作品もあったはずだと」

「箱モドキは作品じゃない」

「そう。だから、誰かが盗んだんだと言い出した」


 やや古臭い作風の蓮周は、高額で取り引きされるような人気とは縁遠い。

 席を立ち、画廊のカタログを引っ張り出した矢崎は、喜瀬蓮周の名を探す。

 唯一記載されていたのが十号の油彩、『手紙を読む女』だ。縦五十センチ超の人物画には、およそ七十万の価格が付いていた。


「十枚で七百万ってことか。それで不人気作家っていうんだから、絵画ってのは高いもんだな。だとしても、絵を盗むかねえ」

「相当著名な作品でないと、売り捌くのが難しいだろうね」

「危ない橋を渡るほどの値打ちはえかもな。しかし、息子はそう思っちゃいない」


 妹に贈ると書いた絵は、必ず存在する。

 それが無くなったのと事故死が重なったのは、偶然とは思えない――そう淳士に言い張られては、今少し捜査を続けざるを得なかった。


「俺の推理では……いや、瑛の考えを聞かせろ」

「判断材料に乏しい。現場を見たいな」

「よっしゃ、そう言うと思ったよ。明後日の日曜日、また淳士たちが屋敷に来る。お前も同席してくれ」


 桂木が強引なのは、毎度のことだ。

 嫌味代わりの溜め息に次いで、スケジュールを確認した矢崎も了承する。


 兄妹が集うのは午後一時頃、矢崎はその一時間前に屋敷へ赴き、先に中を見て回ることにした。

 用件は済んだと挨拶もそこそこにして、桂木が研究室を去る。


「箱ねえ……」


 また独りになった矢崎は、棚から和紙を一巻き、そしてカッターとメンディングテープを机に並べた。

 未完成なら、完成させてやればいい――それは彼の本職に近い。


 日曜の準備には、まだ少し足りないか。必要物を頭の中で検討しつつ、美術修復技師は資材室へと向かった。

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