ネコのマフラー
ネコのマフラー
そろそろ木枯らしが吹き出した秋の夕刻、駅からの道を急ぐ。
珍しく定時に退社出来たので、のんびり娘の相手でもしようと寄り道もせずに帰宅した。
マンションのドアを開けた瞬間に、荒げた妻の声が鼓膜に突き刺さる。
怒鳴る相手は、娘しかいるまい。
派手に叱られることは少ないし、
どんな事情なのかとリビングへ直行すると、妻は声を落とし、バツが悪そうにこちらへ向いた。
「……お帰りなさい。早かったね」
「連休前にケリをつけたくて、若い連中が頑張ってくれたんだ」
「へえ。じゃあ、もうご飯にしちゃおっか」
話が切り替わったのを幸いと、早紀はパタパタと自室へ逃げていく。
スーツから着替えた私は、キッチンに立つ妻の横へ並んだ。オムレツを作る彼女を手伝いつつ、説教の原因を尋ねる。
「マフラーを無くしたんだって。昨日買ったばかりなのに」
「落としたのか?」
小学校の友人がしてきたマフラーを、早紀は随分と羨ましがっていたらしい。
白地に黒猫の柄が入ったマフラーで、流行りのキャラクターだそうだが、私は見たことが無い。
防寒用にマフラーを買い与えようとしたところ、早紀が同じ柄が欲しいと強く訴えた。
人気商品なので、ネットを駆使してなんとか注文を受け付ける場所を探し、一昨日届いたばかりである。
友人とは逆の、白猫がデザインされた黒のマフラー。今朝は喜び勇んで首に巻いて登校したのに。
「その日のうちに落としてくるなんて。まったく」
「ワザとじゃないだろ。あんまり責めてやるなよ」
「物を大事にしないのは感心しないわ」
そんなに欲しかった物なら、本人が一番ガックリしているはずだと、怒る妻を
それもそうかと、食事が出来る頃には彼女も納得してくれた。
マフラーの一件には触れずに、三人で夕食の席につく。
早紀の元気が無いのは、やはり少し堪えているのか。
娘が三分の一ほど残したオムレツは、妻がラップを掛けて冷蔵庫へ仕舞った。
私が風呂から上がり、続いて妻が浴室に入った時だ。
飲み物が欲しくてキッチンへ立った私の耳に、玄関ドアが閉じる音が届く。
玄関を覗いても人影は無し。
まさか、と早紀の部屋へ入ったところ、娘の姿も見当たらなかった。
慌ててトレーナーの上にコートを羽織り、外廊下へと出る。
予想は的中し、エレベーターへ乗り込む早紀の背中が見えた。
夜の七時過ぎに、娘が独りで出掛けるなんて初めてだ。
叱られるのを承知で外出したのは、おそらく通学時に落としたマフラーを探しに行ったのだろう。
責任感の強い早紀なら、十分に有り得る理由だった。
名前を叫んではみたが、エレベータードアの閉まる方が早い。
先回りを狙って、私は階段へ走った。
サンダルを履いて出た自分を呪いつつも、三階分のステップを懸命に駆け下りる。
エレベーターより先に一階へ着く、という見通しは甘すぎた。
一歩も二歩も遅れた私を置いて、早紀は玄関ロビーを抜け、外へと走っていく。
私も道路へ飛び出して大声で娘を呼び止めようとしたが、早紀は学校方向ではなく、マンションの裏手へ回った。
奇妙な行動を見て、私は黙って後をつけた。
マンションの裏には、近隣の者が使う駐車スペースがあった。
管理はやや適当で、フェンスの際では枯れたススキが伸び放題だ。
早紀はそのススキの生える隅まで行って、しゃがみ込む。
何をしているのか不審な思いを募らせながら、私は忍び足で娘の背後へと近づいた。
足元に集中していた彼女は、私が間近に迫るまで気づかなかった。
砂利を踏む音に驚き、早紀がぐるりと首を回す。
「そういうことか」
「ご、ごめんなさい!」
娘と一緒に謝ったつもりなのか、みゃあ、と小さな鳴き声が響く。
捨て猫、それも生まれてそう経っていない子猫だった。
木箱に放り込まれた黒い猫は、同じく黒いマフラーに包まれて顔だけを外に出す。
娘は残したオムレツを与えようと、皿ごと持ち出していた。
「あのな、早紀」
「ごめんなさい……」
「マンションは動物を飼えないんだ」
「……知ってる」
父である私も、娘が大の猫好きだと知っている。
さて、どうしたものか。
「んー。明日は休みだしな」
「……?」
オムレツの皿を娘から奪い、彼女にはマフラーごと子猫を抱えるように告げる。
「お婆ちゃん
「いいの!? 飼ってくれるの?」
「会えるのは月一くらいだぞ。毎週とか、勘弁してくれよな」
妻にはちゃんと謝るようにと、それに二度と夜に抜け出すなと、戻る道すがら懇々と言い含める。
その言葉を、どれくらい真面目に聞いていたのやら。
鳴き声がする度に、早紀は満面の笑みで胸元を見る。
夜風に晒されて、素足が痛いくらいに冷えてきた。
「みゃあ、みゃあ!」
はいはい。
今日からは、お前も言い付けを守ってくれよ。
脱走とか、許さんからな。
ここから実家へ着くまでの一時間、私は延々と猫の名付けに付き合わされる。
まあ、いいか。
連休の始まりとしては、上々の滑り出しだった。
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