幾千のカケラを君へ

幾千のカケラを君へ

 面倒くさい期末試験も、初日は一科目だけで終わり、曇天の下を独り歩いて家に帰る。

 その道すがら、歌が聞こえた。


 鉛色の空が似合うメランコリックなメロディーに、彼はキョロキョロと辺りを見回す。

 錆びたカーブミラー、消えかかった横断歩道の白線。

 何の変哲も無い住宅街の狭い道路に、人影も車もいない。


 ――欠片かけらとなった私は、あなたに刺さる。


「どこから聞こえてるんだ……」


 家まで残り三分ほど。

 道中、音量が変わることなく、歌は響き続ける。


 家の玄関に着くと、ドアに鍵を差し込んで中へ。

 親が働きに出ている時間、暗い廊下で彼を迎えるのは、ポコポコとリズムを刻む水槽の空気ポンプだけだ。


 静かに二階へ上がり、カバンを床に投げ出して、ベッドの端に腰掛ける。

 この頃には、ようやく歌が終り、頭の中はいつもの空っぽに戻った。


 したいことなんて、特に無い。

 気になるのは、ほどほどに学校をやり過ごすこと。

 適当に教科書の中身を詰め込み、適当な点が取れればそれでいい。


 白シャツはそのままに、下だけデニムに履き替え、数学の問題集とノートが積まれた机へと移動する。

 遅い夕食までに、試験範囲の問題を一通り見直せるだろう。

 シャーペンを握り、白紙のノートを開く。


 ――刺さったきずから、涙がこぼれる。赤い涙が。


 知らない歌だった。

 しかし、声には覚えがある。


 抽象的で、カッコつけた歌詞は、つまらないと感じた。

 陳腐だと馬鹿にしたいその歌のサビを、彼は口の中で繰り返す。


「割れたのは私、割ったのはあなた……」


 もう一度聞けば、何かを思い出せるかもしれない。

 何か、大事なことを。


『もう一回、聞く?』

「え!?」


 彼が問い返す隙も与えず、歌は繰り返された。

 誰が歌っているのか、どうやって聞かせているのか、途中でした質問に答えは無く、諦めた彼も歌の終りまで大人しく待つことにする。


 今回は注意深く、歌詞と声に意識を集中して聞くことで、一つの答えに辿り着けた。

 歌声が消えると同時に、彼は告げる。


「君はメルだ。メル・アイヴィー」


 誰もいない中空に語りかけるのは、少し気恥ずかしさを感じたものの、返答はすぐにされた。


『そう。知ってるのね』

「そりゃ、知ってるさ。人気爆発中の謎の歌い手、だろ。有名人がボイスチェンジャーを使ってるんだとか、考察サイトを見たことあるよ」

『私は私。無数の私が、あまねく皆に歌を届ける』

「無数って……。これって、新曲なの?」


 他に聞くべきことはあるだろうに、有名人と直接話せたことで、ほんのちょっと彼の気持ちは高揚する。

 メルは対照的に、感情を読み取れない涼やかな声で、語り始めた。


『この歌は、あなたにしか聞こえない。欠片かけらを持っている、あなたにしか』

「カケラ?」

『割り砕かれ、私は幾千もの欠片に分かれた。記憶も、感情も、散り散りになった』


 メルがなぜ割れた・・・のか、過去に何があったのか、彼女にも答えられないと言う。

 残ったのは、集め直さなければ、という急き立てられる想いだけ。

 メルは人間なのかという根本的な問いにも、ハッキリした回答は得られなかった。


『あなたは欠片を持ってる。さあ、どんな欠片かしら』

「ちょっと待って、カケラなんて知らないって」

『受け取っているはず。思い出して』

「そんなこと言われたって……」


 誰かからプレゼントをもらうようなことは無いし、親しい友人もロクにいない。

 ボッチとも言われないが、単に表面的な付き合いが得意だからだ。

 親も忙しく、手の掛からない彼へは不干渉を貫いている。

 誕生日だろうが、クリスマスだろうが、贈り物とは縁が遠かった。


『何も、形を持った物とは限らない。大きく心が動く、その感情だって欠片』

「それこそ無縁だよ。当たり障りのないようにやってんだから」

『焦る必要は無いから。ゆっくり思い出せばいい』


 メルは先より音を絞って、また歌い出した。


 ――欠片は時を漂う。波間を前へ、そして後ろへ。


「何を思い出せってんだよ……」


 数学を片付けようと思っても、奇妙な邂逅が気になり、問題に集中できそうもない。

 結局、無理に気持ちを切り替えるのは断念して、彼は部屋の中を引っ掻き回すこととなった。






 呆れるくらい、何も無い部屋だと彼は自嘲する。

 本棚に立て掛かるのは、参考書、問題集、辞書に図鑑。


 ゲームやコミックすら持っておらず、娯楽はスマホオンリー。

 私服のバリエーションも少なく、無趣味でスポーツ嫌い。


 メルは、カケラを集めて、自分を生み直すのだと言った。

 嬉しい、という喜び。

 苛立つ、という怒り。


 どこか感情を排したような彼女のたたずまいは、まだ抜け落ちたカケラが多いからだろうか。

 自分が嫌いだ、という自己嫌悪。

 プリンが好きだ、という他愛のない嗜好。

 そんな彼には不必要と思われるカケラであっても、取り戻したことをメルは誇らしげに話した。


 感情が大きく動いた思い出、などと彼女はアドバイスしていたが、プリン程度でいいなら逆に難易度が上がってしまう。

 トンカツが美味かった、涼しくなってきて布団が気持ちいい、そんなことでも構わなくなる。


 カケラが見つかるまで、歌は続くらしい。


「トンカツはハズレってことだな」


 頭に響く歌に苦笑いを浮かべ、彼は最近の出来事を思い返してみる。


 国語の朗読に当てられ、何の加減か、やけに褒められた。

 これは嬉しいのではなく、恥ずかしい記憶。


 雨の登校途中、横を猛スピードで走り抜けた車に、泥水を撥ね掛けられた。

 この一ヶ月で、最も不愉快な思い出だろう。傍若無人に走る自動車は、大嫌いだ。


 メルの歌声は、一定の調子で続く。

 同じ歌の繰り返しに飽きそうなものだが、不思議と心地好く、何度でも聞いていたくなる声だった。


 もっと昔の記憶ならどうだろうと、彼は小学生、そして幼稚園の頃に立ち返る。

 思い出すのに痛みすら覚えるような、古い日々。


 幼稚園の演劇発表でセリフを忘れ、壇上で立ち尽くした。

 恥ずかしい記憶は薄れにくいのか、よく覚えている。


 数少ない家族旅行で、海に出掛けた。内陸に住む彼には、今のところ唯一の海体験である。

 よく行く湖とは、やはり違う。

 沖から吹き抜ける風も、広がる砂浜も、何もかもが――。


 ――扉の向こうは、碧い海。欠片は白く、夏の雲のように。


 メルの声が揺れる。


「急に音量を上げないでくれ。痛いじゃないか」

『揺れたのは、欠片よ』


 一言挟み、彼女は歌に戻った。


 日が暮れてもこの調子で、勉強は手つかずのままだった。

 ぼんやりと頭を曇らせて、歌に身を任せる。


 夕食が出来たと階下から呼ばれた時には、午後八時を過ぎていた。

 手早く調理したのであろう、簡単なベーコン入りのパスタを巻きながら、彼は向かって座る親に尋ねてみる。


「心が大きく動いたことって、何かあったっけ?」

「お前がか? 大喜びしたりは、あまり無いな」

「なんだっていいんだ。怒るとか、悲しむとか」


 父は食べる手を止め、彼の顔を見返した。


「怒鳴ったり、泣いたりもしたことないしさ。心が動くっていっても、ピンとこなくて」

「……本気で言ってるのか、それ」

「え?」


 継ぐ言葉に迷い、父は一瞬口を閉じる。

 その硬い表情に妙な不安を掻き立てられつつ、話の続きを待った。


「忘れたいんだと、思ってた。しっかり話し合うタイミングを、逃してしまってたな」

「何の話だよ」

「お前がそんな風になったのは、母さんが亡くなってからだろう」

「聞きたくない」

「葬儀のあとは怒り狂ってたし、次の日は一日中泣いてたじゃないか」

「やめろよ!」


 ふざけて車道を走っていた彼を、付き添う母は脇へ突き飛ばした。

 彼は膝を擦りむき、軽トラックに撥ねられた母は、頭部を挫傷する。

 病院に搬送されて二日後、母は意識不明のまま亡くなった。

 彼が小学生の時の話だ。


 トラックの運転手は、徹夜明けで酒まで飲んでいた。

 だが、それがどうだと言うのだ。

 車道に出るなと、何度も注意されたではないか。

 後ろを気にせず、ピョンピョンと跳ねてたのは彼だ。


 パスタを途中で放り、ダイニングから廊下に飛び出た彼は、壁を拳で殴りつける。

 ベコリと凹んだ壁紙を、しつこく叩くうちに、唸りとも嗚咽ともつかない声を上げ、彼はその場にへたり込んだ。


 床にボタボタと落ちるしずくを、もう止められそうにない。

 避けていただけなのだ。考えるのを。

 これだけ時間が経とうが、悔恨と理不尽への怒りが、心を押し潰そうと彼を責めた。


 歌は、彼を癒してくれなどしない。

 メルの声はどこまでも涼やかに、彼の心のうちへ潜り込む。


 彼女の歌が扉を開け、ここまで溜めた裏側を晒し出そうと揺さぶった。


「これを使え」


 いつの間にか隣に立った父が、タオルを投げて寄越す。

 にじんだ目で手を伸ばし、彼はその白い塊で顔を覆った。


 何か言いたくても、ゴロゴロと喉が鳴るばかりで、意味を成すのが難しい。

 そんな息子の横に膝を突き、父はただ彼が鎮まるのを見守る。


「お前が大喜びしたこと、思い出したよ」


 意外な言葉に、彼は何とかタオルを剥がして、父に向き直る。


「事故の直前に、三人で海に行ったのを覚えてるか?」

「うん……」

「あの時のはしゃぎようって言ったら、凄かったぞ」

「そうだった……っけ」

「母さんも一番の笑顔だった」


 泣くのを我慢するのは、今の彼には酷な話だ。

 しかし、父も顔を皺だらけにして、頬を濡らしているのを見て、彼は自分のタオルを手渡した。






 母を思い出させる物を嫌がり、彼の目につくところには遺品などを置かなかった。

 父はいくらか自分の書棚に持っているらしいが、彼の部屋には全く無い。


 落ち着いた彼は、何か一つ形見が欲しいと、父に申し出る。

 父は袖を捲ると、いきなり廊下の水槽へ手を突っ込んだ。


「なん……?」

「貝殻だよ。母さんがお前のためにって、拾ったやつだ」


 少し苔にまみれた、小さな二枚貝。

 蝶番は外れ、二枚組になった貝殻を、彼は受け取る。


 洗面所に行き、流水で丁寧に洗うと真っ白な貝殻へと戻っていった。


「覚えてるよ、母さん」


 海岸の波のさざめきも、拾った宝物を彼に見せに来た母の笑顔も。

 また鼻の奥がツンと痛くなるのを堪えて、濡れた貝殻を拭く。


「また休みを取るから、海へ行こう。嫌か?」

「行きたい。同じ場所がいい」

「ああ」


 二階に上がり、貝殻を机の隅に飾ると、メルが歌を止めて話してきた。


『欠片は拾えた。大きな欠片を』

「これでおしまい?」

『ええ。ありがとう』


 彼女は念を押すように、もう一度感謝を繰り返す。


『悲しみを、ありがとう』


 この後、再び彼の頭に歌が響くことはなかった。




 何日も経つと、あれが本当にあったことかも怪しくなる。


 テスト期間が終った休日、ベッドに寝転んでスマホをいじくっていた彼は、動画サイトを検索してみた。

 もちろん、メルを見るためだ。


 流れる新曲MVに登場する彼女は、以前に見た姿と同じに思える。

 ロングの銀髪に、白いワンピース。


 歌い方が変わったとか、表情が豊かになっただとか、そんな変化を探しても見つけられない。

 ただ、彼女の顔がアップになった時、彼は違和感を覚えて、動画を一時停止した。

 編み込んだ銀髪に、リボンが結んである。


「前は付けてなかったよな、これ……」


 真ん中でくびれた白いリボン飾りは、開いた二枚貝のようだった。

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