イグノの叛乱
「ノーベル
わたしは声を潜めて通信用の魔珠に声を掛ける。呼びかけるのも呼び掛けられるのも激しく抵抗がある
わたしのコールサインは、本名のイグノ―ベル・ヤゥンから取られたもので、正直にいえば、
さて。相変わらず魔珠からの返答はない。少し前まで怒鳴り声と戦闘音が聞こえていたが、いまは不自然なほどに静まり返っている。
もしかして魔王様が
もう一度呼びかけて返答がなかったら、自分の足で回収に行こうと覚悟を決める。
「陛……」
『にゃああぁーッ!?』
「ッ!!」
受信感度を上げていたせいで脳内に女性の悲鳴が響き渡り、思わず心臓が飛び上がる。
「ななな……なに? というか、誰!?」
『笑うのよ、バーンズちゃん。いい女はね、辛い時ほど、笑うものよ?』
女の悲鳴の後に聞こえてきたのは、陛下の優しげな声。
バーンズ?
聞き覚えはある。というか、古い知り合いだ。
獣人族の重装歩兵、キレた彼女の前では上級魔族ですら震え上がるという百戦錬磨の野獣、“首狩りバーンズ”。
先の攻防戦で戦死しているから、陛下は蘇生に成功したことになる。
それはめでたいことだが、彼女はあんな甲高い嬌声を上げるようなタイプだったか? もしかしたら蘇生によって性格に変化が現れたのだろうか。猪突猛進で三度の飯より
「
あんな女より頼り甲斐がある奴なんて、いたとしたら既に生き物じゃない。だが重装歩兵部隊は性に合ったらしく、バーンズは戦友には恵まれ上官から可愛がられ部下からも慕われる立派な軍人になった。彼女の人生にとって順風満帆といっても良かったのかもしれない。
男運を除けば。
女盛りを迎える頃になってもお目当ての男は現れず、ふて腐れた彼女は帝国軍との紛争が始まると嬉々として最前線に向かったまま帰らなくなり、そして……
……彼女が不在の魔王領で、内乱が起こったのだ。
『未来なら、アタシが見せてあげる』
魔王陛下の静かな声。バーンズが口ごもる気配が伝わってきて、わたしは少し切なくなる。嫉妬なんかじゃない。彼女の気持ちがわかってしまったからだ。
だったら何故、もっと早く来てくれなかったのかと。もちろん、それを魔王様にいったところでしょうがない話ではあるのだけれど。
「未来かあ……」
わたしは、隠れていた尖塔最上部の小部屋から這い出る。水平方向には尖塔の直径と同じくらいの面積があるが、高さは最大でも120センチ。狭いところはその半分もない。相当に小柄な者しか入れず、入ったところで身動き出来ない。
元は城を落とされかけたときに籠城側が逃げ込むための緊急避難経路。階下とは壁のなかのハシゴで繋がっていて、城壁内外に隠されたいくつかの脱出口から出入り出来る。
階下の様子を覗うと、埃と蜘蛛の巣にまみれた灰色のツナギ姿で、血の臭いに満ちた廊下に降り立つ。有翼族の降下部隊が折り重なるように倒れていた。顔を覆った
ガスの残留時間は12分。階下は転送魔方陣で封鎖した。城内の人間が尖塔に入れるようになる頃には、ここは
これで良かったんだ。
魔王様の見せてくれる未来は、きっと素晴らしいものになるだろうと思う。だからこそ、陛下のやり方じゃダメだ。反抗を許さないという強い姿勢と絶大な力を誇示しない限り、
陛下自身も、そのことを理解してはいるのだ。実力を示しながらも同族殺しを避けられないかと非殺傷兵器の開発まで依頼してきた。自分の抱いているのが甘ったれた理想論だと自覚しつつもなお、諦めきれない。あきらめようとしないのだ。
先王と同じだ。彼らの生きてきた国はきっと、ここよりも進んだ文明と進んだ思想を持った美しいところなのだろう。だが、
もしかしたら魔王様を説得することは出来たかもしれない。わたしの作り上げた兵器と情報網とコネクションをもってすれば、敵味方どちらかの――あるいは両方の、考えを変えさせることも、妥協点を探ることも。脅迫を含めた交渉を行うことも、可能性としてはあった。
でもそれでは、魔王様が魔王様でなくなってしまう気がした。野山に咲く花をガラスで固めるような。天空を舞う猛禽を剥製にするような。それは最後の手段。出来れば、魔王様には御自分が思うままに理想を追って欲しかった。
だから、独断専行を決めたのだ。魔王様の意向を無視して。これも叛乱軍と変わらない、ある意味ではそれ以上の裏切りだってことはわかっている。処罰も断罪も甘んじて受ける。放逐されたとしても構わない。わたしは、わたしのやるべきことをやる。そう決めたのだ。
あの人の理想が、あの人を殺す前に。
「……いいわよ別に、いまさら少しくらい汚れたって、同じだもの」
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