二枚の家族写真 [2,500文字]

 祖母が死んだ。

 初春のことだった。私の職場に連絡が入り、急いで諸々の手続きや引き継ぎを済ませたのち、帰郷することとなった。

 新幹線のチケットを取り、喪服と必要最低限のものだけを詰めたトランクを引きずって家を出る。新幹線の到着駅からさらに電車とバスを乗り継ぎ、お世辞にも栄えているとは言えない寂れた町へと降り立った。

 祖母とは、年末年始を共に過ごしていた。もうあの時には既に覚悟をしていて、何なら年を越せたことを喜んだものだった。連絡をくれた隣家の奥さんが私を迎えに来てくれていて、彼女の運転で家の前まで。最後の住人を失った家は、酷く静まり返っていた。

 当然のように母は来なかった。シングルマザーであったから、もちろん父もいない。仏間に横たえられた祖母と、私だけがそこにいた。


「おばあちゃん」


 返事をしない亡骸に、そっと触れる。かたくて、しわしわで、あまりにも冷たい祖母の身体。もう泣き叫ぶような歳ではない。私の頬を、涙が伝っていった。

 葬式はしなかった。火葬の手続きだけを済ませて、二人きりでお別れをした。可愛らしい骨壷に、葬儀場の方と祖母を納めた。町の人たちはそれぞれ線香をあげに来てくれて、馴染みのお坊さんはお経まであげてくれた。祖父の遺影の隣に並んだ祖母は、穏やかに微笑んでいた。



 一人暮らしの私の家に、仏壇を置くスペースなどなかった。祖母の暮らした家は引き払うつもりだったが、急遽そこで暮らすことに決めた。タイミングよく年末にこの地域のインフラ整備が完了していたこともあり、パソコン一つあればできる職種に就いていた私は、独り立ちをすることにした。

 有給休暇を消化する間、関係各所に連絡を入れてホームページを新たに作り、新規で発注を受ける日付を設定した。あらかたの事務作業を終えたところで、私は携帯電話から母の連絡先を消去した。産みの親の死に無関心な母も、独りで死ねばいいと思った。


 生まれて初めて、自由になった気がした。せっかくだから旅行にでも行こう。そう思って居間に貼られている古ぼけた日本地図を眺めた。母が小学生の頃に貼られたそれが、最後に母を見たのはいつだっただろうか。

 いつかの正月、祖母の生まれは長野県だと聞いた記憶があった。長野の、どこだと言っていただろうか。しばらく考えていたが、結局思い出せずに適当に観光してみることにした。どうせ時間はあるのだ。途中で思い出したら目的地を変更すればいいだけのこと。


 祖母と最後に撮った写真をカバンに入れて、静かに玄関を閉めた。



 別所温泉で数日過ごした私は、ふとあることを思いついた。タクシーに乗り込み、運転手に告げる。


「運転手さんのよく行くお店に連れて行ってください」


 観光客向けの店はもういいと思った。地元の人の行くようなお店のご飯が食べたいと。運転手は少し悩み、車を発進させた。


「ここの定食、美味しいんですよ」

「楽しみです」

「帰りもタクシー使われます? あれなら自分もここで昼食べて、またお送りしますけど」

「いいんですか? ぜひ」


 小ぢんまりした店だった。開け放たれた窓からは厨房の音と香り。かなり色褪せて文字のハゲてしまった店名は『ふきこ亭』だろうか。磨りガラスの嵌め込まれた引き戸を開けると、カウンター席と二人掛けのテーブル席にはそれなりの人数が腰掛けていた。


「いらっしゃいませー、こちらの空いているお席へどうぞー」


 バラエティ番組の流れる小さなテレビが壁上の棚に置かれている。若い女性の店員さんが運んできた小ぶりの湯呑みには冷たい麦茶が入っていた。


「日替わり定食ください」

「あ、私も同じので」

「はーい!」


 厨房では女性が二人料理をしていたが、一人は祖母とよく似ていた。歳の頃が近いと、人は似通ってくるものなのだろうか。キャベツを千切りにしている後ろ姿も、祖母を思い出させるものだった。

 日替わり定食はアジフライらしい。周りでもたいていの人がアジフライにかぶりついている。少ししてテーブルに並んだ盆の上には、味噌汁、マカロニサラダ、オレンジが載っていて、中央の大皿に見事なフライが鎮座していた。

 下味が付いているからソースをかけなくても美味しいと運転手に聞き、そのまま食べてみる。熱くてサクサクの衣の下から、ジューシーなアジが飛び出してきた。確かにソースをかけずとも十分に美味しい。私は自らの思いつきに満足しながら定食を食べた。


 味噌汁を一口飲んだ瞬間、時が止まった。驚き、固まった私に運転手が怪訝そうな表情を浮かべる。二口、三口、これは、祖母の味だ。

 完全にボケはしなかったものの、いくつかの記憶を失ってしまった祖母。忘れたものの一つに、この味噌汁があった。毎日作るものだから当然のようにレシピなんてあるはずもなく、私の知識では再現できなかった祖母の味噌汁が、目の前にあった。


「えっ、だ、大丈夫ですか?」


 慌てたようにハンカチを差し出す運転手を見て、私は自分が泣いていることに気づいた。厨房に立つ女性に顔を向け、呼びかけるように声を発する。


「佐々木、ふき子さんですか? 私、かな子の孫です」

「…………わざわざ探しにきたんかい」

「いえ、偶然。味噌汁を飲んで気付きました。これ、おばあちゃんの味と同じです」

「そりゃ、あたしらの母ちゃんの味だからね。かな子はどうした」

「少し前に、亡くなりました」

「……そうかい」


 私は、祖母の言葉を思い出していた。あれはほとんど盗み聞きのようなものだったから、私が伝えていいものなのかは分からなかったけれど。でもきっと祖母は、彼女に伝えたがっていた、と思う。


「祖母は、ずっと後悔していました。あなたから祖父を奪ったことを。子は成せても心は得られなかったと」

「馬鹿だね、あれも。あたしはとっくに別の人生歩んでたっていうのに」


 一緒に厨房に立つのは彼女の娘で、注文を取っている若い女性は孫なのだと言った。厨房の奥から持ってきた写真立てには、幸せそうな家族が写っていた。

 私は自分と祖母の写真を取り出して、言った。


「これも、一緒に立てておいてくれませんか」


 彼女は写真と交換に味噌汁のレシピをくれた。差し出された紙を受け取った私はきっと、泣きながら、笑っていた。

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