あれ? 逃げるんですか、先輩?

紙城境介

お姫様とリアル脱出ゲーム


『お前とゲームしてもつまらんわ』


 友達だと思っていた奴が、そう言ってコントローラーを投げた日のことを、今でもよく覚えている。

 うだるように熱い夏の日で、空は晴れ晴れとした青だった。

 クーラーの効きが遅くて、こめかみから汗が滴っていた。

 だけど、そう言われた瞬間、身体の中から温度という温度が失われて、夏休みだっていうのに冬になったみたいに感じた。


 その年の夏休み、俺は二度と誰かと肩を並べてゲームをすることはなかった。

 だけど、ネット対戦のランキングでは1位を獲り。

 そして、そのソフトをゲーム屋に売った。




◆◆◆




「うわっ、胸でっか。本物かよこれ?」

「知らねーのかよ? 寄せて上げてると谷間がY型になるんだぜ。このグラドルはI型!」


「昨日の《青天組》の配信見た?」

「見た見た見た! マぁジてぇてかったわ!」


 イヤホンを耳に着けると、教室の喧騒が急速に遠ざかった。

 古びたゲーム機でソフトを起動すると、荘厳なメインテーマが俺を異世界に連れていく。


 この瞬間の高揚を、なんと例えればいいだろう。

 自分の目の前がぱあっと開けていくような。

 現実の俺にはない可能性が、目の前に並べられていくような。


 前にネットのどこかで見た、作家か何かの言葉を思い出す。

 人が物語を綴るのは、人生が一度しかないことへの抗議だと。


 古霧坂里央こきりざかりお、中学生。

 彼女ナシ、友達ナシ、成績は結構いいけど運動は苦手。

 そんな現実の自分に不満を持ったことはほとんどないが、しかしなるほど、もしゲームがなかったらと思うとぞっとする。

 ゲームが連れていってくれる異世界がなければ、果たして俺の人生はどんなにかつまらなかっただろう。


 セーブ・ファイルを選びながら、少しだけ寂しい気持ちになった。

 このゲームを起動するのは、たぶん今日が最後になるだろう。

 なぜなら今日の夜には、ずっと楽しみにしていた《あのゲーム》が始まるのだから――


「――あっ!! おいっ、中庭に真理峰さんがいるぜっ!!」


 突然の大声が、イヤホンを貫通してきた。

 なんて貧弱な防御力だ。これだから100均の安物は!


「え、マジ?」

「どこどこどこっ?」

「おい押すなよっ! 俺まだ見たことないんだって!」


 受難はそれに留まらず、どばっと押し寄せた人波が、俺をゲームから現実に引き戻した。

 俺の席は窓際にあるのだ。だから窓に人が集まると、必然と俺も巻き込まれてしまう。


「あっ、いた! ベンチのとこ!」

「ひっや~! かっわいー……」

「いやもう、リアルボディでVtuberできるじゃん」

「どういうことだよ! でもわかるわ。二次元かよ」


 人垣の隙間から、中庭の様子がわずかに覗く。

 そのわずかで充分だった。

 木陰のベンチに数人の友達と一緒に座る、そいつ。

 遠く離れていてもなお、ほんの一瞬垣間見えただけにもかかわらず、オーラとしか言いようのない存在感で否応なしに視線を惹きつける女子生徒。


 確か……真理峰桜まりみねさくら、だっけか。

 一学年下にいる、異様に可愛い女子だ。


 曰く、世界観が違う。

 曰く、アバターなしでVtuberができる。

 曰く、街を歩くと100人が二度見して計200回振り返る。


 ……とかなんとか、そんな大袈裟な話が周囲と関わりのない俺の耳にさえ届いてくる、我が校のアイドルってやつ。

 果てには今日の昼飯は何だったとか、今日は何時に登校したとか、そんなクソどうでもいいことまでニュースになる始末――アイドルっていうより王族、お姫様だな。


「あっ、笑った! 笑った!」

「お笑いになった!」

「写真! 誰か写真撮った!?」


 日常の一挙手一投足まで、動物園の動物みたいにいちいち見物されるなんて、嫌になったりしないのかね……。

 ――まあ、どうだっていいか。

 俺は席を立ち、窓に押し寄せてわーきゃー言うクラスメイトたちに背を向けた。

 真理峰桜。

 まず間違いなく、俺の世界には決して登場しないキャラクターだ。






「……ふ。ふっふっふ。ふっふっふっふっふ……!!」


 その夜、俺は自分の部屋で笑みを零れさせていた。

 本日、24時。

 日付変更と同時に、とあるゲームのオープンβテストがスタートする。


《マギックエイジ・オンライン》。


 いわゆるMMORPGというやつで、大勢のプレイヤーが同じ世界に入って遊ぶタイプのゲームだ。

 MMORPGの全盛期はもう10年以上も昔に過ぎ去ったと言われるが、この《MAO》は最新の技術を使用し、ゲーム史上最高のリアリティと豊潤なゲーム体験を約束する――らしい。

 まあ、売り文句はよくあるやつなんだが、事前情報とゲーマーとしての直感から、俺はこのゲームに大きな期待をかけていた。


 何せまだオープンβだからな。

 正式にゲームを始める前に、大きな問題が起こらないか確かめるため、いくつかの機能を制限した上でユーザーに解放するのだ。

 そのため、接続料もパッケージ代も一切かからない。

 プレイに必要なのは、対応するハードと興味関心のみ。

 少しでも興味のあるゲームに、少しでも触れる機会が訪れたならば、それを決して逃さない――俺のポリシーである。


 とはいえ、何不自由なく遊びたければ正式サービスを待つべきなんだろうが、俺は我慢できなかった。

 誰よりも、一刻も早く、このゲームの世界に入りたくて仕方がなかったのだ。

 そのうずうずが顔にも表れていたらしく、妹には「お兄ちゃん、今日キモいねー!」と笑われてしまったが、そんなことは気にもならない。


 さあ、メシは食った。風呂も入った。

 今日、現実でやるべきことは何もない。

 定期テストが近いことには知らないふりをしつつ――


 ――頭の先まで、ゲームの世界に浸かり切ろう!






 ――と、思っていたのに。


「古霧坂里央さん……ですよね?」


 ゲームにログインして、30分も経たない頃だった。

 ゲームシステムを確認していた俺に、別のプレイヤーが話しかけてきた。

 しかも、MAO内で使っているキャラネームではなく……現実の俺の、本名で。


「は……!?」


 驚いたというより、ビビった。

 恐怖である。

 そりゃそうだろう。SNSにアカウントを作った途端に、『お前、●●だろ』って話しかけてくる奴がいたらどうする? 即アカウント削除だ。


「古霧坂里央先輩でしょう? 私は―――あっ!」


 俺は逃げた。

 ダッシュである。

 当たり前だ。俺はゲームでの身バレが何よりも怖いんだ。掲示板で晒されたりするからな!


「ちょっと待っ―――あうっ!」


 俺を追いかけようとした不審者は、ぼてっとその場でコケた。

 思わず足が止まる。

 走ることもできないのか? オープンβの初日から参加してるような奴なのに?


 その疑問から、俺は初めて、そいつの姿をきちんと確かめた。

 桜色の髪をツーサイドアップにした、美少女のアバターだ。

 美少女アバター自体は珍しくも何ともないんだが……なんとなく、その姿に既視感があるような……。


「っててて……酷いじゃないですかぁ、逃げるなんて……」

「す、すまん……。大丈夫か?」


 反射的にそいつのそばまで戻ってしまったのが、運の尽きだった。

 直前までぎこちない動きだったそいつは、唐突にガバリと立ち上がり、俺のアバターの腕を捕まえたのだ。


「なっ……!?」

「つーかまーえた♪」


 くすくすと、そいつは悪戯っぽく笑う。

 ま……まさか、わざとか!?

 俺を引き留めるために、あえてコケてみせた……!?


 な、なんだよ、こいつ……。

 なんで俺の本名を知ってる? 何の目的があって俺に話しかけた?

 無限に湧いてくる警戒心がざわざわと肌を粟立たせる中、そいつはにこやかに言う。


「調べはついているんですよ、古霧坂先輩? あなたが今日このゲームを始めること。ゲームの中での名前や、行動の癖。全部――聞き出してありますから」

「聞き、出す……? 誰からだよ!?」

「あなたの妹さん――古霧坂礼菜れなさんからです」


 妹?

 確かに俺には1歳年下の妹がいるし、礼菜という名前だし、ゲームの話もたまにする。

 ということは、こいつ、礼菜の関係者……? でもあいつの友達に、MMORPGをオープンβからやるようなコアな奴は一人も――


「それでは改めて、私のほうも名乗らせてもらいますね」


 そして、桜色の髪のアバターのそいつは、予想だにしなかったことを告げたのだ。


「私、真理峰桜と言います」


 それは、俺の世界には一生登場しないと思っていた、学校のお姫様の名前で――


「同じ学校のよしみで、私にゲームを教えてくれませんか――先輩?」


 ――軽く首を傾げながら、学校に友達の一人もいない俺に、そんな頼み事をしてきたのだった。






 頭の両端から結んだ髪をちょろんと垂らした、幼げなツーサイドアップ。

 小柄な体格に誂えたような、つぶらで大きな瞳。

 笑うとき、口元に手を当てて小さく肩を揺らすその様からは、品の良さ、育ちの良さがが滲み出ている。


 ゲームのキャラクターの話ではない。

 現実の人間の話だ。


 真理峰桜。


 俺は窓際にある自分の席から、今日も今日とて窓辺に集まった野次馬に混ざって、その浮世離れした下級生の姿を眺めていた。

 ……既視感があったのは当たり前だった。

 あいつ、リアルの自分をモデルにアバターを作ってやがった。

 リアル肉体をそのままゲーム世界に持ってきても違和感がないって、一体どうなってんだよ。


「あー、こっち見ねぇかなぁ」

「見るわけねーじゃん。何の用があんだよ」

「そのくらいの夢見たっていいだろー!?」

「はーい、男子ー! 私たちの真理峰ちゃんに不敬な夢見るのやめてくださーい!」

「視線を! せめてちらっとくらい!!」


 笑い声が教室にさざめく。

 視線を有り難がるって、あいつは現人神か何かかよ。

 CGとタメを張れるくらいの容姿なんだから、その扱いも仕方なくはあるが――


「――あっ!?」

「えっ?」

「今こっち見なかった?」

「っつーか笑わなかったか!?」


 にわかに周りが騒がしくなる。

 ……今。

 真理峰桜は……俺を見た。

 そして意味ありげに、笑ったのだ。


 どうやら、昨夜の出来事は、ゲームが楽しみすぎて見た幻覚ではなかったらしい。

 あいつは確かに昨夜、ゲームの中で俺に話しかけてきた。

 そしてこんな提案をしたのだ――


『実は私、ゲームが趣味なんです。って言ってもアナログゲームなんですけどね。デジタルゲームは専門外なんですけど、このゲーム――MAO? でしたっけ? ――は、前々から気になっていまして!』

『でも、ほら、このゲームって、他の方と協力して遊ぶものなんでしょう? 私みたいな素人が混ざって迷惑をかけるのも忍びないですし、せめて基本くらいは、誰か知っている人に教えてほしいな、って』

『でもでも、周りの友達にこういうコアなゲームをする人がいなくて……。そこで思い出したんです! 礼菜さんのお兄さんがすごくゲームに詳しいって!』

『だから、先輩――』


『――私に、ゲームのこと、教えてくれませんか?』


 ゲーマー歴、たぶん10年くらい。

 生まれてこの方、母親と妹以外の女子と接触せずに生きてきた俺は、学校一の美少女から受けたその誘いに、一切迷うことなく、即座にこう答えた。


『イヤだ』


 そして今度こそ全力で逃げ切って、いつも通りソロで、MAOの世界を楽しんだのだった――


 いや、そりゃそうだろ。

 言葉の端々から浅さが漂ってて、オタクを偽装してるのバレバレだし。

『私にゲームを教えて』って、前世紀から使い古されてるオタサーの姫の逆ナンじゃねえか。

 長年のゲーム経験から、俺は直感したね――これは罠だと。


 たまたま最初に声をかけたのが妹経由で繋がりがあった俺だっただけに過ぎない。

 もしあの提案を受け入れ、パーティを組んでプレイしていたら、きっと他にも男の取り巻きがわらわらと増え、自然とレアアイテムなんかを献上するようになり、男の間で競争になり、空気がギスギスするようになって、芋づる式に引退者が続出――


 ネットの体験談で100回は見た展開だ。

 まさか学校のお姫様が、ゲームの中でもお姫様をおやりあそばされているとはな。


 賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ。

 哀れな先人たちのありがたい犠牲を反面教師とし、あそこはダッシュで逃げるが安定択である。


 しかし、どうするかな。もし今夜もゲームの中で接触してきたら。

 キャラネームを変えるの、結構手間がかかるんだよな……。昨夜、レベル上げとかやる前にアカウント作り直せばよかった。

 まあ、真理峰はゲームには不慣れな様子だった。早いところレベルを上げて、敵モンスターが強いエリアに拠点を移せば、追ってはこられないだろう――




 ――という甘い考えを、俺は数時間後に後悔した。




「え……?」

「うそ……なんで?」


 放課後になり、さあ早く帰ってMAOをしようと思った矢先――教室の外がにわかにざわつき始めた。

 なんだ? と視線を廊下に振り向けた、まさにそこに。

 真理峰桜が、燦然たる存在感を放ちながら、悠々と歩いてきたのだ。


 それだけなら、どうでもいいことだった。

 俺には何の関係もないことだった。

 しかし、通学鞄を肩から提げたそいつは、恐ろしいことに俺の教室の前で立ち止まり……有り得ないことに、窓に背中をもたせかけたのだ。

 まるで、誰かが出てくるのを待つように。


「だ……誰? 誰だっ……!?」

「だれだれ? え、だれ!?」


 当然、教室の中で犯人探しが始まる。

 あの真理峰桜を待たせているのは誰なのか?


 今のところ、俺に疑いの目を向ける者はいない。そりゃそうだろう。学校でも日がな一日、一人でゲームをしている俺が、どうして学校で一番の美少女と一緒に帰ることになる?

 もし、ここで俺が教室を出て、真理峰がそれについてきたりしたら……大変なことになる。

 俺は一躍、注目の的となり、愛すべき静かなゲームライフを脅かされることに……!


 教室の外の真理峰が一瞬だけ俺を見て、薄く笑った気がした。

 何もかも計算の上かよ!

 くっそ……! どうすれば……どうすれば穏便に教室を脱出できる!?


 教室内をあちこち見回して脱出路を探したが……どうやったところで、廊下を通らずに教室を出ることはできない。

 詰みだった。

 遅きに失したその時点で、真理峰桜の勝ちだったのだ。


「――はい。もしもし」


 俺が密かに歯噛みしたとき、真理峰が不意にスマホを取り出して、耳に当てた。


「あれ? もしかして私、場所間違えてる? ……あー、そっか。ごめんごめん。勘違いしてた」


 そんな話をしながら、窓にもたせかけていた背中を離す。

 教室内にも『なぁんだ』という空気が流れた。

 だが、俺は見逃さない。

 真理峰が耳に当てたスマホには、何も映っていなかった。


 去り際。

 どこにも繋がっていないスマホに告げられた言葉を、俺は遺憾ながらも聞いてしまう。


「――それじゃあ、SE74で。ばいばーい」


 SE……74。


「えすいー……?」

「どこだ?」


 教室内には戸惑いの空気が流れるが、俺はすぐにピンと来た。

 ゲームの――特にFPSなんかで使う言い回しだ。

 SEはサウス・イースト――南東のこと。

 南東方向、74メートル。


 俺はゲームと同じように脳内で学校周辺のマップを広げ、その場所を特定した。

 どうやらここが、待ち合わせの場所らしい。






「こんにちはっ。せーんぱい♪」


 通学路から外れた、人気のない路地に入ったとき、後輩が電信柱の陰からひょっこりと顔を出した。

 瞬間、俺はずりりと後ずさる。

 真理峰桜の容姿は、近くで見るとますますもって、現実離れしていた。

 中学生らしいあどけなさを持った、人間みたいに整った目鼻立ちは言うに及ばず。空気に揺れる黒い髪の一本一本から、その滑らかさ、艶めき、細さといった情報が脳に直接流し込まれるようで、情報量で頭がパニックになりそうだった。


 彼我の距離は約3メートル。

 これだけの距離を取っても、謎の動悸が止まらない。

 なんだこいつ。

 なんだこいつ。

 なんだこいつ。

 不審な行動を差し引いても、その見た目だけで警戒心を刺激する。

 こんな冗談みたいに綺麗な女子のそばで息を吸うなんて――それだけで天罰でも喰らうんじゃないかって気になってくるのだ。


「なんですか、その態度」


 真理峰桜が、おかしそうにくすくすと笑う。

 瞬間、ざわりと粟立った肌を、俺は何とか宥めすかす。


「別に取って食いやしませんよ? 安心安全、アットホームな後輩です」

「や、やめろ。フレンドリーに接するな! 何が目的だ……? どうして俺に付きまとう!?」


 一歩、真理峰が距離を詰めてきたので、一歩、俺も距離を離した。

 これ以上近付かれたら、脳が仕事を放棄してしまいそうだ。

 真理峰は不服そうに軽く頬を膨らませ、


「人をストーカーみたいに言わないでください、失礼な。そんなに警戒するなら無視して帰っちゃえば良かったじゃないですか」

「それは……まあ、そうなんだが……」


 でも、それはなんか……。


「……ふふ」


 突然、真理峰がにやついて、ぴょんっと飛び石を渡るように距離を詰めてきた。

 逃げようと思ったが、その前に下から顔を覗き込まれる。

 大きくつぶらな瞳に吸い込まれたように、足がその場に縫い止められた。


「先輩はやっぱり、私の思った通りの人ですね」

「……あ、扱いやすいオタクだってか……?」

「それもありますけどね? ふふっ。すっごく私を意識してるのに、それに抵抗しようとしてもいる――何だか泥棒に吼える小型犬みたいで可愛いです」

「んだと!?」


 俺がいつお前のことなんか意識した!?

 ちょっと見た目が可愛いからって調子に乗んな!

 ――という台詞を口にできずにもごもごしていると、真理峰はにやあっとからかうように笑った。


「おやおや? オタクさんのプライドを刺激しちゃいましたぁ? ふふっ、これはこれはすみません! ゲームにしか興味がないはずの先輩が意識しちゃうくらい可愛くて!」

「……うっぜぇええ……」


 何コイツ。なんでこんな奴が人気あんの?

 真理峰は口元に緩く握った拳を当てて、くすくすと悪戯っぽく笑うと、すっと身を引いて言った。


「私が思った通りだって言ったのは、そういうところですよ」

「は?」

「とっても負けず嫌いで……でも、ちゃんと負けは認めるところ」


 ……負けず嫌いか。

 さっきの教室の場面、俺はこいつに思考と行動で上回られ、詰まされた。

 あれがゲームだったなら、確実に俺の負けだ。

 だから……敗者の義務を、果たすべきだと思ったんだ。


「私、負けず嫌いな人が好きなんですよね~」

「誰にでもそう言ってんだろ」

「いえいえ、激レアですよ? 3d10でゾロ目になるくらいの低確率です」

「………………ん?」


 さんでぃーじゅう?

 耳慣れない言葉に思考が停まっていると、真理峰はくすりと口角を上げた。


「TRPG用語で、10面ダイスを3個振るという意味です。ご存知ありませんでした?」

「いや……っていうか、TRPG用語って……」

「アナログゲームが趣味だって言ったじゃないですか」

「…………適当に言ってるもんだと」

「本当に失礼しちゃいますね。ま、そんなところだと思ってましたけど」


 ぷくく、とおかしそうに肩を揺らす真理峰。

 ということは……昨夜ゲームで言ってたことも、あながち適当じゃない、のか?

 いやいや、騙されるな。ゲームに理解があるポーズを取ってるだけかもしれない。用語くらい調べれば誰でも使える。


「じゃあ、そろそろ本題に入りますけど」

「ゲームを教えるって話なら断る。俺はソロでやりたいんだ」

「どうしてですか? MMORPGって人とやるものだと思ってましたけど」

「……とにかく、一人のほうがいいんだよ」


 他人と比べず。

 他人と競わず。

 一人で気楽に気ままに気兼ねなく、自分が面白いと思うところだけを遊び尽くし、飽きれば次のゲームに行く――それが一番健全で楽しい、ゲームの遊び方だ。

 他人と一緒なんて……面倒な。


「まあ、とりあえずそっちはいいんです。今日は別件でして」

「別件?」

「――リアル脱出ゲームってあるじゃないですか?」


 そう言って、真理峰はぺらりと、2枚の長方形の紙を取り出した。

 チケット?


「前から興味あったんですけど、あれって一人で行くと知らない人とチームになっちゃうんでしょう? なんとなく抵抗があって――」


 ふふ、と真理峰は意地悪く笑う。


「――先輩が一緒に来てくれると安心なんですけど」


 こいつ――本当に、俺の心理を読み切っている。


 今、こいつが語ったことは、そのまま俺にも当てはまる。

 俺もリアル脱出ゲームには興味があった。何せデジタルの脱出ゲームをそのまま現実に持ってきた代物だ。

 だが、さすがにソロで行くのは抵抗があって、手が出せないでいた。

 誰かが一緒に行ってくれれば――妹の礼菜はそういうの興味なさそうだし。


 ことゲームにおいて、俺にはひとつの信条がある。

 少しでも興味があるゲームに、少しでも触れる機会が訪れたなら、それを決して逃さない。

 この信条を徹底してきたからこそ、今までにたくさんの傑作に出会うことができた――MAOだってそのひとつだ。


 真理峰は、そんな俺の心理を覗き見ているかのように、チケットまで揃えて、手を差し伸べてきたのだ。


 ちょっと……いいや、かなり怖い。

 この後輩、どれだけ俺のことを調べてきてるの?

 というか、妹という情報源があるとはいえ、こんなに俺の行動原理を分析できるもんなのか?


「さあ、どうしますか、先輩?」


 胡散臭い。

 見惚れそうなくらい魅惑的な微笑を浮かべたこの後輩は、空前絶後に胡散臭い。

 ここまで綺麗に敷かれたレールを、果たして辿っていっていいもんなのか?

 リアル脱出ゲームは気になる……気になるが、俺も一緒に行く相手のアテがまったくないわけでもないのだ。そう……ぼっちの切り札、家族である。いざとなれば、妹に一緒に来てもらうという手もないではないのだ。

 それを考えると……今、この胡散臭い後輩の思惑に乗らなくとも――


「あれ?」


 ことりと、真理峰は小首を傾げ。

 言った。




「逃げるんですか、先輩?」


「やってやろうじゃねえか」




 反射的に言葉が出た。

 ああ、ああ、ああ! 言ったなオイ。煽ったよなぁ、今!

 この俺、古霧坂里央はこれまで、あらゆる対戦ゲームにおいて、対戦相手を煽ってくるノーマナー野郎を、ことごとく捻じ伏せてきた……。

 例外はない。

 たとえ相手が胡散臭さしかない、地雷臭全開の女であってもだ!


「舐めるなよ、後輩……」


 溢れる闘志を胸に、俺は異様に見目麗しい後輩を見下ろした。


「俺は初心者に合わせたりとかできないからな。置いてけぼりにされても泣くなよ?」

「心配ご無用です」


 対して、真理峰桜は可愛らしさの欠片もない、不敵な笑みを浮かべた。


「リアル脱出ゲームなら経験値は対等。――そちらこそ、ちゃんとついてきてくださいね?」


 頭の奥にこびりついた、投げ捨てられたコントローラーの光景が。

 束の間……その不敵な笑みに、塗り潰された。






 誰に教えられたわけでもない。

 俺は自然と、生まれつき、人よりもゲームが上手かった。


 最初はいい。誰もが初心者だ。

 全員が横並びで、対等で、わいわいと楽しみながら、一緒に上手くなっていける。

 だが――何事も、上手くなる速度には、個人差があるのだ。

 ことゲームにおいて、俺は、その速度が、めちゃくちゃに速かった。


 格闘ゲームでクラスメイトが相手になったのは何時間までだったか。

 初日にパーフェクト勝利を連発するようになって、次の日からは誰もやらなくなった。

 ネット対戦でランク1位を極めたのは何日目だったか。

 負かした相手にメールでチーター扱いされて、気付いたときには炎上していた。


 俺は別に、最強を目指しているわけじゃない。

 プロゲーマーになりたいわけじゃないし、eスポーツなんて見るだけで充分だ。


 ただ、普通に、遊びたかっただけ。

 でも……手を抜くのは、嫌だっただけ。


 何か悪いことをしたのかよ?

 エンジョイ勢が強くて、何か問題でもあるのか?


 だったらいいよ。もういいよ。

 一人で勝手にやっとくよ。

 ランキングだって独占しない。納得したら出ていくよ。


 それでいいんだろ?

 なあ。




 ――本当に誰も、ついてきてくれないのかよ。




「3S、42M 11O――」

「3秒、42分、11時ですね。あっちの時計の針を動かしましょう」


「えっと、なんでしょう、この図形……」

「あっ。あっちの影だ。あの変な置き物を回転させると――」


「――あっ! はいはい! わかりました! スイッチを押す順番!」

「いや、俺もわかったから! 俺のほうが早かったから!!」

「手を挙げたのは私が先ですぅーっ!!」


 それは、初めての感覚だった。

 手は抜いてない。

 気も遣ってない。

 本気で、全力で、一直線にゲームを攻略している――


 ――なのに、隣から人の気配が消えない。


 横を見れば、常にそいつがいた。

 真理峰桜。

 傍目にはとてもゲームをするようなタイプには見えない、小柄な体格の美少女が。

 ついてくるどころじゃない。ほとんど互角の速度で問題を解き、猛然とクリアに近付いている。

 気を抜くと、俺が置いてけぼりにされそうだった。


 なんだ、こいつ……!?

 普通じゃない。本当にリアル脱出ゲーム初心者なのか!?


 地頭がいいでは済まされない。あまりに勘が良すぎる。問題を見た瞬間に、すでに解答の糸口を掴んでいる感じだ。

 俺の場合、デジタルの脱出ゲームの経験や、謎解き系アドベンチャーゲームの経験が活きている。それすらもなしでこの速度だとすれば――それは、天性のゲームセンス。


 誰だよ、こいつをオタク偽装とか言った奴は。

 オタサーの姫の誘い文句なんかじゃない。

 こいつに姫プさせるなんて不可能だ。


 こいつっ……本物の、ゲームの天才だ!!


「大丈夫ですか、先輩?」


 次に進むための鍵を手に取りながら、真理峰が振り返った。


?」


 …………上等だ。

 上等だ―――ッ!!






「――えっ!? お、お疲れ様でしたっ……!」


 俺たちが出口を抜け、脱出を果たしたとき、待っていた係員が一斉に顔色を変えた。


「脱出おめでとうございま、す……? ……あの、失礼ですが……ちゃんと、謎を解いてきたんですよね?」

「……はあ……はあ……」

「はあああああ…………」


 出口までほとんど走ってきたのと、脳味噌をフル回転させていたのとで、俺も真理峰も、すぐには答えられなかった。

 やがて息が整ってくると、真理峰が、訊かれたこととは全然違うことを訊き返した。


「すみません……タイムって、どのくらいだったかわかりますか?」

「え、ええーとですね……」


 係員は戸惑った顔つきで、何度も手元の端末を確認した。

 それからようやく、幽霊でも見たような顔つきで、俺たちの脱出タイムを告げる。


「……23分、です」

「そうですか……。……はあああああ……」


 大きな溜め息をつきながら、真理峰はその場にしゃがみ込む。

 そして俺の顔を見上げて、自嘲するように笑った。


「知ってますか、先輩? 東京公演での最短記録は……だったらしいですよ」

「……マジか……。

「切れませんでしたねえ……」

「マジかあーっ……!」


 俺は真理峰の隣に座り込んで、23分ぶりの空を見上げた。

 半分くらいはすでに夕焼けに染まり、昼とのあわいを紺色に滲ませている。

 あと1分かあ……。


「でも、謎を解いた数では私の勝ちでしたね」

「は? いやいや、俺のほうが多かったから」

「いえいえ、私でしょう」

「いや俺」

「いえ私」

「俺!」

「私!」

「君たち、何の勝負してるの……」


 呆れたような係員の声は耳から耳へ抜ける。

 代わりに頭の中で反芻するのは、この23分間の記憶だった。


 全力で走り続けた23分。

 なのに、隣に誰かが居続けた23分。

 誰もコントローラーを投げなかった――23分。


「先輩」

「ん?」

「楽しかったですね」


 真理峰は晴れやかな笑顔を浮かべていた。

 

 俺も自然と、口を綻ばせた。


「ああ――めっちゃくちゃ、楽しかった」


 気楽だった。

 気ままだった。

 気兼ねなかった。


 だけど、一人じゃなかった。


 こんなことがあるなんて、思わなかった。

 こんな奴がいるなんて……思わなかった。

 しかも、それがこんな……誰もが振り返る、学校一の人気者の、俺とは住んでる世界が違うような奴だなんて……。


「……ふふっ」

「……なんだよ?」


 急に真理峰が笑ったので、隣を見る。

 真理峰は自分の膝を抱えるようにしながら、ことりと首を傾げて言った。


「先輩は、アバターより本物のほうが可愛いですね?」


 数瞬、反応が遅れた。


「はっ……ああ!?」

「ふふふっ。アバター、先輩もリアル寄りにしたほうがいいですよ? そっちのほうが絶対モテます」

「モテるって、誰にだよ……」

「私に?」

「だったら絶対やらねえ」

「ええー? あまのじゃくな人ですねえ」


 どっちがだよ。


「……あのー、すみません」


 係員が遠慮がちに話しかけてきた。


「ここ、人が通るから。イチャつくなら外に出てからお願いできますかね?」


 ……んん?

 俺は真理峰と顔を見合わせた。


「……イチャ……」

「……つく……?」

「えっ? ……君たち、カップルじゃないの?」


 は?


「「違いますけど」」

「ええー……うっそだろ……」


 なんでそんな嘘をつくんだよ。

 大きな誤解はあったようだが、邪魔なのは事実なので、俺たちはそそくさとゲーム会場を後にした。


 夕焼けに染まる道を、並んで歩いていく。

 現実の街はこのまま眠っていくが、俺たち――そう、ゲーマーおれたちにとってはそうじゃない。


「先輩。今日もMAOにログインするんですか?」

「当たり前だろ。オープンβの期間は限られてるんだ」

「どこの宿でログアウトしました?」

「……あー……」

「なんですか。今更答えない気ですか? 私と遊ぶだけ遊んでおいて……」

「人聞きが悪い!」


 こいつがちやほやされるの大好きなオタサーの姫志望じゃないってのはわかった。

 どうやら詐欺の類じゃないってことも。

 そして――俺の遊びゲームに、ついてこられる奴だってことも。


 だったら……まあ。

 ……いいか。


「……王都エムルの東のほうにある《精霊の止まり木亭》ってとこだ」

「じゃあそこで待っててくださいよ。迎えに行きますから。台詞のご希望はありますか?」

「台詞?」

「教師代に好きな台詞で出迎えてあげます。やっぱり『お帰りなさいませご主人様』ですか?」

「いらねえよ! 普通に来い! 普通に!」

「ロールプレイってやつですよ。ゲーマーのくせに話が通じませんねえ、先輩は」

「こっちの台詞だよ」


 道行く人々が振り返る。

 その視線が向く先は、いわずもがな真理峰桜。

 隣を歩く俺のことは、きっと視界にも入ってないに違いない。


 俺とこいつは、違う世界の人間だ。

 でも、そんなことは関係ない。

 だって――


 真理峰は軽く腰を折って、あざとい上目遣いで俺の顔を見上げた。


「初心者なんですから、優しく教えてくださいね、先輩?」

「優しくは教えねえよ。ちんたらやってたらお前、勝手に先行っちまうだろ」

「バレましたか」

「バレるわ」


 くすくす、と密やかに笑って、真理峰は肩を揺らす。


 俺たちはまったく違う世界に住む、何の関わりもない人間だ。

 互いの人生には登場しない、違うジャンルのキャラクターだ。


 ただし―――それは、現実この世界に限った話である。

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