勉強を教えて

 帰宅後、私はいつも通り、すぐにリッキーの家へ向かった。本人の言っていた通り、いつも敷地入口でみんなを待っているリッキーの姿はない。門のところにひっそりついているインターフォンを押すと、リッキーのおばあさんが「いらっしゃい」と出迎えてくれた。

 力也、今日は用事があってね。もしかしたら、みんながいる間には、帰ってこないかもしれないのよ。もしそうなったら、ごめんね。私を案内しながら話すおばあさんの声は、いつもに増して高くてやわらかくて、なんだかとても嬉しそうだった。不思議に思いつつ、連れられていった部屋を開けると、もう私以外の全員が畳に敷いた座布団へ腰を下ろしていた。

「メスゴリラ、遅いよー。いつも一番に来んのにー」

 宮崎くんの間延びした声が飛んでくる。

「いいでしょ、別に」

 私はひとつ空いた座布団へ座った。清水さんの横だ。反対隣には、宮崎くんがいる。

「今、清水さんに算数教えてもらってたんだ。今日やったとこ、全っ然分かんなくて」

「真美ちゃんに教えてもらえばいいのに。頭いいよ、あの子」

 宮崎くんは、えー、と不満げな声を上げた。

「だって、真美ちゃんとは、帰る時しか話さないもん。清水さんならさ、こうやって学校終わってからでも一緒にいる時間長いじゃん。だから、学校で聞けなかったこととかも教えてもらえる。今日の続きだって、明日学校でねってできるし」

 私の頭には真美ちゃんの幸せそうな顔が浮かんでいた。それが、宮崎くんが言葉を口にする度、どんどん悲しげに変わっていく。

「宮崎くん、真美ちゃんと付き合う手前の状態でしょ? 真美ちゃんに聞いてあげなよ」

 思いがけず、声が高くなった。宮崎くんは、きょとんとしている。

「でも、付き合うのと、分かんないとこ教えてもらうのは別じゃん。勉強教えてもらったからって、真美ちゃんと付き合うわけでも、清水さんと付き合うわけでもないよ」

 そりゃそうだけど……。その言葉の続きを頭で組み立てている時、シャーっと鋭い音を立てて、障子が開いた。

「やっぱ、みんな揃ってんじゃん。めっちゃ走ってきたのに」

 はぁはぁ肩で息をするリッキーがいた。

「リッキー、早かったね!」

 宮崎くんが言った。確かに早い。早すぎる。おばあさんは遅くなるって言ってたのに。

「こんなに早くていいの?」

 私が聞いても、リッキーはあっけらかんとしている。

「別に。ちょっと顔出てきたくらいのもんだし。それより、何話してたんだよ? なんかもめてただろ?」

 リッキーは目にキラリと好奇の光を映している。一瞬忘れかけていた宮崎くんへの苛立ちが、お腹でフツフツした。

「宮崎くんが清水さんに勉強教えてもらってて、だったら真美ちゃんに教わったらって言ったの」

「なんで?」

 間髪入れずにリッキーが聞いてくる。

「だって、宮崎くんは真美ちゃんと付き合う手前でしょ? だったら真美ちゃんに教えてもらった方がいいじゃん。他の女の子に聞いたんじゃ、真美ちゃんもいい気しないよ」

 リッキーの口角が、なるほど、と言うように得意げに上がった。

「だからやめとけって言ったんだよ、和真。誰に勉強教わるかなんて和真の勝手なのに、女子はこうやって文句つけてくるだろ? 付き合うかどうかと勉強教えてもらうの関係ねぇじゃん」

 リッキーが言うのを聞いていると、一気に怒りが突き上げてきた。宮崎くんの時より、何倍も大きい怒りが。

 ちょうど座布団を引っ張り出して座ろうとしていたリッキーの頭を、私は思い切り力を込めてひっぱたいた。

「いってぇな! 何すんだよ!」

「リッキーも宮崎くんも最低だよ! 真美ちゃんが宮崎くんのこと大好きなの分かってるくせに、なんでそんなにいい加減に扱えんの?」

「ごめんね」

 その細い声は、リッキーのものでも、宮崎くんのものでも、なかった。清水さんだ。

「山崎さんの言う通り、かも。私じゃなくて、吉村さんに教えてもらった方がいいね。私、何も考えてなくて――」

「付き合うかもって、そんな不便なものなの?」

 清水さんをさえぎったのは、宮崎くんだった。いつもと違う、低く、落ち着いた調子の声に、背中がヒヤリとして、私は宮崎くんを見ていた。彼は続ける。

「オレは、ただ、自分のやりやすいようにしたいだけ。算数苦手だから、教わりやすい人に教えてもらいたいって、それだけだよ。なのに、付き合うかもしれないってだけで、そんなことも自由にできなくなるんなら、オレ、誰とも付き合わないよ。真美ちゃんにも、そう言う」

 思いがけない展開に、ハッとなった。

「だめだよ、そんなの……!」

 とっさに声が出たけれど、言葉はそれ以上続かなかった。何か言わなくちゃいけないのに、ひとつも言葉がなくて、意識が頭の中を巡るばっかりだ。私が何も言えないでいるうちに、リッキーが宮崎くんに加勢した。

「だめじゃないだろ。試しにかるーく付き合うっぽいことしてみたら、すっげぇ束縛されて、ムリって思ったってことじゃん。もともと付き合えないかもしれないって話だったんだから、その通りになっただけ」

「真美ちゃんが束縛したわけじゃないじゃん! 私が……私が勝手に言っちゃっただけで……」

 私が必死に訴えても、リッキーは、全然聞いてくれない。お前から見て吉村さんは、他の女子に和真が勉強教えてもらってたら機嫌悪くすんだろ? じゃあ、そうなるよ。そう言って、リッキーは宮崎くんの方を向いた。

「和真もさ、最初っからこうなんの、分かってたじゃん。初めからキッパリ断れば良かったんだよ」

「うーん、そうかなぁ。オレは大丈夫だと思ってたんだけどなぁ」

 宮崎くんの声には、いつもの呑気な雰囲気が戻ってきていた。

 和真はお人好しすぎんだよ。で、誰も得しない結果になんじゃん。

 えー。でも相手のことなんにも知らないのに、すぐにだめなんて言えないじゃんか。

 二人の会話がすごく遠くで交わされているように、私には聞こえた。止めたいのに、私の言葉にならない言葉は届きようもなくて、こうあるべきって思うのと全然違う方向へ、話が進んでいってしまう。

「真美ちゃんがかわいそうだよ」

 焦りの末にやっと出た言葉は、やっぱりリッキーにも宮崎くんにも、響かなかったらしい。リッキーは鋭い目をして、宮崎くんはちょっと肩をすくめて、しょうがないじゃん、と口を揃えた。二人のビクともしない態度を見て、私ははっきりと何を言ってもだめだと分かった。なんだかすごく悲しくなって、彼らを視界に入れないようにしながら立ち上がる。

「私、帰る」

「え? なんで?」

 宮崎くんが高い声を出した。何の含みもない、純粋な「なんで?」だった。でも、

「勝手に帰れよ。一人でふてくされてさ。言っとくけど、和真も清水さんも、一ミリも悪くないからな。勉強教えてもらうって単純なことややこしくしたのはお前だ。和真にフラれる吉村さんがかわいそうだって言うなら、それも全部お前のせいだ」

 その辺にあるものを全部蹴りつけてやりたいくらい、悔しさがお腹でグルグル回っていた。目の縁に涙が溜まってくる。気持ちを知られたくなくて、私は顔をそむけたまま、部屋を出ていった。

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