リッキーと私

 リッキーこと榎本力也は、私の幼なじみ兼クラスメイトの小学六年生。遠視用メガネ越しのギョロリと大きく見える目が印象的な男子だ。いつも軽口を叩いて回っているけれど、それが、おしゃべりな気の良い奴、という風では全然ない。他人が傷つくだろう攻撃的な言葉やいわゆる下ネタを、意図的に連発しているとしか思えないのだ。上島くんの件もそうだ。彼と、そして宮崎くんとはいつも一緒につるんでいるのに、その二人にだって、リッキーの容赦ない言葉は向かっていく。そして、私に対しても。

 キーンコーン……、と間延びしたチャイムが響き始めると同時に、教室は騒がしくなる。椅子が床をこする音、潮の満ち干きみたいにザワザワした話し声に、遠くの席へ呼びかける大声。そのうるささに、後半の「カーンコーン」は飲み込まれてしまう。

 私は隣の席の真美ちゃんとしゃべっていた。

 さっきのさ、「露悪的」って、リッキーのことだよね、と私が言うと、真美ちゃんも、本当だ、と頷き、続ける。いつも嫌なことばっかり言うもんね。せっかくいいことしてんのに、宮崎くん、かわいそう。

 んー、でも宮崎くんはそういうの気にするキャラじゃなくない? やっぱりかわいそうなのは上島くん。

 いや、まあ、そうだけど、宮崎くんはすごく優しい気持ちで――

「おい、メスゴリラ!」

 私たちの会話を遮って、後ろから声が飛んできた。休み時間になると誰かしらに投げかけられる、リッキーの嵐みたいなからかいだ。「メスゴリラ」というのは、いつの間にか男子の間に浸透してしまった私のあだ名。命名したのは、もちろんリッキーだ。今では「山崎かな」という本名で私を呼ぶ男子は、ほとんどいない。

 私が振り返ると、一番後ろの席の机に座ったリッキーが、キラリといたずらっぽい光を映し、目を細めた。

「今度さ、郷城中さとしろちゅうでバスケの試合があんだけどさ、お前行くといいよ。オレのいとこが出んだけど、そいつ、ゴリラだからさ。お前とだったら、超お似合い。ゴリラ同士だし、どっちもバスケやってんだからさ!」

 くだらないことを、尻上がりの小馬鹿にしたような調子でまくし立てるリッキー。私は怒りの全部を眉間にかき集めて、思い切り嫌な顔をしてやった。そうして前へ向き直る。でも、背中にはリッキーの言葉が浴びせられ続けていた。

 怪力メスゴリラとオスゴリラ。あ、でも結婚式とか行かないからな。オレは一応人間だから、動物の結婚式とか怖くて行けなーい。

 

 リッキーは、いつもこんな感じだ。毎日毎日、取っかえ引っ変えクラスメイトをからかって、はしゃいでいる。当然煙たがられるし、一部の男子からは敵視されてもいるようだけれど、リッキーにそれで怯む様子はない。どれだけ冷ややかな目を向けられても、悪意の透けた言葉で人の気にしているところを小突き回す。上島くんなんて、「うんこ」話で笑いものにされただけじゃない。昨年のことだけど、顔立ちがあまり整っていないからという理由で、リッキーは彼に「顔面障害者」なんてひどいあだ名をつけたらしいのだ。当時、私は違うクラスだったから詳しいことは知らないけれど、リッキーが「顔面障害者!」と騒いでいたことは、何となく知っている。その時から同じクラスだった宮崎くんは、リッキーのように上島くんをひどいあだ名で呼んだりはしていなかったと思うけど、それでもリッキーの悪ふざけに乗ってしまうことは、よくある。本人に悪気はないのだろうけど……。空気が読めないって、恐ろしいことだ。そして、あの二人と上島くんが仲良くしているのも、すごく不思議だ。

 

 でも、リッキーも昔から「露悪的」だったわけじゃない。ずっとずっと前、保育園で出会った頃は、今とは全然違っていた。

 私が保育園に入ったのは、三歳の時。小さい頃の記憶なんて、ほとんど残っていないけれど、初めての登園が怖かったことは覚えている。門のところでお母さんと別れると、とたんに鼓動が太鼓みたいにドンドンドンと胸を打ち始め、手が変に震えた。先生が、ブルブルする私の手を取って中へ連れて行ってくれたけど、なぜだかその手の感触も、その他の見えるものも聞こえるものも全部が遠くて、ただ、私の耳には自分の心音ばかりが響いてきた。

 他の子たちの中へ放り込まれても同じで、私は周りを薄もやで覆われてしまったような感覚のまま、何をしたらいいかも分からず、一人きりで座っていた。その時、

 あそぼう。

 突然、薄もやを突き破って、ひどく鮮やかな高い声がした。驚いて顔を上げると、すぐそこに自分より少し小さな男の子が立っていた。まだメガネをかけていないためか、今よりずっと優しい目つきに見えた。彼は黒目がちな目を三日月型に細めて笑った。そして、そっと私の手に手を重ねると、もう一度、遊ぼう、と言った。熱くて少し湿った手のひらの温度に、固く絡まって動かなくなっていた心がするする解けていった。私は幼いリッキーに手を引かれ、みんなの輪の中へ入っていった。

 あの時のリッキーの手の感触は、焼き込まれたみたいに手のひらに残っている。今では、もう失われてしまっただろう感触。

 それから、リッキーとは小学二年生まで、ずっと同じクラスだった。その頃、彼はまだ「露悪的」じゃなかった。けれど、一度転校し、五年生で戻ってきたリッキーは、すっかり今のリッキーになっていた。

 いったい、何がどうなったらここまで人が変わるのか、全然分からない。たぶん、私は二年生までずっとリッキーに恋していたけれど、戻ってきた彼を見て、その思いは再燃するどころか、あっという間に冷めてしまった。

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