あれから意識を手放した女は、暫しの間、夢を見た。


男が自分を解体する場面。

バラバラになった自分の欠片を、男が積み木のようにして遊ぶ場面。

真っ白な皿にこんもりと盛り付けられた自分の欠片を、男が黙々と口に運ぶ場面。


まるで幽霊にでもなったかのような俯瞰で、女はその光景を淡々と眺めていた。



ぷつっ、と場面が切り替わった。



何故が視界は閉ざされていた。

熱くも寒くもない。わかるのは、ただひどく心地の良い浮遊感に身体が包まれている、その僅かな感覚のみ。


ふいに視界が明るくなった。

鮮明には見えない。閉じた目に目映い光を浴びせられたような、強烈な刺激。



「   」



何かが聞こえた。

それが何か意味を持った音なのはなんとなく理解できたが、その意味まではわからない。


次の瞬間、全身に感覚が押し寄せてきた。

あの浮遊感はもうない。

自分が“取り出された”のだと理解した。その意味はやはりわからない。


ふわりと柔らかい物に包まれ、全身を拭われて、また何かで全身を覆われた。多分、これは服だ。

“その人”は予想以上の重みに苦労しつつ、女を何かの上に慎重に乗せると、ふうっ、と一息つき、それから後ろに周り込んで、ゆっくりと歩き出した。


「車椅子押すのなんて、初めてだよ」


いつの間にか、女は“その人”の言葉を理解できるようになっていた。

その男がどんな人物で、自分にとってどんな存在なのか、男が先程車椅子に女を乗せる時よりもさらに苦労して車の助手席に乗せるまでの間に、全て思い出した。


「憂子、わかるかい?僕だよ」


ここは家だ。女と男、2人が住む家。その寝室。

頭は働くようになったが、まだ身体を自由に動かすまでは出来ないようだ。


ぎこちない笑みで顔を覗き込んでくる男を、女は無言で見詰め返した。

男はさらにぎこちなく、それでも必死で笑顔を見せようと、口元を歪ませた。

女は尚も黙ったままでいた。



それから男は毎日甲斐甲斐しく女の世話をするようになった。

女は人形のように、されるがままでいた。


「君はめっきり喋らなくなったね。手足は自由に動かせるようになったし、食事も摂れるようになった。けれど、どうしてだろう。“還って”きてからの君は、声を失くしてしまったように静かだ」


女はいまだ一言も発する事なく、ひたすら人形のように沈黙し続けた。

反対に男は以前よりよく喋るようになった。

口数が増え、よく笑うようになった。

多少ぎこちなさが残るものの、これまで無口で口下手で、内向的な性格だった男とは見違えるほど、落ち着いた話し方や、自然な表情ができるようになっていた。


一向に声を発する気配を見せない女に対して、男は話し掛けはするものの、返事を期待したりすることは諦めたようだった。

それに女もあえて逆らわず、すっかり声が出なくなってしまったふりをし続けた。

何となく、男がそう望んでいるように思えたからだ。


妻として夫を想うような愛情は完全に尽きていた。

けれど、一度は愛した男だ。愛情はなくとも、“情”のようなものは残っていた。


女はゆっくりと時間をかけて、自力で寝起きしたり、ベッドから立ち上がって歩けるまでに回復した。

久しぶりに自らの力で立って歩ける。以前は当たり前のようにできていたことが、再びできるようになった喜び。

目の前にはその様子をぼんやり立ち尽くしたまま眺めていた男がいて、女はその嬉しさを口に出さないように必死に噛み締めながら、けれども身体全体を使って伝えるように抱き着いた。



瞬間、びくりと男が身を堅くさせたのがわかった。



やめろ、放せ、などの言葉はなく。

突き飛ばしたり、驚きや怒りをあらわにすることもない。

ただ口を堅く引き結び、何かに耐えるように拳を握り締めたまま、その手は女の身体を抱き返すことはなかった。



それは静かな拒絶だった。



その日の夜、男は再び女を殺害しようとした。

腕と脚を切り落とし、女の身体の自由を奪うのが目的だったらしい。


女はようやく理解した。

男が求めていたのは、余計な口を利かず、ただ黙って傍に寄り添ってくれる人形のような存在だと。

あまりにも身勝手な理由だった。

だったら最初から自由に動かせる手足や、喜びや悲しみなどと余計な感情も与えず、無理矢理人の形に押し込めてつくり変えるような真似をしてほしくなかった。


男への2度目の失望。

つまらない男だと心底思った。本当に、どうしようもない男。



気が付くと、女は男が握っていた包丁を奪い取り、それを男の腹目掛けて勢いよく突き立てていた。

慌ただしい時間が過ぎ、しばらくすると男はぴくりとも動かなくなった。

すっかり静まり返った部屋の中、静寂のあまり鳴り響くように聞こえる耳鳴りが、妙に耳について離れない。


悲しいとは思わなかった。恐ろしいとも思わなかった。

ただ男を殺したという事実だけが胸に残った。

感情の記憶ではない。現実に起こった出来事、その記録だけだった。


ひとまず、女は男の身体をバラバラに解体することから始めた。

ようやく身体が自由に動かせるようになったばかりの女に、それなりの体格をした男一人を解体するというのはかなりの重労働だった。


全く、骨が折れる。

それはそうと、そもそも私の身体には、折れるような骨などあるのだろうか?

そんなことを考えながら、女は黙々と作業を続けた。


長い時間を掛けようやく解体し終えたら、一部を冷凍庫に保存し、それ以外の部分はいくつかに分けて鞄に詰め込んだ。

その鞄を運び出すのも一苦労だった。

苦労して車のトランクに載せる。久々の車の運転に最初はひやひやしたが、途中から『まあ、なるようになればいいか』という気持ちに落ち着いた。


このまま海にでも飛び込もうか。

それともどこかその辺にぶつかって、なんだなんだと集まった野次馬達が、後ろに積んだ鞄の中身が転がり落ちるのを見れば、それはもう大変な騒ぎになるのだろうか。


そんな考えにぼんやり浸りながらも、存外スムーズな運転で、目的地へと車を走らせる。

『あの店』に向かって。



「いらっしゃいませ、奥様。お待ちしておりました」



まるで初めからここに来ると判っていたかのように、黒服は女を出迎えた。

予約などしていない。ここに辿り着くまでの道のりは、全くの出鱈目だった。

一体どこをどう走ってきたのか、はっきりと思い出せない。今、この場にいる事自体が奇跡のようなものだった。


車のトランクから次々と運び出される大小様々な鞄をぼんやりと眺める。

あんな物の中にバラバラになった男の身体が詰め込まれているなど、信じられない心地だった。


「あとはこちらで処理致します。本日はご来店、誠にありがとう御座いました」


恭しく一礼する、黒服。帰れという事なのか。

女はまだ一歩たりとも店のなかに足を踏み入れてすらいないというのに。


これから一体ここで、何が行われるのか。


無言で、まるで人形のような視線をこちらに向けるばかりの黒服に、それを訊ねる気は起きなかった。

訊いたところで“まとも”な答えが返って来るとは思わなかったからだ。


女はもと来た道を引き返した。また出鱈目に車を走らせる。

気が付くと家に到着していた。便利なものだ。実に都合が良い。

女は余計なことを考えるのをやめた。


それから、いくらか睡眠を取って、面倒な事を考えなくて済むようになると、途端に空腹を覚えた。

そういえば、小分けにした男の肉の一部を冷蔵庫に仕舞いこんでいた。

ついでに消費期限の近い食材があった事も思い出して、女は他に使えそうな食材がないか、冷蔵庫の中をチェックした。

それらの有り合わせの食材で、簡単な食事を作って食べた。



どれくらいの時間が経っただろうか。

1日だったか、1週間だったか、ぼんやりとしていて、はっきりと思い出せない。


けれど女は余計な事は考えないようにすると決めたので、眠たくなれば眠り、空腹を覚えれば食事を作って食べて、昼間にうっかり寝過ぎてしまうと夜は眠れなくなり、ベッドの中で、いけない、また余計ことを考えてしまう。

夜は余計なことを考えないようにしなければと考えなければならないので、どうしようもなくなる。それは途方も無く疲れる作業だった。


何も考えないようにすること。それが女の人生最大の課題だった。

女は常に考えている。きっと他人からすれば、それはきっとつまらない、くだらない、どうでもいいものであるとしても。女は考えずにはいられなかった。


とても、疲れた。




深夜、電話が鳴った。


『旦那様の培養人肉が完成しました。どうぞ、お越しくださいませ』


そう、余計なことは考えなくていいのだから。


女は家を飛び出した。今度は店までの道のりどころか、車を走らせたどうかすら定かではない。

女は店の前に立っていた。

黒服に案内され、今度こそ店の中へと足を踏み入れた。

ここはいまの女が生まれた場所でもあった。

そう思うと、何だか不思議な気持ちだった。


「こちらです」


意識をぐっと引き寄せられたような感覚だった。

店の中に入った瞬間から、やはりどこをどう歩いてきたの記憶はなく、気が付くと薄ぼんやりとした部屋の中にいて、目の前には扉があった。

黒服に促され、鈍く光るドアノブを掴んだ。

ぎぃぃぃ………と軋んだ音をたてて開いた、扉の向こう側には。



車椅子に座る、男の姿。

夫がそこに、いた。



「またのご来店、心よりお待ちしております」


 



「ただいま」


男は不思議そうに女を見上げた。


「まだ言葉はわからないのよね?」


ぽかんと口を半開きにしたまま、わずかに、男は首を傾けた。

何故だか、その姿が無性に可愛らしく思えて、女は無意識に笑みを零した。



「お帰りなさい、あなた」



女はこの部屋で男と生活するようになってから、今この瞬間になって、初めて2人っきりになれたような心地で満たされた。

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