エトランジェの涙

Phantom Cat

1

 カッカッと小気味よい音を立てながら、白いチョークが黒板の上を滑っていく。


「……と、このように作用積分の変分をゼロと置くことで、オイラー・ラグランジュ方程式が導かれるわけです」


 一通り数式を書き連ね、ようやく教室を振り返った私がそこで見たものは、ほぼ予想通りの光景だった。


 クラスの約三分の一の学生が机に突っ伏している。辛うじて意識のある学生たちも、どうにも要領を得た表情をしていない。ラグランジュ形式の解析力学なんて、基本中の基本なのだが……


 そんな周囲の惨憺さんたんたる状況にもかかわらず、彼女は今日も教室の一番前、それも教卓の目の前の席で、背筋を伸ばし大きな眼をパッチリと見開いて私を見据えていた。


 この女子学生……学生でないかもしれないが……は、間違いなく私のこの科目を履修していない。クラスの人数は四十人ほどで、私もほとんどの学生の顔と名前が一致しているのだ。なのに私は彼女の名前を知らない。なんとなれば、彼女は一度も出席カードを書いたことがないのだ。まごうかたなき「モグリ」の聴講生である。


 他学科の学生かもしれない。また、大学というところはセキュリティが比較的緩く、学生でなくても教室に入ってくることが可能だ。少なくとも私の所属する大学のキャンパスはそうなっている。だから、こういう「モグリ」の聴講生が時々現れることも、全くないわけではない。


 しかし……


「物理学特論」などという科目を、わざわざモグリになってまでも聞きたいなんて、よっぽど変わっている女の子だ。だけど彼女はいつも私の目の前で熱心に話を聞いている。しかも、あまり化粧っ気は感じさせないのにもかかわらず、ルックスが恐ろしいほど整っているのだ。黒髪ロングの色白で、顔立ちは日本人離れする程に彫りが深い。ハーフなのかもしれない。クラスの男子はモーションかけたくて仕方がなさそうにしているが、どうにも経験値が足りない奴らばかりなのか、結局何もアプローチできないようだった。


 ただ私は、彼女といつかどこかで会ったような気がしてならなかった。なぜそう感じるのかは分からないが、とにかく気になって仕方ない私は、一度彼女と話をしてみたいと思っていた。しかし、なぜか彼女はいつも講義が終わると、そそくさと姿を消してしまうのだ。


 ところが。


 本日の講義が終わり、私が帰り仕度をしていた時だった。


「朝川先生」


「はい?」


 声の方に振り向くと、例の彼女が笑顔を私に向けていた。身長は一六〇センチほどだろうか。日本人女性としては若干背が高い方だろう。しかし体型は標準的な日本人女性のそれに近い。身にまとっているのは薄いレモンイエローのワンピース。


「先生、これから少しお時間ありますか?」


 なんと。


 彼女の方からアプローチを仕掛けてくるとは……男子学生の嫉妬の視線が、粒子加速衝突器コライダーのビームのように私に収束するのが分かる。とは言え、私自身は決して自分が女子学生にモテるタイプだと思えないのだが……よく考えてみれば、そもそも私の科目を女子学生が履修すること自体が極めて稀なので、その結論は統計的に有意シグニフィカントではないかもしれない。


 それはともかく。


「あ、ああ。ありますが……何か?」


「良かった……」


 なぜか彼女は大げさに安堵のため息をつく。


「実は、少し内密にお話したいことがありまして……研究室にお邪魔していいですか?」


 おっと。


 周囲の男子学生たちによる嫉妬のビーム強度インテンシティが、さらに上がってしまったようだ。だけどそれが、ちょっとした優越感を私にもたらす。


「ええ、いいですよ。私も君と話をしたいと思っていたからね」


 私がそう言うと、彼女はふわりと微笑んだ。


―――

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