第3話 見過ごしてきた現実 前編

  1


 ジレンが6歳になった。

 いつもならすでにフィンポートの街へ引っ越していた頃だ。だが今回俺は引っ越しを提案しなかった。シスター・ノアの希望は、自身が生まれ育ったこの地で、戦争の被害が多く出るであろうこの地で、子供のために尽くすことだったからだ。


 大体、フィンポートにはすでに孤児院がある。街へ引っ越せば暮らしが便利になって仕事もできるが、今の俺なら近くの街へ飛んでいくことも簡単だし、山から金銀宝石を掘り出すことも造作もない。孤児が増えればジレンの友人も増えるだろうし、召喚士修行もここでできることを考えれば、引っ越す理由は特に見当たらなかった。


 ところが、これもひょっとすると因果律の影響なのかもしれない。今度はシスター・ノアの方から提案してきたのだ。


「ジレッド。残念だけど、この孤児院を捨ててどこかの街に逃げるしかないわ」


「どうしたんだ、いきなり。この孤児院はおまえの生まれ育った大事な場所だし、おまえの夢はこの孤児院を大きくすることなんだろう?」


《過去転移》の度、何度彼女から聞かされたか分からない、できればこの孤児院から離れたくない――と。


「最近、通りがかる人がみんな言うでしょう? 帝国軍の侵攻が迫ってるって」


「なんだ、そのことか」


 俺がが生まれる一年前のフェロキア暦199年。ロヴェーレ帝国が隣国リーンバル王国に侵攻を開始。長い戦争が始まった。


 圧倒的な国力を持つ帝国だったが、7年が経った今も、戦線は膠着している。このグラストル公国始め、多くの同盟国――もともとフェロキア同盟という同盟で繋がっていたのだが――がリーンバル王国を支援したからだ。業を煮やしたロヴェーレ帝国は、間もなくこのグラストル公国へも兵士を差し向けることになる。


「もし帝国軍が攻め込んできたら、ジレンやティアナがどんな目に遭うか分からないわ。帝国軍は占領した土地の人を奴隷にするっていうし」


「いや、別に帝国軍なんて追い払えばいいだろう」


 何気ない俺の言葉に、シスター・ノアは目を白黒させた。


「あ、あなたなにを言ってるの? 軍隊よ? それも帝国の。追い払うなんてできるわけないじゃない」


「いや、簡単だ。俺の召喚術なら」


《過去転移》を繰り返していたとき、帝国軍と戦うことは何度もあった。軍勢と戦う方法、蹴散らす方法ならいくらでも知っている。


「そうか、シスターはいつだって自分のことよりジレンたちを優先してくれたんだったな。だが大丈夫だ、俺を信じてくれ。帝国軍ごときにおまえの理想を邪魔させはしない」


「……本当に、本気で言ってるの?」


 ジレンやティアナの命が懸かっているのだ。さすがのシスターも慎重だった。


「さて、どう言ったものかな。召喚術の真髄を見せようか? 大地を割って雷を落とすぐらい簡単なんだが」


 俺は本気だった。シスターも俺の言葉を冗談とは取らなかった。やがて真剣な顔のまま頷く。


「いいわ、他でもないあなたがそう言うなら、信じる。あなたはジレンを友人の子だと言っていたけど、あなたのジレンへの接し方は実の父子にしか見えないもの。あなたがジレンやティアナを危険にさらすようなことをするとは思えないわ」


 少々誤解があるのだが、訂正する必要があるとも思えなかった。


「ああ、信じてくれ。それに帝国軍が攻めてくれば、この地に残ってる人々は難民になるはずだ。助けを必要とする子供も出てくるだろう」


「わたしもそう思う。なにより、ジレンやティアナのこともあるわ。二人はこの孤児院に捨てられたていたけど、きっとなにか事情があったはずよ。いつご両親が迎えに来てもいいように、できるだけこの地にいたかったの」


「……そうだったのか」


 数えきれぬほどの《過去転移》を経てて、彼女がこの地にこだわる理由をようやく知った気がした。一方で、《過去転移》を繰り返していた間、どれだけ俺が自分のことしか考えていなかったのかと赤面したくなる。


 シスター・ノアはそこまで俺のことを考えてくれていたのだ。ならば俺も全力で彼女の理想に殉じよう。


 大体、俺は帝国軍が嫌いだ。連中が侵攻してきたおかげでシスター・ノアは苦労することになるし、“戦場の蒼雪”シルビアも帝国軍の捕虜になる。帝国軍が来るからといって逃げるというのはなんとも腹の立つことだった。


  2


 一月も経たないうちに、帝国軍の侵攻は始まった。


 人間というのは「自分だけは助かる」とか、希望的観測を持ちたがるものだ。それに住み慣れた土地を離れるというのは大変重い決断だ。行くアテやツテもなければ、浮浪者にでもなるしかないのだから。


 だからだろう、この地に残っていた人々が難民となって移動を開始したのは、帝国軍の侵攻とほぼ同時だった。


 俺にとっても慌ただしい日々が始まった。まずはジレンに自衛の術を教えねばならなかった。すでに大地の精霊と契約できていたジレンだが、新たな精霊と契約させている時間はない。幸い、ジレンは俺が契約した精霊を行使できるのだ。


「今から教える真名を覚えておけ。そうすればおまえにも地水火風の精霊が扱える。どうしても必要になったら、おまえがティアナやシスターを守るんだ」


「うん、分かった。僕、絶対みんなを守るよ」


 通常の召喚士なら、真名を伝えるだけで精霊が召喚できるという事実を理解できないだろう。だが他の召喚士と接触したこともないジレンは、疑問を差し挟むことなく素直に受け入れた。


 そして間もなく、この孤児院に難民が訪れるようになった。近隣に残っていた農民たちだ。


 最小限の荷物だけを持ち、疲れ果てた顔で移動を続ける難民たちに、シスター・ノアが手を差し伸べないわけもない。


「せめて一晩だけでもゆっくりしていって」


 と食事と宿、ついでに風呂まで提供した。当然ながら食材調達や湯沸かしは俺の仕事である。ジレンも手伝ってくれたのは助かったが。


 農民が風呂になど滅多に入れるものではない。これほど厚遇しては、居心地のよさに孤児院に居着く難民も出てくるのでは――と思ったが、そんなことはなかった。


「ありがとうよ、おかげで一息付けた。だが帝国軍が来てるんだ、あんたたちも逃げた方がいい」


 誰もがそう言い残し、翌日には出て行ったのだ。無理からぬことではある、本当はここにいた方が安全だというのに。


 変化といえばもう一つあった。俺の寝床が狭くなったのだ。


「ジレッド……。なんだかこわいよ……」


 子供ながらに普段と違う日常が――戦火が迫っていることを感じたのだろう、ティアナが俺のベッドに忍び込んでくるようになったのだ。


 それだけならいいが、ティアナが俺のベッドに来たことでジレンも不安を感じ、最終的にシスター・ノアまで俺のベッドに忍び込んできたのだ。


「み、みんな一緒の方がいいでしょ!」


 枕を抱いて顔を赤くしながら俺の寝室に入ってきたシスターの姿を見て、俺は危うく笑ってしまうところだった。余談ながら四人で寝た上にティアナかジレン――恐らくティアナ――がおねしょしたせいで俺のベッドは大変なことになる。


 そしてついに、その日は訪れた。帝国軍の尖兵が、間近に迫ってきたのである。


  3


 最初、その一報は孤児院に立ち寄った難民によってもたらされた。

 彼らは大事な荷も放り捨てて、着の身着のまま息も切れ切れに孤児院に辿り着いたのだ。


「どうしたの、なにがあったの? 誰かと思ったら、モレル村の人たちじゃない」


 シスター・ノアは彼らに休息を勧めながら事情を聞こうとした。

 モレル村。一番近い農村で、俺も物々交換のために立ち寄ったことがあった。


「シスター、無事だったんだな! あんたたちもすぐ逃げた方がいい、帝国軍がそこまできてるんだ! 俺たちの村にやつらが来たから、慌てて逃げてきたんだ……」


「なんですって……!?」


 シスター・ノアは俺を見た。ついにそのときが来たと言いたげに。このときほど不安そうな顔をしてる彼女を見たのは初めてだった。


 だから俺は言った。シスターやティアナの心配を解消するために。


「心配するな……と言っても無理か。分かった、様子見ついでに追い払ってこよう」


 俺は散歩にでも行くような気軽さで言ってみたが、シスター・ノアは不安そうだったしティアナもシスターの修道服を掴んで話さない。これは少し派手な召喚術を使う必要がありそうだった。


「ジレッド、みんなは任せて!」


 ジレンは一人だけ平気な顔をしていた。それがティアナを元気づけるための強がりであることは明白だったが、その気概は称賛してやりたいところだった。


「安心しろ、今日は俺だけで済むさ」


 実際、6歳の子供に孤児院を守れ――などと言うのは無茶な注文だろう。ただ、俺の教えた精霊を使えば、帝国軍がやってこようと簡単に追い払えるはずだった。もっとも、ジレンには実戦経験が足りていないので危険はあるが。


「じゃあちょっと行ってくる」


 シスターたちを安心させるため、俺は派手に移動することで力の一端を見せることにした。重力と大地と風の精霊による超高速移動である。


 まず俺自身にかかる重力を弱める。次に俺が乗っている地面を飛ばすことで斜め45度方向へ飛び出す。重力が弱まっている俺は、とんでもない速さで射出される。


「ジレッド、すごーい!」


 はるか後方からティアナの無邪気な声が聞こえた。だがそれも一瞬で、すぐ聞こえなくなる。


 風のせいだ。俺は風の精霊に命じて進路上の空気抵抗を弱めつつ、追い風を生み出さなければならなかった。後ろからの声などすぐ聞こえなくなる。


「さて、問題は帝国軍がどこにいるかだな」


 隣のモレル村が襲われたことは分かっている。だがまだ帝国軍が滞在しているとは限らない。一部かあるいは全部が、次の標的として孤児院に向かっている可能性もある。決して見落とすわけにはいかない。


 間もなく俺は平原地帯を抜け、近くにある森の上空へ入った。辺り一帯を燃やすとか破壊するとかならどうにでもなるが、森の中にいるかもしれない帝国軍や難民を見つけるとなるとさすがに骨が折れる。


 幸い、道沿いならばなんとか木の密度も少なく、視界が確保できる。


 このとき、俺はすべてを楽観的に考えていた。帝国軍を追い払うことはたやすい。そうすればまた孤児院に戻ってシスター・ノアの理想を手伝えばいい、それだけのことだと。

 だが、このすぐ後、俺は人生を一変させるような出来事に遭遇することになる。この世でもっとも聞きたくない声を耳にしたのだ。


 小さな子供の悲鳴である。

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