126.まだ、このぬるま湯の中に
ヒルダからの使者が大神殿にやってきたのは、あの騒動から三日経ってからだった。
やってきたのはヒルダの後ろで悲痛な顔をしていた文官さん。親書をわたしに渡すと、忙しいのだとすぐに帰ってしまった。それでもその顔は何だか生き生きしていたから、この親書にも何か良いことが記されているのかもしれない。
アルトさんの部屋に招かれて、コーヒーを用意してから、わたしとアルトさんはその親書を見ることにした。魔王の紋章で封蝋がしてあって、それがうすぼんやりと光を放っている。
「クレアと俺宛になっているだろう。俺達にしか開けないように、設定されているな。それけ重大な事というわけだが」
「きっとあの人達の事ですよね」
アルトさんは頷いて、コーヒーを口にする。わたしがその封蝋に触れると、パキン――と高い音を響かせてその封蝋がひび割れる。
開いた封筒からは、ふわりとマグノリアの香りがした。
コーヒーカップをテーブルに置いたアルトさんが、わたしの取り出した羊皮紙を覗き込む。そこには流れるような美しい文字で、時節の挨拶から始まっていた。
そして――。
「……ううん、やっぱりというか、なんというか」
書かれていたのは、『あの男達はシュトゥルム王国の者であり、国王と勇者の命を受けていた』との文言。それから『あの男達自ら守神を討つ時もあれば、また、その土地の者に暗示をかけて討たせていた』とも。
「……グロムを狙ったのが、麓の村の猟師さんだったっていうのは、そういう事だったんですね」
「そうだな。それにしても暗示か……」
「暗示というか、勇者の呪術でしょうね。『魔物を増やして世を乱し、それを魔族の仕業と
わたしは手紙にあるその文言を、指で弾いた。
それにしてもよく三日でここまで吐かせたものだと思う。一体ヒルダ達はどんな手を使ったのかと考えて……空恐ろしくなってわたしは考えるのをやめた。
「しかしこれを証拠に、戦争は大きく動くな」
「そうですね。これ以上守神達が狙われる事もなくなるといいんですけれど」
「その為にも、俺達は俺達の出来る事をしよう」
宥めるようにアルトさんがわたしの頭に手を乗せる。ぽんぽんと優しく撫でられるのが気恥ずかしいのに心地いい不思議。
「はい、では……やりますか」
わたしは封筒に手紙をしまうと、それをテーブルの上に置いた。牛乳をたっぷり入れたカフェオレをぐいっと煽り、拳を握るとアルトさんが笑う。
「魔式はできたのか?」
「理論上は。あとは作ってみないと分からないですねぇ」
わたし達はソファーを離れ、わたしが収納から取り出した敷布に靴を脱いで上がる。アルトさんがその上に鉱石を広げてくれて、わたしはその中から水色の石を二つ選び取った。
父の魔導具帳にあった、気配を消す魔導具と姿を消す魔導具を組み合わせたもの。それを作らないと
「あまり気負うな。お前なら大丈夫だ」
わたしの前に胡座をかいて、銀を両手に練りながらアルトさんが笑ってくれる。
アルトさんがそう言ってくれるだけで、大丈夫だと自信が涌き出てくるから不思議なものだ。
わたしは笑みを浮かべて頷くと肩から力が抜けていくのを感じた。
いつものように鉱石の形を、水を纏った風刃で整えていく。今回は複雑な魔式になるから、少しでも刻みやすいようにと少し大きめのオーバルにした。
それをブローチにして着けようと、アルトさんとは相談済みだ。アルトさんは既に銀をブローチの土台に形成していっている。
ふぅと息を吐く。吸って、また吐く。それを繰り返して集中を高めてから、わたしは魔力を人差し指に集めて魔式を刻んでいった。
わたしなら大丈夫。今までだって難しい魔導具を作ってきた。オリジナルの魔式だって作れているし、魔導具師としてもレベルアップしている。
それに、わたしは一人じゃない。アルトさんが傍にいてくれる。そう思うだけで胸の奥に明かりが灯る。
だから大丈夫。
魔式は問題なく刻み終えた。刻んだ二つの鉱石を並べて、わたしはそれに手を翳す。あとは魔力を流して回路を繋ぐだけ。
こちらを見ているアルトさんが、その瞳に気遣う色を宿しているのに気付いて、わたしは問題ないと笑って見せた。
翳した両手から魔力を流す。流した魔力は鉱石に吸い込まれていって、徐々に魔式が光を帯びてくる。刻んだ通りの順番で式が最後まで繋がって、鉱石自体が光を放つ。一層強い光が溢れたら、あっさりとそれで終わりだった。光が収束した後には穏やかに輝く水色の魔石が二つ並んでいた。
「……出来ました」
「流石だな。合わせてしまおう。押さえていてくれ」
アルトさんの作ってくれていた土台に魔石を嵌める。恐ろしいくらいにぴったりなのも、いつもの事。アルトさんが魔力を流すと、意思を持ったように銀が揺らめいて、魔石がしっかりと固定された。
「試してみましょうか。頭だけ隠れなかったとか、笑えないですし」
わたしはそう言うとブローチを早速ワンピースの胸元に飾った。そして魔力を流す。
呼応するようにブローチが一度輝いて、すぐにその光が消えていく。それだけだった。わたしから見た、わたしの腕も体も変わったところは何もない。あれ、失敗したかな。
そう思ったわたしは、目の前に座るアルトさんに視線を向ける。しかしアルトさんは驚いたようにわたしを見るばかりで、視線がなかなか重ならない。……これは、もしかして。
わたしは音をたてないようにそっと立ち上がると、アルトさんの背後に回った。それでもアルトさんは振り向かない。周囲を見回すばかりだ。
「クレア? すごいな、一瞬でお前の姿が消えた」
おお? 自分ではそれが分からないけれど、アルトさんからは見えていないという事か。後ろにいるのに振り向く様子もない。この超人の気配探知に引っ掛からないなんて、わたしはやばいものを作ってしまったんじゃないだろうか。
「見えないです?」
声を出すとようやくアルトさんが振り向いた。しかし視線は合わない。
「そっちにいたのか。見えないし気配も感じない。これは成功だな」
わたしは流していた魔力を遮断した。それでアルトさんにもわたしの姿が見えるようになったようで、ようやく東雲と視線が重なったのだった。
「アルトさんも試してみてください。わたしの魔力でだけ反応するものだったら困るので」
「そうだな」
アルトさんも同じようにシャツの胸元にブローチを飾る。そして魔力を流すと……消えてしまった。一瞬で音もなく。
「わ、ほんとに見えない。……気配も全く分からないですねぇ」
探っても探っても、アルトさんは見つからない。わたしはきょろきょろと周りに顔を向けるけれど息づかいさえ聞こえない。
「うん、これは成功で――」
刹那、わたしの頬に何かが触れた。柔らかい、温もりのある……。
それが何か思い当たった瞬間、自分でも自覚するほどに顔が燃えた。それが触れた場所が熱を持っている。いまのって……!
「アルトさん!」
抗議の声をあげると、笑い声は近くから聞こえた。
魔力を切ったのか、肩を揺らすアルトさんが現れる。わたしの目の前に。
いまのがなんだったのか、はっきりさせる勇気もなく、わたしはただアルトさんの未だに揺れる肩に拳をぶつけた。わたしのパンチでダメージが与えられるとは思っていないけれど、それでも何かしないと気が済まない。
アルトさんはわたしの拳を軽々と受け止めると、わたしを真っ直ぐに見つめた。
「……そんなに赤い顔をして、期待してもいいのか?」
「アルト、さん……?」
掠れた声に時が止まったようだった。東雲の瞳の奥に熱が揺らいでいるのを感じるけれど、それは瞳に映ったわたしの、かもしれない。
ふ、と笑ったアルトさんはわたしの手を離し、いつもと変わらぬ優しい手つきで頭を撫でた。二人の間にあった不思議な感傷を吹き飛ばすように。
「これで
「は、はいっ! あとはマティエルをぶっ飛ばすだけですね」
「見つからないための魔導具だろうが」
「そうでした」
わたしとアルトさんの間にあるのは、いつもの気安い雰囲気。
言葉の意味を、触れた温もりを、宿る熱を問う勇気はわたしにはまだなかった。それが狡いことだと自覚しても、わたしにはまだ――。
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